ある探偵<第一部>

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第一章:隠しごと

第十五話:久住亜里沙の隠しごと

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「文治さん、ゆうたか。あんたのゆう通りじゃ。これはな、宗平が夏休みの後、わしんとこへ持って来ゆうたんじゃ。一つは先生に。もう一つは、久住亜里沙に届けてくれ、ゆうてなあ。夏休み使って、書きおったらしい」
 文治は物語の中身を思い出した。作中の宗平は、久住亜里沙が居なくなってから夏休みの間、ぼんやりとして気の抜けた様子だった。察するに、作品の執筆に勤しんでいたからだろう。そんなところにも細かく自身を反映していたとは。
「国木田先生にも一部渡したのは、やはり、事件の真相を知っておいてほしかったから、なんでしょうか」
「そうじゃあ思う。これを読まなんだら、わしは、教科書窃盗について松木惠香や四年生の誰かを疑わずにおれんかったはずじゃけえ。もっとも、宗平からすりゃあ、でえれえ恥ずかしいことじゃった、思うけんど」
「そうでしょうね。まあ、想いも全て慎二のものだと思って書いていたから、叔父さんも少しは、本心を露わにする羞恥も薄かったでしょうが」
「かっかっ。小僧の浅知恵じゃあ」
 国木田老人は、皺を深く刻んで泣き笑いの顔をした。しかし、その顔は、みるみる萎み、暗い影を広げていった。
「ただのう。今となっては、ほんに心残りじゃ。なんも知らんと、宗平は逝きゆうたなら、それはそれで幸せじゃったのか……」
 不穏当なものを感じ取って、文治は唾をのんだ。全ては、宗平の思う通りになったのではなかったのだろうか。
 おそるおそる、口を開く。
「なにか、あったんですか」
「……たしかに、作品は二部あった。一部は、もう文治さんらあに渡してもうたがな。じゃけえ、もう一部はまだ、わしのところにあるんじゃ」
 思わず言葉を詰まらせる。その言葉の意味を反芻し、やっとのことで、文治は声を絞り出した。
「それは……国木田先生が送らなかったわけじゃないでしょう。つまりは……」
「送れんかった。原稿用紙は、宛先人不明で返ってきゆうた」
 ——りん。
 風鈴が鳴る。
 音は文治の身体に清流のように浸透し、揺さぶった。言葉にならず込み上げたものを、文治は喉の奥に感じた。
「では……久住亜里沙は、叔父さんの思いを知らないまま……?」
「そうなるのう」
「松木惠香さんはどうなんです。彼女は、久住亜里沙さんから、別れの手紙をもらっていたわけでしょう。手紙には、差出人の住所なんかが書かれていなかったんですか」
「手渡しじゃったと。あの子んらにも聞いたんじゃが、久住家の新しい住所は、わしが聞きゆうたもんと、同じじゃった。久住には、なんか事情があったんじゃろうが、いっかな分からん」
 国木田は目を伏せた。
 縁側の外で、陽がすっかり落ちている。庭を蝕んだ闇が、国木田に染み入ってしまったように見えた。
「これが、わしの隠しごとじゃあ。宗平は聡いけえ、もしかしたら、届いてないゆうことは知りゆうたかもしれん。そんでも、あん子はわしには何も言わんかった。わしも、何も言えんかった」
 文治はいたたまれず、沈黙した。胸に余る思いがした。
 転校直前まで思いを素直には伝えられず、教科書を隠すことで宗平に近づきたかった久住亜里沙。
 好意に気付き、同じ思いを抱きながらも、素直に表現する術をもたなかった梶山宗平。
 宗平の物語は、町の情景を、匂いを、自然を……そして、宗平を描いた。この物語は、大沢町を去った久住亜里沙が思い出を想起する、追憶の礎となるはずだった。しかし、宗平の心遣いは……内に秘めたる慕情は、届かなかった。
「久住亜里沙さんは……」
 言いかけて、文治は口をつぐんだ。飲み込んだ問いは、言葉にするにはあまりに残酷なものに思えた。
 ——この町をすっかり忘れてしまったのか。
 もう一度、訪れてくれてさえいれば、きっと、宗平の物語は届いたはずなのに。
 国木田は、その言葉に何を思ったか、ああ、と声を上げ、浴衣の胸元から、折り畳まれた紙片を取り出した。
「捨てるつもりで、折ってしもうて、すまんことをした。白紙じゃ思おたけえな。じゃけえ、ちゃんと、意味があったんじゃ。こりゃあ、小説の原稿の最後のページじゃ。わしが、見過ごしゆうたもんじゃ」
 震える指先で、国木田が紙片を広げる。
 格子状に折り目が刻まれてはいるが、それは、『隠しごと』に使われていたものと、同じ材質の原稿用紙だった。文治は、国木田が差し出した原稿用紙を受け取り、ためつすがめつ眺めてみる。升目に、文字は何も書かれていない。だが、枠外にそれはあった。
 ちょうど、原稿用紙の束の右上をクリップで留めてしまえば、見えなくなる位置だ。それは落書きのようだった。だが、宗平が真に伝えたかった思いはこれなのだと、文治は即座に理解した。
「……宗平叔父さんは、やはり分かっていたんですね。久住亜里沙が破いて持ち去ったノートの一部に、何が書かれていたか」
 子供の落書きだ。
 しかし、ただの文字が記号と組み合わさる……たったそれだけのことで、秘められた思いをいとも容易く、端的に表してしまう。それも、どうしようもなく直截に。いっさいの恥ずかしげもなく。
 久住亜里沙。
 梶山宗平。
 それは、二人の名前が書かれた、小さな相合傘だった。
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