27 / 64
第4章
その6
しおりを挟む隼は日の明るいうちに確かめようと、再び今泉の別邸を訪れた。その日は筆学問所に行く道すがらであったため、いつもの着流し姿だった。それが後悔することとなる。
「おお、貴殿は……篠宮殿ではないか」
運河を覗き込みながら歩いている隼の背中に、野太い声が被さってきた。ぎくりと後ろを振り返る。好奇心と優越感を混ぜ合わせたような、不快な笑みを浮かべる身なりのいい武士が立っていた。
佐々木勇悦、今泉の家臣で隼とは同年代の藩士だ。あの暗がりで見かけた顔見知りの一人だった。
「おや……佐々木殿か。こんなところで何をしているのだ?」
「いや、それはそっくりこっちの台詞だよ。私はここ、今泉邸で江戸詰めのお役に付いている」
そうだろうよ。おまえの昨夜の凶行、この目で見たからな。隼は心の中で毒づく。だが、そんなことはおくびにも出さず。
「おお、そうか。ここは今泉殿の江戸邸であったか」
と驚いた様子を見せた。
「それで? 貴殿は何をしておったのだ? なにか銭でも落としたか?」
人を小馬鹿にしたいやらしい笑みで佐々木はなおも尋ねてきた。よっぽど自分を馬鹿にしたいのだろうな。隼は貼り付けた笑顔で応じた。
「そうなんだ。この運河に……でも見つかりそうにない」
「ははっ。天下の指南役も、お役がなくなれば惨めなものだな」
悔しい思いがないわけではない。だが、今の段階で敗者は間違いなく隼の方だ。今泉邸を見張っているなどと勘ぐられても困る。
「いやあ。まあなあ。でも、宮仕えも無くなれば気楽なものだ」
などと言って、踵を返そうとした。
「まあそう急ぐなよ」
さっと手を肩に触れられる。貴様の小汚い手に触れられるなど我慢ならない。今までならそう思うより早く、体が動いてこいつの背後に回り込み、動きを封じただろう。だが、隼は耐えた。耐えて甘んじてその手を受け入れ振り向く。
「なんだ? まだ用があるのか?」
「いや、なんだ。貴殿、守親殿の失墜とともに脱藩したが、まだ尚次殿や今泉殿に恨みでもあるのかとな。こんなところをうろついているからさ」
正直ぎくりとした。間抜け面しながらも、馬鹿ではないらしい。だが、恐らく隼に難癖をつけたいだけだ。そんなこと本気で思ってやしない。
「まさか。私はもう江戸での生活を楽しんでいるんだ。暮らしに事欠かない給金もいただいておるし、それなりにやりがいもある」
「へええ。まさか、もう所帯を持っているわけじゃないだろうな? あの美しい奥方が亡くなってまだ一年だぞ?」
隼は口の中に、苦いものが上がってくるのを感じた。既に肩から奴の手は外されているが、今にも眼光鋭く睨みつけ、閃光一瞬ぶん投げそうだ。
「いやあ、ははっ。実はそういう話もある。一人では不便でな」
嘘を吐く自分に反吐が出た。けれど、今はこいつに微塵の疑いも持たせてはならない。そう心に決めた隼は不本意ながら嘯いた。この時はまだ、紫音と出会ってはいない。
「え……そうか。それは驚いたな。まあ……生き方はそれぞれだな」
呆れたのか、あまりにもクズ過ぎて馬鹿にするにも足らぬと白けたのか、佐々木はそれだけ言うと今度は逆に踵を返そうとした。
「そうだ。佐々木殿。貴殿は将棋が得意であったな。またどこかで指そう」
「あ、ああ。そうだな、じゃあな。貴殿ももう行け。他の連中に見つかるとまた面倒だぞ」
別に悪いことをしたわけでもないのに(実際はしてるのだが)、佐々木は優しそうな言葉をかけ、そそくさと別邸へと戻っていった。その後ろ姿を見ながら、へらへらとした表情は険しいものへと変わる。
――――なんというざまだ。しかし、今は耐えるしかない。
あの男がウロウロしている浪人に気付いて声をかけたのは、やはりここをうろつかれたくない理由があるのだろう。運河の岸には、船が乗り付けた跡がいくつも残っていた。目を凝らしてみれば、錆色が混ざった土も見える。確かにおかしな浪人に嗅ぎつけられたくはないはずだ。
佐々木が言うように、また他の藩士に見咎められてはたまらない。後ろ髪を引かれる思いではあったが、隼はその場を立ち去った。
2
あなたにおすすめの小説
【受賞作】小売り酒屋鬼八 人情お品書き帖
筑前助広
歴史・時代
幸せとちょっぴりの切なさを感じるお品書き帖です――
野州夜須藩の城下・蔵前町に、昼は小売り酒屋、夜は居酒屋を営む鬼八という店がある。父娘二人で切り盛りするその店に、六蔵という料理人が現れ――。
アルファポリス歴史時代小説大賞特別賞「狼の裔」、同最終候補「天暗の星」ともリンクする、「夜須藩もの」人情ストーリー。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
三十六日間の忘れ物
香澄 翔
ライト文芸
三月六日。その日、僕は事故にあった――らしい。
そして三十六日間の記憶をなくしてしまった。
なくしてしまった記憶に、でも日常の記憶なんて少しくらい失っても何もないと思っていた。
記憶を失ったまま幼なじみの美優に告白され、僕は彼女に「はい」と答えた。
楽しい恋人関係が始まったそのとき。
僕は失った記憶の中で出会った少女のことを思いだす――
そして僕はその子に恋をしていたと……
友希が出会った少女は今どこにいるのか。どうして友希は事故にあったのか。そもそも起きた事故とは何だったのか。
この作品は少しだけ不思議な一人の少年の切ない恋の物語です。
イラストはいもねこ様よりいただきました。ありがとうございます!
第5回ライト文芸大賞で奨励賞をいただきました。
応援してくださった皆様、そして選考してくださった編集部の方々、本当にありがとうございました。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
あやかし警察おとり捜査課
紫音みけ🐾書籍発売中
キャラ文芸
※第7回キャラ文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。
【あらすじ】
二十三歳にして童顔・低身長で小中学生に見間違われる青年・栗丘みつきは、出世の見込みのない落ちこぼれ警察官。
しかしその小さな身に秘められた身体能力と、この世ならざるもの(=あやかし)を認知する霊視能力を買われた彼は、あやかし退治を主とする部署・特例災害対策室に任命され、あやかしを誘き寄せるための囮捜査に挑む。
反りが合わない年下エリートの相棒と、狐面を被った怪しい上司と共に繰り広げる退魔ファンタジー。
炎華繚乱 ~偽妃は後宮に咲く~
悠井すみれ
キャラ文芸
昊耀国は、天より賜った《力》を持つ者たちが統べる国。後宮である天遊林では名家から選りすぐった姫たちが競い合い、皇子に選ばれるのを待っている。
強い《遠見》の力を持つ朱華は、とある家の姫の身代わりとして天遊林に入る。そしてめでたく第四皇子・炎俊の妃に選ばれるが、皇子は彼女が偽物だと見抜いていた。しかし炎俊は咎めることなく、自身の秘密を打ち明けてきた。「皇子」を名乗って帝位を狙う「彼」は、実は「女」なのだと。
お互いに秘密を握り合う仮初の「夫婦」は、次第に信頼を深めながら陰謀渦巻く後宮を生き抜いていく。
表紙は同人誌表紙メーカーで作成しました。
第6回キャラ文芸大賞応募作品です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる