『憂国のモリアーティ』に見る近代社会思想史

野咲

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ヘーゲル

神の摂理としての弁証法

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 前回まで、ひたすら弁証法について語っていたんですけど、これは私のせいじゃなくて、ウィリアムが悪いんです。なんか事あるごとに、ウィリアムは弁証法を使おうとしますよね。確かにこの世は矛盾に満ちているので、相反する二つの命題に出会うことは多く、そのたびに弁証法を使うのはおかしくはないんですけど、それにしても弁証法……好きだなって思っていました。それで、この人は相当ヘーゲルを読み込んで傾倒しているんじゃないかと思ったんです。
 まあ、ウィリアム本人は弁証法としか言ってなくて、ヘーゲルが好き! みたいな発言は皆無なので、「ウィリアムはヘーゲルが好き」設定は私の妄想でしかないのですが、このまま突き進みます。

 ではなぜウィリアムはそんなにもヘーゲル哲学に惹かれたのか。理由は数多あるとは思うのですが、私が思うに一番の理由は、彼はヘーゲル哲学に出会うことで、新しい世界の解釈方法を得たというよりも(いや、そういう面も大いにあったとは思いますが)、彼がなんとなく持っていた世界の理解の仕方や考え方に、ヘーゲルが論理的な説明をしていたことがあるのではないかと思っています。

 まず、一番大きなカテゴリとして、宗教の問題があります。
 ウィリアムの生きた時代というのは、科学が大きく進歩し、それによって社会の仕組みも大きく変わり、伝統宗教の教理の土台が揺らいだ時代と言えるでしょう(本当はその前から結構揺らいでいると思いますが、科学の驚異的な発展でさらに揺らいだ時代、と言えると思います)。ウィリアムは相当の読書家でしたから、幼い時から自然科学の知識も十分に持っていたと思います。
 同時に、彼ははっきりとキリスト教を信仰しているようです。多くの方が指摘しているように(というか私はみなさんの指摘を見て「ほんまやな」って思ったんですけど)、彼は、かなりキリスト教的世界観に基づいた発言が多い人物です。「全ての悪魔は地上にいる」という彼の宣言は、どこまでもキリスト教的世界観に基づくものです。
 宗教と科学の関係をどう読み解くかというのは、現在においてもなかなか難しい問題でしょう。敬虔なキリスト教徒であり、同時に優秀な科学者である人物はたくさんいますが、そういった人たちも、一度はこの問題にぶつかったことがあるんではないでしょうか。

 ヘーゲルもまた、この問題に取り組んだ人物の一人でした。
 ヘーゲルは敬虔なプロテスタントの家庭に育ち、父親に牧師になることを嘱望されて、神学を学ぶためにテュービンゲン大学に進学します(ルター派牧師のエリートコースです)。ここで深く神学と哲学を研究するうちに、彼は当時のキリスト教に対して懐疑を深めていきます。結局若き日のヘーゲルはこのキリスト教への反感と懐疑を払しょくできず、牧師への道を諦めることになりますが、ここから数十年の研究を重ねて、彼は宗教哲学の一大体系を完成させました。

 以下にヘーゲルの宗教哲学について多少述べますが、これはヘーゲルの思想を知るうえでどうしてもはずせない部分でありながら非常に難しく、また私にキリスト教的素養が足りない部分もあり、理解が深くありません。よってここには非常に限られたエッセンスだけを取り上げますので、その全体像については文献を当たっていただきたいと願います。

 ヘーゲルはまず、世界が創造される以前の神について考察します。この神は世界を創造した創造主なので、世界とは別のもの、世界の外に在る神です。これを永遠の理念と呼びます。この非実体の理念は内的矛盾により運動性があり、矛盾の高まりによって次の段階にいたります。
 永遠の神がおのれを規定し、根源的に分割し区別された他なるものを自由で自立的なものとして開放すると、この自立的他者として世界一般が成立します(天地創造)。それは自然世界と有限な人間の精神世界とに分かれます。このようにして創造されたものは、神の外に置かれた他者です。しかしこの他者たる有限の精神は神を認識しますから、離れている神と関わるという矛盾に陥ります。そして神は分離して置かれたこの疎遠なものを自分と和解させます。ここに神性と人性が一致し、霊が人間に宿るのです。

 多分、ここだけを説明しても分かり難いと思うのですが(そもそも私が理解しきっているとはいいがたいのですが)、ここで注目して欲しいことは、前回見た弁証法の定式がこの中に出てきているということです。矛盾するものを統一(和解)して高次の段階へすすむという弁証法の定式。実は弁証法とは神の摂理、あらゆる事物やあらゆる現象に内在し、それらを支配する神の摂理こそが「弁証法」であるというのが、ヘーゲルの考えの根本にはあります。

 そうすると、ウィリアムが弁証法をやたらと好むことの本質的な理由が見えてくる気がします。神の摂理である弁証法を全ての事象において運用することは、彼にとって神の御心に沿う、正しい行為であるでしょう。

 ちょっと話が逸れますが、ウィリアムが形式科学である数学を研究対象として選び取ったことも、もしかしたら彼の信仰と関係があるかもしれません。数学は、ある意味で神が作り出した美しい法則を研究する学問と言えます。パスカルやニュートンといった数学者の研究が、宗教的情熱に支えられていたことも有名です。
 対してホームズは自然科学の中でも新しい学問、化学に興味が向いていますね。化学は目の前にある物質と、その現象に関心があるという点が大きな特徴なのかなと思います。実験の結果、はっきりと目の前で起こる現象に対して検証を重ね、読み解いていく学問ではないでしょうか。数学の方が観念論的な学問であるといえるでしょう。二人の思想性の違いが端的に表れているように思います。

 ヘーゲルの宗教哲学は、従来の教義からかけ離れた、ある種汎神論的なものだったため、彼の思想を無神論者のものだと批判する向きもありますが、少なくともヘーゲル自身は、終生ルター派プロテスタントの信者として暮らし、ルター派の教義を生きたものとするためにこの宗教哲学を完成させたことは間違いのないことです。
 ウィリアムが(おそらく)信仰する英国国教会とヘーゲルのルター派の教義は一致しないにしても、カトリック的な教条主義に対する反感などの共通点はあり、受け入れやすかったのではないでしょうか。
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