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第1章
その3
しおりを挟む長屋の住人は、紫音にとって有難い存在だった。物々交換のように、思わぬ食材をもらう物理的なありがたみもだが、それよりも助かったのは情報だった。
噂好きな女衆に、色々とネタにはなったが、自分ごとを語らない隼の生活の様子を彼女たちから仕入れることができた。
紫音が隼から聞かされていたのは、『常陸の国、前田藩を脱藩した』ことと、『筆学問所で雇われ先生をしている』ことだけ。どちらも一年前、つまり彼の妻、佳乃が亡くなった直後だ。だが、隼は佳乃が亡くなった理由や脱藩したワケを何も語らなかった。
「あんたは、どこで篠宮先生と出会ったんだい?」
「えっと、郷里が同じで……主人の友人が私の兄で……」
これは二人で考えた馴れ初めだ。婚期を逸しそうだったので、押しかけてきたと。年齢は二十歳ということにしている。
「まあねえ。いい男だし、仕事もあるけど……。あんたみたいな別嬪さん、ちゃんと宮仕えしてる人がいくらでもいたんじゃないの?」
と、中年のおばさんや若奥様たちから小突き回されたが、人の気持ちを読むのも掴むのも、機嫌を取るのも商売柄造作もない。頬を赤らめ、俯き加減にして。
「本当は……ずっと隼さんのことを想っていたので。兄に頼んで居場所を突き止めてもらったんです……。宮仕えは別に。食べていければと」
などと返す。
「まあーっ! 言うわねえー」
きゃあきゃあと女衆は甲高い声を上げて喜ぶ。篠宮隼は長身で肩幅も広くがっしりとした体形だ。田舎者特有の垢ぬけないところは否めないが、精悍な顔立ちの男前だった。
この長屋に越してきたとき、女たちは興味津々で隼に世話を焼きはじめた。隼は上手に人と付き合える器用さはないが、朴訥とした雰囲気が良かったのか、あっという間に受け入れられた。最初は胡散臭がっていた男衆にも、真面目が取り柄の性格が知れるにつれ、徐々に信頼を得ることとなった。
「でも驚いた。突然、嫁と暮らすことにしましたって、言うから」
「すみません。私がもう、郷里には戻れないって脅したんです」
「ああ、でも、先生はそれくらいじゃないと、ほら、なんかはっきりしないでしょ」
「そうなんですよ。私がずっと好きだったってことも知ってたと思うのに」
隼は長屋では、『先生』と呼ばれている。当然学問所の先生だからだが、長屋の子供たちばかりでなく、大人たちにも色々知恵を授けているというのもある。医者の真似事やもめごとの仲裁なんかも頼まれたら力を貸していた。
――――このことは少し意外だ。お人好しなのは、俺を放置できなかったことからわかるが、こうまで長屋に溶け込もうとしているのは……。
隼が脱藩した理由を紫音は知らない。彼はその話になると口を噤んでしまう。だが、二本差しは押し入れに居れてあり、時々それを腰に差して出掛けることすらある。武士、侍を止めたわけではないのだ。
つまり、隼は浪人ということになるが、士官先を求めている様子もなかった。このまま長屋の住人でいるつもりなのだろうか。紫音はそれを考えると首を傾げるしかなかった。
「でも、幸せそうだよねー」
「羨ましい」
「そんな、皆さんのところも賑やかでいいじゃないですか」
「賑やか? うるさいっていうんだよ、あれは」
井戸端会議とはよく言ったものだ。水場で作業をしながら、そんな会話がいつまでも続けられる。もちろん手は動いているのだが。
「あんたは仕事はしないのかい? こんだけ綺麗ならなんでも出来そうだけど」
「仕事は……田舎育ちなので、何も出来ないんです。それに人混みが怖くて」
これも用意した理由だ。三味線や踊りなどは得意分野だが、人前に出ることは控えたい。どこで茶屋の連中に会うとも限らないと訴えた。それは隼も承知していることだ。
「みっちゃん、余計なこと言うんじゃないよ。あたしが仕事あげたから大丈夫だよ」
「えー、お勝っちゃん。でもなんか勿体ないじゃない」
「そんなことないです。凄く助かっています」
お勝はこの長屋でリーダー的存在だ。三十代半ばで最も勢いがあり、最も声がデカく、最も噂好きだ。彼女が紫音に紹介したのは所謂内職。寺のお神籤を書く仕事だ。紫音は芸事だけでなく、知識も驚くほど豊富で一通りの学もあった。
ただ賢いだけなのかもしれないが、麗しい見た目から、茶屋が特別に期待した結果ではないかと隼は思っている。書道もその一つ。見事に美しい『女文字』を記した。それゆえに、茶屋はまだ諦めていないのでは。と隼は危惧していた。
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