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1.心を止めた彼女
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「情緒が育っていない?」
医者としての多くの治療経験とその類まれなる見識の高さで、国内では右に出る者なしと称される老齢の医者の言葉に、部屋にいる誰もが息を呑んでいた。
「自分の気持ちを語らないのではなく、最初から存在しないということか?」
「それは分かりかねますな。心の問題の診断は大変難しいものですから。昨日今日診た結果から、理由を見出すことは出来ません。しかしながら、感情の動きが見られないことは公爵様もお分かりでありましょう」
アルメスタ公爵は、分かっていながらそれを認めたくなかった。
やっと再会出来た番。
それを半ば攫って(彼の侍従に言わせれば、人攫いでしかない)、邸に連れ戻り、それからすぐに出来得る限りの世話をして今がある。
何を願うかと聞いても答えが返ってきたことはない。黙って頭を下げるか、「仰せのままに」と小声で付け足すばかりだった。
少し目を離すと、ベッドから抜け出して洗面所の石の床で膝を抱えて小さくなって座ったまま眠ろうとする。
絨毯の上では左右の足を順番に上げる不信な動きを見せるし、こちらが沈黙すれば、やはり洗面所に駆け出して、急いで服を脱ぎ傷だらけの背中を見せて蹲った。
そんな奇行とも言える様子しか見せない彼女は、たった今医者が言った通り、どんな感情も示さない。
あのように背中を晒しながら、怯える様子さえ見せないのだ。
だがしかし、アルメスタ公爵には反論もあった。
「食事中は、心が動いているように感じられるときがある」
がりがりに痩せ細った体は、語らずともこれまでの食生活を示してくれた。
だからまずはスープからと用意したそれは。
最初のときは、器を急いで両手に取ったあと、また足をひょこひょこと不格好に上げながら彼女は洗面所に移動した。駆け出さなかったのは、器の中身を零さないように気を付けていたからだろう。
その器を床に置き、這いつくばって舌だけでそれを飲もうとした姿を見たアルメスタ公爵の衝撃は新しい。
そんな彼女を急いで抱えてベッドに戻し、それからアルメスタ公爵は自分が匙を持って食べさせてやることにした。
しかし匙を口元に運んでも彼女は頑なに口を開かなかったから、侍従に言われ渋々と命じて口を開かせた。
だが匙を入れたあともなかなか上手くことが運ばない。
匙を入れられてもなお口を開けて固まる彼女に、アルメスタ公爵はゆっくりと匙を傾け中身を舌の上に乗せながら、飲み込めと命じたのだ。
次の瞬間、アルメスタ公爵は、彼女の瞳から儚い輝きを受け取った。
そしてその後も、食事のたびに軽微であるが彼女の瞳から反応を感じている。
医者は全く驚かず訳知り顔で頷くとこう言った。
「食というものは、生きる上で必須の欲望を満たす重要なものですからな。情緒が育っていないからと言って、まったく何も感じないというわけではございませんぞ。産まれたばかりの赤子とて、不快だと泣きますし、快に笑いましょう」
それもそうだとアルメスタ公爵は、かつてを懐かしく想った。
よく笑っていたし、泣いてもいた。怒っていたことだって多々ある。
あのとき育っていたはずの情緒は、一体どこへ消えたのだろう。
「これも私の予測ですから、絶対ということはございませんが。心が傷付く経験をして、情緒を失う者は多くいます。これ以上傷付かないようにと、心の反応を止めてしまうのですな。しかし多くは、その後に感情的な経験を経て心を取り戻し、また情緒を成長させていくのです。ところが心が傷付く経験をした後に、心を動かす経験を重ねられなかった場合にはその通りではございません。あるいは心を動かせぬような制限ある経験を重ねていった場合に、情緒を止めて人形のように生きる選択を自ら行ってしまうこともあるのです。すると情緒は育ちませんな」
どちらもあろうが、後者の方が濃厚であろうとアルメスタ公爵は考えながら、膨大な負の感情を押し込めて、希望をもって問い掛けた。
「反応を見せた食事から、情緒を育てていくことは出来るだろうか」
「それはもちろん。これまで育たなかったとして、これから育たない理由にはなりませんからな。今後のすべての経験は情緒を育てる良き機会となっていくでしょう。中でも食事は快、不快の感覚が分かりやすいものですから、取っ掛かりとしては最適だと言えるのではないかと」
「ふむ。トット、聞いたか?」
侍従であるトットはさっと頭を下げて、「手配しておきます」と言う。
もちろんすでに手配されていることで、何を差し置いても、彼女には最上の料理が提供されるようにと計らわれているのだが。
それをさらにと、アルメスタ公爵は言っているのだ。
今までまともに食べて来なかったせいか、食が細く、毎日五食、六食と少ない量のスープを頻繁に与えていた。
それでもまだ固形物は受け付けず、吐いてしまったあのときのあの苦しそうな顔の後に見た、一段と色のない目。
アルメスタ公爵はこれを二度と見ないようにしたいと願っているから、彼女の食事に関しては慎重になっていた。
だからまだ野菜や肉を極限まですりつぶして作られた塊の具のないスープが続いている。
具がないとはいえ、栄養価は一級品。
次は煮詰めて柔らかくなった形ある野菜をスープにほんの少し足してみようかと、タイミングを計っている段階である。
これからはさらに、上等な食材が使われるようになるし、彼女の喜ぶ味付けが研究されることだろう。
彼女が食べてきたものを、いいや、彼女の十年間のすべてを。
再現し、奴らの心を十年掛けて奪ってから──。
