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第一章
2-2.「旦那様。私達は、夫婦でしょう?」
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(結局、深夜になってしまった)
星空を見上げながら、ふぅ、と大きく息をつく。
ハタノの表情には、疲労のあとが色濃く染みついていた。
男は一命こそ取り留めたものの、処置中の体力低下が響き、いまは意識を失っている。
まあ、一命を取り留めただけ幸運と呼べるだろう。
(やれることはやりましたが、悔いは残りますね)
治癒魔法は、万能の奇跡ではない。
常に命の取捨選択をし、助けられる所まで助け、無理なものを切り捨てる。
その仕事が理解されないのも、治癒師の宿命だ。
類い希なる”才”があれば何でも治る、不可能を可能にする――そんなのは、大嘘。
そして多くの患者は、自分の命が失われることを想定すらしていない。現実を見ていない。
そこに現実をつきつけるのもまた、治癒師の仕事だ。
(それにしても……)
ハタノは男の台詞を思い出す。
――魔物と一緒に、焼きやがって。
妻チヒロは今日、山にゴブリンを倒しに行く、とは聞いたが……
この件について、尋ねても良いものだろうか?
ハタノとチヒロは、業務上の婚姻関係に過ぎない。
互いの業務に口を出すことは、相手の領域を侵害しているようで、気は進まないが――
(それでも怪我人が減らせる可能性があるなら、話くらいは)
そんなことを考えながら、ハタノは新しい自宅の戸を開く。
玄関は薄暗く、人気はない。
「チヒロさん?」
まだ帰ってないのだろうか。なら先に、湯浴みを済ませておきたい。
ハタノの身体は血と肉と炭の跡がこびりつき、酷いにおいを発していた。
新妻にこんな姿を見せては、驚かれるだろう。
治癒師という優雅な職業に見えても、内情は人の身体を工事する土木作業……と、説明をするのも、忍びない。
なんて考えつつ玄関先を上がったその時――背後でからりと、戸が開いた。
「あ。……旦那様。お帰りなさい」
同じタイミングで帰宅したらしい。
しまった、とハタノは汚れを気にしつつ、でも挨拶しないのも失礼かと、振り返り。
鼻の奥をつく濃密な血の香りに、足を止めた。
チヒロの姿は出立時とおなじ、軽装の鎖帷子。
背中に薄手のマントを羽織り、目立たない緑の衣と刀を下げていた彼女は、しかし……
その白い顔も、銀色の髪も、余すところなく。
血の雨に降られたかのようにべったりと、全身を深紅色に染めていた。
ぽたり、と、彼女の衣服から零れた血が、床を濡らす。
ハタノは彼女の異名を、思い出す。
――血染めのチヒロ。
外道の勇者。
その二つ名に恥じない、濃密な死の香りを漂わせた女――
常人なら驚きのあまり腰を引き、逃げ出したことだろう。
事実、血に慣れているハタノですら、びくっと震えた程だ。
が、ハタノが次にとった行動は、逆だった。
すぐさま彼女の身体に触れ、どこから出血しているのか、怪我はどうなのか、と――妻の身体をまさぐり始めたのだ。
「チヒロさん!? どこを怪我されたんですか。今すぐ見せてください」
「……え?」
「落ち着いて。安心して深呼吸を。私は治癒師です。大怪我であっても、五体満足であるならなんとかなります」
「旦那様、なにを」
「いいから早く脱いで!」
「……服を、ですか? 旦那様、もしかして早速子作りを? あの、気持ちは嬉しいのですが、さすがに身体を清めてからの方がよいかと」
「なんでこの状況で頭が桃色なんですかあなたは!? 怪我をみせてくださいと言ってるんです!」
阿呆か。新妻は阿呆なのか?
