永遠の伴侶(改定前)

尾羽打ち枯らす

51

　薄墨の雲。湿気た風。
　じめじめとした空気が肌に纏まとわりつく。
　夏の蒸し暑い陽気の中、大勢の男たちが嫌な汗を掻かきながら兵舎に向かって列を成して歩いていた。

　その集団の中で、一際背の低い男が綌げきで額を拭ぬぐいながら言う。
「こっちはなんだが暑ぇね。森がねぁがらかな」
　歩み続ける男衆から頭一つ飛び抜けている男がその言葉に答える。
「そりゃあるかもしんねぇな」
　そしてにやりと笑みを浮かべる。
「安心しろ。これからもっと暑くなるぞ」
「うへぇ」
　背の小さい男は心底嫌そうな顔をした。
「はははは！まあこれから慣れていくんだな」
　バシバシと大柄な男は小柄な男の背中を叩く。と、あまりに強いその力で彼は激しくむせるのであった。



　団体が兵舎に着くと、仲睦まじく話していた二人に一人の男が近づく。
「勇豪ヨンハオさん」
　呼ばれた方に勇豪が振り返ると、そこには数か月振りの懐かしい顔があった。
「おお、浩源ハオヤン。久し振りだな」
「お久し振りです」
　勇豪と浩源は固い抱擁を交わす。
　体を離した勇豪は満面の笑みで浩源の肩に手を置く。
「元気にしてたか？」
「ええ。勇豪さんは……」
　そう言って浩源は勇豪を仰ぎ見る。
　麻布の粗末な着物を着た勇豪。もとより希薄であった貴族らしさは、もう微塵も残っていない。
　鍛え上げられた体躯は更に筋肉を増し、着物の上からでも盛り上がっているのが見受けられる。
　色黒な肌は色艶が良くなり、表情もどことなく柔らかい。勇豪は間違いなく王宮にいた頃より溌剌はつらつとしていた。
「……若返りました？」
「は？なんだそれ」
　破顔する勇豪。つられて浩源も顔を綻ばせた。

「あのぅ……」
　不意に別の声が割り込む。
「勇豪ヨンハオ様のお知り合いだが……？」
「お、すまんすまん。紹介してなかったな」
　勇豪は声の主を指差す。
「こいつは忠山ゾンシャン。今回の徴兵で一緒に来たんだ」
「初めまして。忠山と申します」
　忠山が緊張した面持ちでぎこちなく拱手きょうしゅする。
「で、こっちは浩源ハオヤン。まあ……昔っからの付き合いだ」
　と、勇豪に紹介された浩源は、柔和な笑みで拱手を返す。
「初めまして。浩源と申します」
　小綺麗な風貌に丁寧な所作の浩源。見るからに貴族の彼に忠山は委縮してしまう。
「そ、そんた、おいみだいなのに丁寧にあいさづしねぁでください」
　それを勇豪が笑い飛ばす。
「ははは！そんな緊張すんなって。こいつは誰にでもこんな感じなんだ。あまり気にしなくていいぞ」
「は、はあ……」
「そうそう。護衛長はこれが普通なんで。気にするだけ損々」
「わッ！」
　忠山は驚く。突然後ろから肩を掴まれたからだ。
「だ、誰だが？」
　振り向くと、犬のように愛嬌のある顔の青年がいた。
「君保ジュンバオさん。初対面の方にそれは失礼ですよ」
　浩源がその青年を注意する。
「でも、こいつ庶人でしょう？そんな「身分は関係ありません。人としての礼儀です」
「う……はい……」
　叱られた君保はしゅん、と身を縮めて“すまない”と謝った。
　忠山は慌てて首を振る。
「そんたにごしゃがねぁで*けでください。おいが庶人であるのは違わねぁし。むしろ場違いなのに混じってですまねぁ」
　すると浩源は忠山に微笑み、そして勇豪を見る。
「いいんですよ。勇豪さんのご友人なのでしょう？なら大丈夫ですよ」
　その言葉に忠山は頬を染める。
「ゆ、友人……そう思われるだば光栄だ」
「おいおい、今更そんなことで照れるなよ」
　勇豪は忠山を軽く肘で小突き、朗らかな笑顔を浮かべた。