目を閉じたアルメスタ公爵は、医者にさらなる助言を求めた。
医者としての多くの治療経験とその類まれなる見識の高さで、国内では右に出る者なしと称される老齢の医者の言葉に、部屋にいる誰もが息を呑んでいた。
「自分の気持ちを語らないのではなく、最初から存在しないということか?」
「それは分かりかねますな。心の問題の診断は大変難しいものですから。昨日今日診た結果から、理由を見出すことは出来ません。しかしながら、感情の動きが見られないことは公爵様もお分かりでありましょう」
アルメスタ公爵は、分かっていながらそれを認めたくなかった。
やっと再会出来た番。
それを半ば攫って(彼の侍従に言わせれば、人攫いでしかない)、邸に連れ戻り、それからすぐに出来得る限りの世話をして今がある。
何を願うかと聞いても答えが返ってきたことはない。黙って頭を下げるか、「仰せのままに」と小声で付け足すばかりだった。
少し目を離すと、ベッドから抜け出して洗面所の石の床で膝を抱えて小さくなって座ったまま眠ろうとする。
絨毯の上では左右の足を順番に上げる不信な動きを見せるし、こちらが沈黙すれば、やはり洗面所に駆け出して、急いで服を脱ぎ傷だらけの背中を見せて蹲った。
そんな奇行とも言える様子しか見せない彼女は、たった今医者が言った通り、どんな感情も示さない。
あのように背中を晒しながら、怯える様子さえ見せないのだ。
だがしかし、アルメスタ公爵には反論もあった。
「食事中は、心が動いているように感じられるときがある」
がりがりに痩せ細った体は、語らずともこれまでの食生活を示してくれた。
だからまずはスープからと用意したそれは。
最初のときは、器を急いで両手に取ったあと、また足をひょこひょこと不格好に上げながら彼女は洗面所に移動した。駆け出さなかったのは、器の中身を零さないように気を付けていたからだろう。
その器を床に置き、這いつくばって舌だけでそれを飲もうとした姿を見たアルメスタ公爵の衝撃は新しい。
そんな彼女を急いで抱えてベッドに戻し、それからアルメスタ公爵は自分が匙を持って食べさせてやることにした。
しかし匙を口元に運んでも彼女は頑なに口を開かなかったから、侍従に言われ渋々と命じて口を開かせた。
だが匙を入れたあともなかなか上手くことが運ばない。
匙を入れられてもなお口を開けて固まる彼女に、アルメスタ公爵はゆっくりと匙を傾け中身を舌の上に乗せながら、飲み込めと命じたのだ。
次の瞬間、アルメスタ公爵は、彼女の瞳から儚い輝きを受け取った。
そしてその後も、食事のたびに軽微であるが彼女の瞳から反応を感じている。
医者は全く驚かず訳知り顔で頷くとこう言った。
「食というものは、生きる上で必須の欲望を満たす重要なものですからな。情緒が育っていないからと言って、まったく何も感じないというわけではございませんぞ。産まれたばかりの赤子とて、不快だと泣きますし、快に笑いましょう」
それもそうだとアルメスタ公爵は、かつてを懐かしく想った。
よく笑っていたし、泣いてもいた。怒っていたことだって多々ある。
あのとき育っていたはずの情緒は、一体どこへ消えたのだろう。
「これも私の予測ですから、絶対ということはございませんが。心が傷付く経験をして、情緒を失う者は多くいます。これ以上傷付かないようにと、心の反応を止めてしまうのですな。しかし多くは、その後に感情的な経験を経て心を取り戻し、また情緒を成長させていくのです。ところが心が傷付く経験をした後に、心を動かす経験を重ねられなかった場合にはその通りではございません。あるいは心を動かせぬような制限ある経験を重ねていった場合に、情緒を止めて人形のように生きる選択を自ら行ってしまうこともあるのです。すると情緒は育ちませんな」
どちらもあろうが、後者の方が濃厚であろうとアルメスタ公爵は考えながら、膨大な負の感情を押し込めて、希望をもって問い掛けた。
「反応を見せた食事から、情緒を育てていくことは出来るだろうか」
「それはもちろん。これまで育たなかったとして、これから育たない理由にはなりませんからな。今後のすべての経験は情緒を育てる良き機会となっていくでしょう。中でも食事は快、不快の感覚が分かりやすいものですから、取っ掛かりとしては最適だと言えるのではないかと」
「ふむ。トット、聞いたか?」
侍従であるトットはさっと頭を下げて、「手配しておきます」と言う。
もちろんすでに手配されていることで、何を差し置いても、彼女には最上の料理が提供されるようにと計らわれているのだが。
それをさらにと、アルメスタ公爵は言っているのだ。
今までまともに食べて来なかったせいか、食が細く、毎日五食、六食と少ない量のスープを頻繁に与えていた。
それでもまだ固形物は受け付けず、吐いてしまったあのときのあの苦しそうな顔の後に見た、一段と色のない目。
アルメスタ公爵はこれを二度と見ないようにしたいと願っているから、彼女の食事に関しては慎重になっていた。
だからまだ野菜や肉を極限まですりつぶして作られた塊の具のないスープが続いている。
具がないとはいえ、栄養価は一級品。
次は煮詰めて柔らかくなった形ある野菜をスープにほんの少し足してみようかと、タイミングを計っている段階である。
これからはさらに、上等な食材が使われるようになるし、彼女の喜ぶ味付けが研究されることだろう。
彼女が食べてきたものを、いいや、彼女の十年間のすべてを。
再現し、奴らの心を十年掛けて奪ってから──。
目を閉じたアルメスタ公爵は、医者にさらなる助言を求めた。
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