しかも何でそんな、余裕めいた呆けた顔をしてられるのか。
ああもうとにかく横になれ、とハタノは彼女を押し倒そうとし、チヒロが困ったように眉を寄せる。
ああくそ、患者の抵抗など構うものか。
いいから傷をみせろと手を伸ばし――
「ああ。旦那様、もしかして勘違いさせてしまいましたか。……私、怪我は、していません」
「え?」
ハタノは思わず、呆けた声。
チヒロは平然と薄く笑い、さらりと血を払って。
「脱いで、確かめて頂いても構いませんが。……すべて、返り血ですので」
「……あ、ああ」
……ようやく冷静になるハタノ。
確かに全身余すところなく汚れているものの、正しく観察すれば、彼女の身より流れている血はない。
失血により青ざめた様子もなく、そもそも彼女は普通に歩いている。
「……す、す、すみませんでした」
大変、気まずくなった。
なんというか、本当に申し訳ない。
「何分、治癒院にくる者の血は大体、本人の血なので。これは重傷かと。しかも理由も聞かず、いきなり脱げ、と」
「いえ。私も事前にお伝えしておけば宜しかったですね。とはいえ、旦那様の方もそれなりに苦労されたようですが」
と、チヒロがハタノの両手を掴む。
その手は泥でもこねたように炭化した肉の痕がこびりつき、なんだか汚らわしいものを見せてしまった気がして、ハタノは慌てて手を隠した。
「すみません、嫌なものを」
「隠す必要は、ありませんけれど?」
「しかし……こんな姿を見せるのは、どうかと」
「血塗れの女を前にして、それを恥ずかしがる必要は、ないでしょう?」
くすくす、と彼女が笑う。
その笑みは静かながら柔らかく、なんだか楽しげだ。
一体何がツボに入ったのか、ハタノにはよく分からなかったが……
ゆるい微笑みを浮かべたチヒロに、ハタノは不思議と見入ってしまう。
本当に……変わった方だな、と。
そしてチヒロは本当に、風変わりな少女だった。
「旦那様。宜しければ、ともに汚れを落としませんか」
「え」
「食事にしろ子作りにしろ、さすがに血と肉に塗れたままでは気が引けます。お互い、今日一日の汚れを落とすべきかと」
「……確かに。では先にどうぞ――」
「何を仰いますか。それだけ汚れた旦那様を蔑ろにする訳にはいきません」
「え」
「旦那様。私達は、夫婦でしょう?」
遅れて、ハタノは理解する。
チヒロはイタズラがばれたように口元をゆるめ、ハタノにそっと耳打ちした。
――私と一緒に、お風呂に入りませんか、と。
もちろん、理由は汚れを流すため。
今日一日の疲労を、夫婦ともに綺麗にしよう、と。
けれどハタノは、顔が上気するのを抑えられず、つい、と目を逸らして頬を掻いた。
星空を見上げながら、ふぅ、と大きく息をつく。
ハタノの表情には、疲労のあとが色濃く染みついていた。
男は一命こそ取り留めたものの、処置中の体力低下が響き、いまは意識を失っている。
まあ、一命を取り留めただけ幸運と呼べるだろう。
(やれることはやりましたが、悔いは残りますね)
治癒魔法は、万能の奇跡ではない。
常に命の取捨選択をし、助けられる所まで助け、無理なものを切り捨てる。
その仕事が理解されないのも、治癒師の宿命だ。
類い希なる”才”があれば何でも治る、不可能を可能にする――そんなのは、大嘘。
そして多くの患者は、自分の命が失われることを想定すらしていない。現実を見ていない。
そこに現実をつきつけるのもまた、治癒師の仕事だ。
(それにしても……)
ハタノは男の台詞を思い出す。
――魔物と一緒に、焼きやがって。
妻チヒロは今日、山にゴブリンを倒しに行く、とは聞いたが……
この件について、尋ねても良いものだろうか?