　ところが急に真剣な顔つきに変わる。
「しっかしまあ……まさか本当に連れ戻されるとは。お前も強情な男だな」
　勇豪ヨンハオの言葉に浩源ハオヤンは目を細める。
「約束したじゃないですか」
「俺は約束したつもりはない」
「ああ、それは私が間違っていました。期待してくれてたんですよね」
「そうは言ったけどよぉ……徴兵にかこつけて呼ばれるなんて思わなかったんだよ」
　後頭部を搔かきつ言う。
「俺はもう都城こっちに帰ってくることはないと思っていたからな」
「ふふ。たった数か月の隠退生活はどうでしたか」
「もっとゆっくりさせろよな」
「じゃあ来なければ良かったじゃないですか」
「ぐ、それは」
「……貴方は生粋の軍人です。大人しく戦いくさを傍観するなんて出来なかったんでしょう？」
「まあ、な。あんな片田舎まで知らせが来るんだ。かなりでかいンだろ？」
「ええ。勇豪さん以外にも、追放処分や、禁固刑の貴族たちを引っ張り出す許可が出てるくらいですから」
「そりゃ、なかなかだな」
　にやり、と口角を吊り上げた浩源。
「ですので。貴方も気兼ねなく暴れていただいていいんですよ？」
　そこにフッと陰が過よぎる。
「ただ……身分を剝奪されているのに変わりはないので、前線をお願いしないといけないのが心苦しいのですが」
　浩源が悲痛な面持ちになる。それに反し勇豪はケロッとしていた。
「なんだ、そんなこと気に病んでたのか。別にお前が上官なんだから好きなように使え。俺はただその職務をまっとうするだけなんだからよ
「それは、そうなんですけど……」
「なんだ、らしくないな。大丈夫だって、俺の腕は知ってるだろう？」
「勿論。誰よりも知っていますよ」
　そう言った浩源の顔には勇豪に対する絶大な信頼が浮かんでいた。それを受け止めた勇豪は、腕を組んで胸を反る。
「ああ。任せな護・衛・長・」
　力強い返事。だが浩源は困り眉になる。
「……貴方に護衛長と呼ばれるのは落ち着きませんね」
　勇豪は一寸、目を丸くし、そしてどっと笑う。
「はは！俺も落ち着かないわ！」
「ふふ、それこそ“らしくない”ですからね」
「お前も言うようにな…………元からか」
「もうお忘れになったんですか？酷いお人ですね」
「悪かったって」
「大丈夫ですよ。貴方がそういう人だというのは重々承知ですから」
「お前には敵わんな」
「ありがとうございます」
　浩源が堅苦しく、それでいてほくそ笑みながら礼を述べたので、勇豪は更に声を上げて笑うのであった。



　そんな風に二人だけで話していたのを、忠山ゾンシャンと君保ジュンバオは、ぽかん、と口を開けて見守っていた。
「ご、護衛長って軍の中でもえらぇふとだよね？」
　忠山は震える声で君保に聞く。
「お前、そんなことも知らないのかよ。護衛長は軍の中で一番偉い役職だぞ」
　そう言った君保もどことなく落ち着きがない。
「え、ていうごどは、勇豪ヨンハオ様はもっとえらぇふとだったんだが？」
「そりゃもう昔のことだ。今はただのしがない男さ」
「勇豪様！」
「おう。放っておいてすまんな」
　勇豪は後ろを指差しながら、忠山に話しかける。
「そろそろ訓練の時間なはずだ。俺らは下っ端だから早めに行かないとだぞ」
「そうなんだが？」
「おう。案内してやるよ」
　忠山が大きく頷けば、勇豪はスタスタと兵舎の中に入っていくのであった。



「えっと、あの方って……」
　君保は遠ざかっていく勇豪を目で追いつつ、浩源ハオヤンに訊ねる。
「貴方は入れ違いでしたもんね。勇豪さんが噂の“棕熊ヒグマ”ですよ」
「ああ、やっぱり」
　納得顔の君保に浩源は微笑む。
「でかいでかい、とは聞いてましたが。あそこまで大きいなんて。噂以上ですね」
「そこですか」
「だってまだどれだけ強いのか分からないですし」
「たしかに、それもそうですね。機会が合ったら稽古してもらいなさい」
「げ、厳しいって話じゃないですか」
「そうですよ？しっかりとしごいてもらってきなさい」
「うへえ……」
　君保が口を歪ませた、そのとき。
「ぶぇーーッきし！」
「わッ！」
　大きなくしゃみが響き渡る。と同時に、君保がビクッと肩を跳ねさせる。
　どうやら勇豪のくしゃみがここまで届いたようだ。
「び、びっくりしたぁ……」
　そう呟き胸を押さえる君保と、クスクスと笑う浩源。
「ふふ、先が思いやられますね？」
「ううう……不意打ちだったから仕方ないじゃないですか」
「そうですね。そういうことにしておきましょうか」
　尚も笑われ続けた君保は、体を縮こませるのであった。









　*ごしゃがねぁで…怒らないで。