秘色のエンドロール

十三不塔

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第三章 虹と失認

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 ⒗


 ――ラウンド4。
 前ラウンドでは、どちらも杯を飲むことはなかった。
 ただし、すでに銅音は二杯。結丹は一杯の毒を受け入れた。
 銅音の変調は収まる気配もないどころか、より激しさを増してくる。
 立っているだけで奇跡だ、と漆間はからかい半分に誉める。
「好機は去った。あとはずぶずぶと泥濘に沈んでいくだけ」
「黙れ、オッサン。この下らないゲームにはもう飽きた、さっさと終わらせてよ」
「フン」と訝し気な上目遣いで佐倉は銅音を見やる。
「言われなくてもこれで終わる」
 主導権は佐倉に移ったらしい。投擲の技能ではこの少女が上だ。漆間よりも銅音たちよりもずっと精緻な技術を持っている。たった一杯の毒では外さないだろう。前ラウンドのミスは二度と繰り返すことはないはずだ。
 精神を統一するため、桃色の頬を二度叩く。佐倉結丹の眼の色がどこか遠く霞んだように感じられた。いわゆるゾーンというやつに没入したのだと見て取れる。外野からどんな妨害の言葉を投げかけようとも今の彼女の耳には入らない。
 ――23:59
 結丹は、滑らかな投擲フォームに入った。
 水晶と穴がまるで見えない糸で結ばれているかのように、わずか未来のポケットを疑うことができない。少女の手にある球は必ず落ちる。そのような結果が、宇宙や神といった絶対的な何かに保証されている、そんな確信めいたものが敵である銅音の内にさえ生じた。
 ――0:00
(お茶会の時間)
『違う、お茶会の終わりよ』
 ――0:00
 時は動き続ける。しかし時刻の表示は凍りついたまま。
 美しすぎる投擲のフォームの終端。
 佐倉結丹は雷に打たれたように倒れ伏した。
 病院の患者の発作で似たような挙動を見たことが星南にはあったが、癲癇の持病が佐倉にあったわけではない。またさっきの一杯の毒がようやく効き目をあらわしたというわけでもなかった。考えられる原因は、外部からの干渉。
「やったの? 奥村さん」
 佐倉結丹は這いつくばって痙攣している。さっきのような演技なのだろうか。そうではない。一投を無駄にしてまで銅音たちを揺さぶるような酔興はしないはず。銅音と奥村があらかじめ仕掛けた、これは罠だった。危険な賭けだったし、勝負の要所においてどう転がるかは大きく運にゆだねられていたにしろ、それは功を奏したのだ。
 何が起こったのか。 
 それは銅音たちだけが知っていた。
 安心院との勝負で使われたフレイ効果弾が、分厚い扉を貫いて、この勝負の場にまで威力を及ぼしたのだった。ゲームの内容と投擲位置さえ割り出しておけば、あとは決まった時間に指向性のマイクロウェーブを解き放つだけだ。情報はあった。奥村はこの背徳の間で行われる四つのゲームについて知悉していたうえ、そのうちのふたつの遊戯が、この位置からのアクションでもって行われることを掴んでいた。手筈通りに計画を進めていい場合にだけシャンデリアを打ち砕くことになっていた。あれはイカサマを暴くためである以上に、部屋の外の奥村に向けた音による合図だったのだ。午前零時の見えない狙撃のための。
 さすがの銅音も、奥村がただの常連でないことは勘付いていた。名乗りはしなかったものの奥村は密命を帯びて、この〈パラドクサ〉に入り浸っていることに間違いはない。
「俺はおまえらを利用している」とはっきりと断言した。あのキスの時のことだ。
「構わない」銅音はふてぶてしく答えた。「敵が同じなら」
 伏した敵を見下ろしながら、銅音は奥村のざらついた声を思い出していた。
 ――0:03
 無力化された少女。憐れで、愚かで、慰みものになるしかない少女、それだけが取り柄だと言わんばかりに大人たちが群がり、骨までをしゃぶりつくす。佐倉結丹の姿は、同時に星南の置かれた立場でもあった。計画通りの光景だとはいえ、銅音はうしろめたい気持ちを抱く。少女の手から放たれる寸前だった水晶が足元に転がっている。
「もうリキュールの効果をあてにする必要もない。佐倉さん、あなたは戦えない」
 佐倉は反応しない。彼女の全身を倦怠と灼熱感と混乱が覆いつくしているのが見えるようだ。間欠的に肩と指先を震わせながら、拡大した瞳孔で毛羽のないカーペットを凝視している。一方、銅音は荒れ狂う外界の変調に適応し始めていた。不思議の国は少しずつ銅音たちのテリトリーに染まっていった。
「見ている漆間? それともあなたも這いつくばっているのかしら?」
 そう言ったのは星南だった。宿主が突然ブラックアウトした場合、相乗りしている者にも同じ症状が見舞われる場合がある。これがいまなお危険視されるオムニバスのリスクだった。