ハタノとチヒロは、業務上の婚姻関係に過ぎない。
互いの業務に口を出すことは、相手の領域を侵害しているようで、気は進まないが――
(それでも怪我人が減らせる可能性があるなら、話くらいは)
そんなことを考えながら、ハタノは新しい自宅の戸を開く。
玄関は薄暗く、人気はない。
「チヒロさん?」
まだ帰ってないのだろうか。なら先に、湯浴みを済ませておきたい。
ハタノの身体は血と肉と炭の跡がこびりつき、酷いにおいを発していた。
新妻にこんな姿を見せては、驚かれるだろう。
治癒師という優雅な職業に見えても、内情は人の身体を工事する土木作業……と、説明をするのも、忍びない。
なんて考えつつ玄関先を上がったその時――背後でからりと、戸が開いた。
「あ。……旦那様。お帰りなさい」
同じタイミングで帰宅したらしい。
しまった、とハタノは汚れを気にしつつ、でも挨拶しないのも失礼かと、振り返り。
鼻の奥をつく濃密な血の香りに、足を止めた。
チヒロの姿は出立時とおなじ、軽装の鎖帷子。
背中に薄手のマントを羽織り、目立たない緑の衣と刀を下げていた彼女は、しかし……
その白い顔も、銀色の髪も、余すところなく。
血の雨に降られたかのようにべったりと、全身を深紅色に染めていた。
ぽたり、と、彼女の衣服から零れた血が、床を濡らす。
ハタノは彼女の異名を、思い出す。
――血染めのチヒロ。
外道の勇者。
その二つ名に恥じない、濃密な死の香りを漂わせた女――
常人なら驚きのあまり腰を引き、逃げ出したことだろう。
事実、血に慣れているハタノですら、びくっと震えた程だ。
が、ハタノが次にとった行動は、逆だった。
すぐさま彼女の身体に触れ、どこから出血しているのか、怪我はどうなのか、と――妻の身体をまさぐり始めたのだ。
「チヒロさん!? どこを怪我されたんですか。今すぐ見せてください」
「……え?」
「落ち着いて。安心して深呼吸を。私は治癒師です。大怪我であっても、五体満足であるならなんとかなります」
「旦那様、なにを」
「いいから早く脱いで!」
「……服を、ですか? 旦那様、もしかして早速子作りを? あの、気持ちは嬉しいのですが、さすがに身体を清めてからの方がよいかと」
「なんでこの状況で頭が桃色なんですかあなたは!? 怪我をみせてくださいと言ってるんです!」
阿呆か。新妻は阿呆なのか?
しかも何でそんな、余裕めいた呆けた顔をしてられるのか。
ああもうとにかく横になれ、とハタノは彼女を押し倒そうとし、チヒロが困ったように眉を寄せる。
ああくそ、患者の抵抗など構うものか。
いいから傷をみせろと手を伸ばし――
「ああ。旦那様、もしかして勘違いさせてしまいましたか。……私、怪我は、していません」
「え?」
ハタノは思わず、呆けた声。
チヒロは平然と薄く笑い、さらりと血を払って。
「脱いで、確かめて頂いても構いませんが。……すべて、返り血ですので」
「……あ、ああ」
……ようやく冷静になるハタノ。
確かに全身余すところなく汚れているものの、正しく観察すれば、彼女の身より流れている血はない。
失血により青ざめた様子もなく、そもそも彼女は普通に歩いている。
「……す、す、すみませんでした」
大変、気まずくなった。
なんというか、本当に申し訳ない。
「何分、治癒院にくる者の血は大体、本人の血なので。これは重傷かと。しかも理由も聞かず、いきなり脱げ、と」
「いえ。私も事前にお伝えしておけば宜しかったですね。とはいえ、旦那様の方もそれなりに苦労されたようですが」
と、チヒロがハタノの両手を掴む。
その手は泥でもこねたように炭化した肉の痕がこびりつき、なんだか汚らわしいものを見せてしまった気がして、ハタノは慌てて手を隠した。
「すみません、嫌なものを」
「隠す必要は、ありませんけれど?」
「しかし……こんな姿を見せるのは、どうかと」
「血塗れの女を前にして、それを恥ずかしがる必要は、ないでしょう?」
くすくす、と彼女が笑う。
その笑みは静かながら柔らかく、なんだか楽しげだ。
一体何がツボに入ったのか、ハタノにはよく分からなかったが……
ゆるい微笑みを浮かべたチヒロに、ハタノは不思議と見入ってしまう。
本当に……変わった方だな、と。
そしてチヒロは本当に、風変わりな少女だった。
「旦那様。宜しければ、ともに汚れを落としませんか」
「え」
「食事にしろ子作りにしろ、さすがに血と肉に塗れたままでは気が引けます。お互い、今日一日の汚れを落とすべきかと」
「……確かに。では先にどうぞ――」
「何を仰いますか。それだけ汚れた旦那様を蔑ろにする訳にはいきません」
「え」
「旦那様。私達は、夫婦でしょう?」
遅れて、ハタノは理解する。
チヒロはイタズラがばれたように口元をゆるめ、ハタノにそっと耳打ちした。
――私と一緒に、お風呂に入りませんか、と。
もちろん、理由は汚れを流すため。
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