嫉妬帝国エンヴィニア

兜坂嵐

文字の大きさ
34 / 130
繋がる時空の橋

現代-マカベ教授

しおりを挟む
 舗装の甘いアスファルトをタイヤが擦る音が、規則正しく車内に響いている。
 フロントガラス越しに見えるのは、灰色の山並みと、どこか歪んだ信号機。
 そのひとつが青に変わるたび、古いサスペンションがわずかに沈む。
 カーステから流れるのは、ローファイなピアノインスト。
 電子のノイズ混じりの旋律が、車内の空気をゆるやかに包む。
 助手席のヴィヌスが、窓の外に目をやったままつぶやいた。
「……あんた、この世界に召喚されてからハンドル握るの、ずいぶん慣れたわね」

 運転席のメルクリウスは、静かにウィンカーをカチカチと鳴らしながら応じた。
「郷に入ればなんとやら、ってやつだよ。宗教は時代に合わせて形を変える。当然、神官もね」
 視線は道の先に向いたまま、言葉だけがふわりと落ちる。
 まるでそれが、教義の一節であるかのように自然だった。
 ヴィヌスは片眉を上げ、小さく笑った。
「ふーん……で? その“時代適応”の先が、“マカベ・ド・ラグナ”ってわけ?」

 問いには皮肉と好奇心が等分に混じっていたが、メルクリウスは動じることなく微笑んだ。
「彼は初めて“エンヴィニア帝国”が嫉妬界の底に沈んでいたという仮説を発表した男だ。
 まぁ、おかげで学会からは干され、一時期ほとんど忘れられていたけどね」
 助手席のヴィヌスは、吹き出すように笑った。
「伝統宗教の神官が、陰謀考古学マニアと接触するなんて、どんな地獄のタッグよ」
 その言葉に、メルクリウスは軽くハンドルを切りながら静かに答えた。
「光栄だね。地獄が似合うなんて言われるのは」
 彼の言葉に嘘はなかった。
 どこかこの空間が、“記録されざる真実”を探す旅路にふさわしい場所と思えてきた。

 外は蝉すら鳴かない、魔界の午後だった。
 セミマットな曇り空と、灰色がかった山裾が車窓の向こうに広がっている。
 時折風が草を揺らすが、音のない世界にそれすら吸い込まれていく。

 そんな中、スバルの車内だけが、微かなエアコンの音と。
 カーステから流れるローファイピアノのBGMに包まれていた。
 均一なリズム。静かな時間の泡の中。

 助手席のヴィヌスが、ふと窓の外に目を向けた。
「……いろんな魔界があるのね」
 かすかに、寂しげな笑みが浮かぶ。
「ルナや六将のいた世界は、地獄みたいだったのに」
 メルクリウスはウィンカーを出しながら、穏やかな声で返す。
「魔族も人間も、発展の先にあるものは……きっと変わらないのかもね」
「争いも、祈りも、街並みも……」
 信号が青に変わる。
 クルマが静かにアクセルを踏み直し、再び滑るように進み出す。
 視界には、少しずつ“人の痕跡”が増えていった。
 木造の古書店。祈祷器具の看板が傾いた店先。石でできた、朽ちかけた交番跡。

 それらはどこか、“まだ忘れられていない過去”の香りをまとっていた。
 完全に滅びてもいない、けれど輝きでもない。
 生きてきた証だけが、そこに佇んでいた。
 フロントガラス越しに、遠くの街並みを見つめながら、メルクリウスがぽつりと呟いた。
「……リプカも、こういう景色になるかもしれないな」
 それは予言でも、希望でもなかった。
 風景に重なる、ひとつの未来。

 あの街が好きだった。
 川沿いに小さな広場があって、冬には灯りが滲んで。
 春には花が咲いて、誰もがほんの少しだけ、優しくなれた気がする。
 あの日、弟と肩を並べて歩いた道はもうない。
 石畳は剥がされ、記憶ごと舗装された。
 ……けれど、私の中では今でもそこに在る。

 私は変わらない。
 変われない。
 変わる必要がない存在として、“神”に刻まれてしまった。

 けれど、ニコルは違った。
 彼は人間だった。
 この街の時間と呼吸と命に寄り添って。
 誰かを導き、誰かに傷つき、そして、きっと誰かに愛されたのだろう。
 そのすべてが――どれだけ、私には眩しかったことか。

「兄上は、未来を“見る”ために生かされたのですね」
 昔、ニコルがそう言った。
 笑っていた。
 でも目の奥には、どこか哀しげな色があった。
 自分が“そこにはいられない”ことを、わかっていたのだろう。
 私は否定できなかった。

 未来。
 この街はやがて、名前を変える。
 大聖堂は崩れ、塔はガラスに姿を変え、空を裂く音が日常になる。

 そこには、ニコルはいない。
 きっと、私のことを知る者すらいない。
 けれど。
 この空の下で、誰かが誰かを愛し、怒り、赦し、許されずに生きるのなら。
 私はそれを見届けよう。
 たとえ、“兄上”と呼ぶ声がもう二度と聞こえなくても。
 この街に灯るすべての光に、君の生きた証があると信じている。
 だから私は、まだ祈っている。
 どうか、君の未来が、君のいない未来までも、あたたかくありますように。



 小雨が降っていた。
 レンガ造りの外壁は風化して黒ずみ、壁面の隅に彫られた聖人像は。
 今にも崩れ落ちそうなほどに時を背負っていた。
 かつて教会だったこの建物の正面扉には、手彫りの表札がかかっている。
 濡れた木に掠れる文字で、こう記されていた。

 ──Laguna Research──
 ノックをした瞬間、わずかに油と紙の匂いが漏れる。
 直後、ギイと軋む音を立てて扉が開いた。

 現れたのは、油で黒ずんだメモ帳を片手に持った男。
 白衣の裾はインクと鉱粉で斑に汚れ、片方のレンズには拡大スコープが噛ませてある。
「おやおや、優等生神官君がこんな辺境までご足労とは」
「てっきり都市の講壇でしか動かない主義かと思ってたよ?」
 メルクリウスは、その皮肉を受け流すように柔らかく微笑んだ。
「そんな人間だったら、異界召喚されて路頭に迷ってましたよ」
「まずは、古代エンヴィニア帝国の再現にご協力いただいていること、改めて感謝を」
 背後でバッグを抱えたヴィヌスが、少し小声で呟く。
「……粗品とかあったほうが良かった?……まんじゅうとか」

 マカベは肩をすくめて笑い、手をひらひらと振った。
「構わないよ。私はまんじゅうより缶コーヒー派だ」
「特にブラック。夜通し、骨格のスキャンデータと睨めっこする身にはね」
 彼の声には“社会との断絶”と“情熱”が同居していた。
 どこか危うく、それでも正気を保っている男の声音だった。

 邸内に一歩足を踏み入れると、すぐ目に飛び込んでくるものがある。
 玄関脇のスペースに設けられた、小さな台座。
 そこには王冠のレプリカが、まるで“祀られる”ように鎮座していた。
 石材の質感は精巧で、中央にあしらわれた翡翠の装飾には、僅かに魔力反応が残されている。

 机の上には、エンヴィニア関連の写像資料が乱雑に広がり。
 その中央モニターには、エンヴィニアの景色が表示されていた。
 まるで誰かがずっとそれを見ていたかのように。
 画面が照明の代わりのように部屋を照らしている。
 さらに視線を移せば、壁一面に羊皮紙の断片が無数に貼り付けられ。
 人工写像による三次元図像、魔力スキャンによる構造変換図が、文字とも記号ともつかぬ図で混在していた。
 部屋の隅、埃をかぶった文献の山のなかには。
 奇妙な文様が刻まれた一頁が開かれている。
 そこに描かれていたのは、螺旋。
 光でも、炎でもなく、“妬み”のようにねじれながら、王冠を包み込むかのような構造図だった。

 メルクリウスは、古びた羊皮紙の一枚に目を落としたまま、小さく呟いた。
 声は低く、祈りのようでいて、冷ややかだった。
「教授が解読された“滅亡の要因”に……心当たりがあります」
 その言葉に、マカベは目を細め、椅子の背に身を預ける。
「ほぉ……?」
 メルクリウスは手袋越しに資料の紙端を撫でながら、言葉を紡いだ。

「それは、“なにとも分類できぬもの”です」
「神に非ず、魔に非ず……あらゆる既知の理から外れた、“何か”。」
「僕たちは――“世界の外”で戦ったことがあります」
 一瞬、室内の空気が静止した。
 窓の外の小雨が、淡く硝子を叩く音がやけに鮮明に響く。
「“地球の外”ではないよね?」
 マカベが目線を外さず、ゆっくりと指を組んだ。
「その言い回し……そういうニュアンスじゃないように聞こえる」

 ヴィヌスは書棚の脇に寄り、片肘を乗せたまま、窓の外にちらりと視線をやった。
 言葉は、いつもの棘を帯びた調子のままだが、どこか熱を含んでいた。
「……あんたホント変人ね。でも、だからこそ話せるわ」
「宇宙の“外”。深淵とか、タナトス領域とか、アビスとか……」
「私たち、故あってそこに踏み込んだことがあるの」
 マカベの目が、ゆっくりと見開かれていく。
 驚きの色は隠せなかった。

「なんと……」
「では、この文にある“勇者は異界より召喚される”という記述……あれは神話ではなく、事実だったのか」
 それに対する答えは、メルクリウスのまっすぐな視線だった。
 彼は目を逸らさず、しっかりと応えた。
「ええ。“神話”の中の話じゃない。“戦歴”です」
 そして、ヴィヌスがそっと言葉を継ぐ。
 その声は、わずかに柔らかく――それでも確かだった。
「だから……知ってほしいの」
「この帝国が沈んだ理由が、“地上の罪”じゃなくて――“外から来た死”だったってことを」

 メルクリウスは、静かに息を呑んだ。
「その“分類できないもの”を……無理やり呼ぶなら――アノマリーです」
 その単語を口にした瞬間、マカベの指が一枚の投影資料へ伸びた。
 目を見開きながら、低く反復する。
「アノマリー……意味は、“変則的事実”。なるほど、ずいぶんストレートだ」
 彼の手元のホログラフが反応し、ノイズ混じりの写像が再生された。
 それは帝国末期、禁じられた祭祀映像の復元体。
 画面には、“それ”が映っていた。

 全身を覆う寄生体。巻きついた触手。腫瘍のような構造物が体表に融合している。
 頭部には眼球が幾重にも集合し、どこを見ているのか判別不能な“多眼の象徴”が生まれていた。
 腕は奇妙に長く、何かを掴むためではなく、“支配”のために伸びているようにすら見えた。
 マカベは静かに息を吐きながら、硬く頷く。
「……確かに、“分類不能”だな。これは」
「神でも、魔でも、人でもない。“知覚可能な怪異”だ」

 ヴィヌスが一歩前へ出て、吐息混じりに言葉を漏らした。
「まさか……エンヴィニア、こんなのに“汚染された”っていうの?」
 メルクリウスの眼鏡が、スクリーンの光を反射する。
「……いいえ、違う」
「これは“彼らの祈りの結果”なんです。神を求めた、彼らなりの形で」
 どこか痛々しい言い方だった。
 まるで信仰の果てに、裏切られた者のような声音だった。

「……要因は、わかりません。ですが」
 彼の言葉が途切れる。
 画面が一瞬ノイズを走らせ、“それ”の動きに不可解な変化が現れた。
 パントマイムのような、あるいは“人形劇”のような動き。まるで意図された演技のように。
 メルクリウスはかすかに表情を引き締め、再び口を開いた。

「“外なる神”が、エンヴィニアに興味を持った可能性があります」
「“嫉妬”を肯定する国家なんて……前例がありませんからね」
 その言葉に、ヴィヌスの眉が明らかに吊り上がった。
 腕を組みながら、イラついた声で吐き捨てる。
「あー……あのド三流ライターね。アンラ・マンユ」
 その名を出した途端、空気がどこか変質した。
 まるで誰かが、その会話を“聞いていた”かのように。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【12月末日公開終了】これは裏切りですか?

たぬきち25番
恋愛
転生してすぐに婚約破棄をされたアリシアは、嫁ぎ先を失い、実家に戻ることになった。 だが、実家戻ると『婚約破棄をされた娘』と噂され、家族の迷惑になっているので出て行く必要がある。 そんな時、母から住み込みの仕事を紹介されたアリシアは……?

冷遇王妃はときめかない

あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。 だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。

【12月末日公開終了】有能女官の赴任先は辺境伯領

たぬきち25番
恋愛
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26) ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。 そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。 そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。   だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。 仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!? そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく…… ※お待たせしました。 ※他サイト様にも掲載中

断罪まであと5秒、今すぐ逆転始めます

山河 枝
ファンタジー
聖女が魔物と戦う乙女ゲーム。その聖女につかみかかったせいで処刑される令嬢アナベルに、転生してしまった。 でも私は知っている。実は、アナベルこそが本物の聖女。 それを証明すれば断罪回避できるはず。 幸い、処刑人が味方になりそうだし。モフモフ精霊たちも慕ってくれる。 チート魔法で魔物たちを一掃して、本物アピールしないと。 処刑5秒前だから、今すぐに!

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢

さら
恋愛
 名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。  しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。  王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。  戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。  一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます

腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった! 私が死ぬまでには完結させます。 追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。 追記2:ひとまず完結しました!

処理中です...