「ひとつだけ言えるのは、彼等の連携は絶たれたってこと。〈相乗り〉オムニバスは終わった。漆間はもういない。佐倉さん、あなたは自由になった」
 倒れた佐倉に跨るように立って、銅音たちは次の投擲の姿勢を取る。佐倉が投じるはずだった水晶を拾い上げる。無意識にもがく佐倉に足を掴まれるが、その手を踏みにじって、無造作に水晶を放つ。
 ――0:05
 テーブルに触れた水晶は、そのまま卓上のもう一球を引き連れて穴に吸い込まれて消える。二つの水晶球が落ちた。これで佐倉はもう二杯のリキュールを飲むことになる。いくら耐性を持っていようとこれは人体の限界を超えているだろう。
「勝った」と銅音は呟いた。内側の星南へ向かって。
(本当に?)
『このまま佐倉結丹が立ち上がらなければ』
 二人は佐倉のもとにしゃがみ込んで降伏を勧める。
「もう負けを認めるの。ゲームを断念するなら、もう残りのリキュールを飲まなくて済む。漆間が負ければ、あなたは自由になれる」
 あと二杯も飲めば死ぬ。事実を突きつけても佐倉は答えない。しかし、虚勢を張ったところで、もう勝敗は明らかだった。
「漆間、続行は不可能ね。あんたの負けよ」
 ――聞こえているのか漆間。
 少女の小さな背中に隠れて、安全な場所から快楽を貪ってきた男。おまえは裸になった。ほら、おまえの資産は目減りしていく。このゲームに賭けられたのは互いの全てだ。銅音の体液の中には政治家を斃す致死の情報が流れている。
「さぁ、すべてをわたしたちに寄越せ。明け渡せ。許されない許しを乞え」
 二人の少女の叫びに呼応して、断末魔のように白いビリヤードテーブルが蠢いた。細波立った羅紗の表面は、だんだんと激しくうねり出す。マッサージチェアのように内部のローラーやボールがせり出して表層に起伏を作り出しているのか。磁力などではない。もっと単純明白なイカサマが用意されていたのか。
 背徳の間の現況が見えていない漆間が銅音たちを邪魔しようとデタラメに機械を動かしているのなら盲人が象を撫でるような滑稽な悪あがきだ、と銅音は思う。この仕掛けが巧妙だとしたらテーブルごと傾斜させるのではないことだ。あくまで可動するのは羅紗の張ってあるクロス部分のみで、外側のフレームは不動であるから、レールにおいたリキュールのグラスが傾ぐことはないし、水面が揺れることもない。
『落ち着いて銅音。たぶんこれは幻覚』
 星南にたしなめられて恐る恐る羅紗に触れてみるとそこには滑らかな手触り以外のものはない。荒れた海のようだった白羅紗は触感で眺めてみればシンと凪いでいる。銅音の幻覚世界はやはり感情の昂りに応じて変化するのだ。
「やばいね、わたしたちもそろそろ限界かも」
 窮迫の歪んだ自嘲。またもや白羅紗もざわざわと波立った。
「そろそろ帰らなくちゃ、不思議の国から出られなくなりそう」
 そう言って銅音はビリヤード台と水晶の散乱に背を向けた。ようやくこの命を削るようなゲームから解放されるのだ。スリルに麻痺した銅音ですら、もうこんな目に合うのは――少なくともしばらくは勘弁だった。
「こんな勝負はなしだ! 〝酒姫とモスリン織〟どこだ? 森下ぁ! まさか本当に私の金を取り上げるつもりじゃないよな。こんなお遊びで我々の――」往生際悪く、漆間がそんなふうに叫び散らすが、無情にも漆間の資産の大分部はすでに銅音の口座に振り込まれた。
「漆間。森下は来ない。あんたらは手の平を返されたんだよ」
「バカを言うな、こんな店がどうして摘発もされずにやれてきたのか、だ、誰のおかげで」
「どうでもいい。わたしはもう帰る。金輪際、星南に手を出すな」
 扉に手をかけた時、
「……ま、まだ。まだ終わっていない」
 斬り伏せたはずの少女の声がした。
「だからさ」と銅音は気怠げに振り向く。「勝負はついたんだよ。あんたも潔く認めるたらどうなの。佐倉結丹」
「どこ‥‥へ行く‥‥?」
 佐倉結丹はよろよろと立ち上がる。マイクロウェーブの衝撃はまだ尾を引いている。蹌踉とした足取りでテーブルを左回りに巡っていく。かすれた声。蒼白な顔色は水晶より色を欠いて見えた。眼球の血管が切れたのか、ただ一色、右目が赤く濁っている。満身創痍、そう呼ぶ他ない有様だった。コーナーポケットに置かれた残り三杯のリキュールのうち二つを手に取った佐倉は、色鮮やかな液体を口中に投げ込んだ。少女の中で黄と紫とが混ざり合う。
 それらは、おそらく頭頂葉と脳幹に作用するはずだ。
 いいだろう。その覚悟なら行くところまで行こう。銅音は大股で三歩前で出た。佐倉結丹は額を手で押さえ、その指の間から赤い眼で敵を透かし見る。唇は無意識の笑みに従って湾曲した。ようやく佐倉はひとりになったのだ。軛から逃れて自由に。
 カラフルな毒に染まった少女たちは、いま一度対峙する。
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