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第1章
その4
しおりを挟む隼が教師を務める筆学問所は、寺町長屋から歩いて四半時(三十分)ほどの商人町にあった。商家の大きな屋敷のなかの離れを遣わせてもらっている。やってくるのは商人の子供が多く、そろばんや読み書きが人気だ。隼はもちろん全て賄える。本人としては史学や古典なども教えたかったが。
前任者であり、隼の同郷者『駒井仁三郎』は、ここで二十年以上教鞭を執っていた。長く続いているのは、それだけに信頼があるということだ。それを違えぬよう、隼も心して携わってはいた。
「先生、今日はなにやるんですかー?」
「まずは挨拶からだ」
「また言われてる。先生、おはようございますっ」
「ちぇっ……おはようございまーす」
朝から昼まで、とっかえひっかえ子供たちがやってくる。朝いちばんは最も幼い子供たちだ。まずは机の前で大人しくさせることから始めなければならなかったが、この頃では熱心に隼の話を聞くようになっていた。元々人間は、知らないことが有ると気づくと、今度はそれを知りたくなる。知識や知恵はその欲を肥やしに増幅していくのだ。
そのうちに目を輝かせてこの場所にやってくる。隼はこの、棚から落ちて来たような仕事に巡り合えて感謝している。銭を得るために何かをするのが疎ましくてならなかった。それが、曲がりなりにも楽しいと思えるようになったのだから。
ただ、時々はそれが苦しくもある。佳乃との日々を否応なく思い出すからだ。
――――早く子供を授かりたいものです。隼様の子供なら、きっと可愛らしい。
陽だまりのなか、佳乃はそう言って笑った。夫婦になって二年。子供は出来なかった。まだ二人とも若い。焦ることはないと思っていたが、佳乃はわかっていたのか。この日が来ることを。
『佳乃っ! 佳乃、どうしてっ!?』
「隼、おまえいつの間に嫁もらったんだよ。おい?」
あの日の出来事が脳裏に蘇っていた。そんなことは珍しくもない。気が付けば、一年前のあの日に時が戻るのだ。突然呼び止められた声に隼は現実に引き戻された。
「ああ、駒井殿。なんていうか、まあ押しかけられました」
「へええ。お、それは愛妻弁当か?」
「え? あ、ただの握り飯ですが」
学問所での手習いは昼までに終わる。その後は事務仕事だが、それもそんなには掛からない。時には熱心な子供が質問に来るぐらい。だから隼はいつも簡単な握り飯を持参していたのだが、最近ではそれも紫音が準備してくれていた。
いつものように商家の見事な庭を眺めながら離れの縁側で食事を摂っていたところ、駒井がやってきたのだ。
「おまえにそんな甲斐性があったとはね。いや、喜んでんだよ」
どさりと音をさせて隼の隣に腰を落とした。駒井にはまだ紫音のことを話していなかった。彼は隼に妻がいたことを知っていた。同郷の仲だ。佳乃の名も、彼女が亡くなったことも、人伝に聞いていたのだ。
隼がその後脱藩して江戸に出て来た時、駒井は多くを聞かなかった。ただ、自分が困っているので助けてくれないかと申し出てくれたのだ。隼に断る理由はなかった。
隼が駒井に紫音のことを知らせなかったのは、そんな事情があった。紫音が同郷の人間でないのは明らかだし、佳乃のことを知っている人物に話すのは抵抗があった。
「どこで知り合ったんだ?」
「お恥ずかしいですが……水茶屋の女なんです……」
『水茶屋』というのは、文字通りお茶やお茶菓子を出す店だが、それだけでない場合も多い。遊郭のような場所ではないが、それに近いことも店や場所によってはある。
「へええ。これまた驚いたな。隼でもそんな場所に行くんだな。いや、俺はしょっちゅう行ってるけど」
「いやあ、はは。それで……同郷の女だと長屋の皆には言ってるので、どうぞご協力お願いします」
「ああ、いいさ。若い嫁さんなんだろ? 水茶屋上がりとか噂されたら気の毒だ」
実際は女ですらないんだが。と、これは隼の心の声。
「すみません。惚れた弱みで。押しかけられたら、もういいかなって観念してしまいました」
などと言い訳をした。駒井は口の堅い男だ。少なくとも隼が困るようなことは言わないだろう。どうせ短い間のこと。時が来れば、『逃げられました』と言えばいい。そうでなくても、先は長くない。
駒井はその後も上機嫌で、隼と筆学問所に通う子供たちの話などをし、腰を上げたのは昼八つ(午後二時頃)を過ぎていた。
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