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第7話
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結局、須加と一緒に駅に戻り、自分の最寄り駅とは反対方向の電車に乗った。
須加の家は、閑静な住宅街に佇む二階建ての一軒家。
「ただいま」
「兄ちゃん、おかえり! ママもうじいちゃんのところに行った」
待ち構えているかのように、玄関の扉を開けると、すぐにかわいらしい声が響いてきた。
廊下に顔をのぞかせた小さな女の子は須加を目掛け、ペチペチと足音を立てて歩いてくる。彼女の両手が、須加とのメッセージルームですっかり見慣れたひよこのぬいぐるみを抱いている。
ふいに、綾瀬はまん丸い両眼と視線がかち合った。すると、女の子はピタッと足を止め、ギュッとぬいぐるみを抱き締めた。
「しー、この人は兄ちゃんの友だち。ご挨拶できる?」
視線を合わせてしゃがんだ須加のもとへ、急にスイッチが入ったように女の子は走り出した。片手はぬいぐるみ、もう片手は兄の腕を摑む。警戒とも好奇心ともつかない眼差しでじっと見つめてくる。綾瀬は少しだけ帰りたくなった。
数秒を要してから、女の子はやっと口を開いた。声音はさっきより幾分落ち着いている。やはり見知らぬ人に緊張しているようだ。
「須加しずく、五歳」
「えっと、綾瀬理人です。こんにちは」
「先輩、どうぞ入ってください」
「お邪魔します」
くっついてくる妹に慣れた様子で、須加はその小さな手を握って先を歩く。綾瀬はふたりの後についていく。ときどき、前を歩くしずくが振り向いてチラリとこっちを見る。その視線が気になるけど、気づかないふりをする。
須加が帰ってくるまで、しずくはひとりでテレビを観ていたようだ。魔法少女はボロボロになっても必死に敵と戦っている。
「ここでちょっと待ってください。飲み物を持ってきます」
しずくとひとり分の距離をあけ、綾瀬はソファに腰を下ろした。所在なさげにテレビを観る。横からじっと見てくる視線が、無視できないほど強い。
どうしてこんなに見てくるか。子供だからフォークの性質を敏感に察知できるのか、なんてありえないことまで思考を巡らせた。
「えっと、テレビ、観ないの?」
「今朝の録画なの」
「そうなんだ」
会話らしい会話が続かない。平和のため魔法少女がこんなにも頑張っているのに、子供の視線がまだ綾瀬に止まったままだ。魔法少女の決め台詞から虚しい響きがした。
ようやく戻ってきた須加が救世主のように見えた。
「先輩はお水でいいですか」
「ありがとう」
「しーはオレンジジュースね」
「ありがとー」
須加がふたりの間に腰を下ろすと、しずくはすぐ須加の袖を引っ張る。
「どうした?」
ソファに立ち上がったしずくは須加に顔を寄せ、「あのね」と言う。
「お友だち、きれいな人だね」
兄にだけ耳打ちのつもりだろうが、声はよく通る。水を飲んでいた綾瀬の顔が上気した。一応空気を読んで聞こえないふりをする。
「ねえ、きれいだよね」
須加はニッと笑った。綾瀬が聞こえているとわかっていながら、しずくに耳打ちをし返す。声量を抑えていない。
「ふざけたことを言わないで」
「本心ですよ。先輩」
にやける須加の顔が憎たらしい。
「あそぼ」
「なにして遊ぶ?」
「リバーシ!」
ひよこのマスコットがついたリバーシが、しずくのマイブームらしい。
しずくが運んできた箱の中身を並べる。穴が空いたゲーム盤と、にわとりとひよこの形をした大量のマスコット。綾瀬は興味津々にひとつ摘み上げて見る。
「それがコマですよ」
すかさず須加が説明する。
綾瀬は眼を丸くした。記憶の中のリバーシは、白黒というシンプルなデザインだった。知らないうちに、ここまでかわいく進化していると感心した。
セッティングが終わると、須加としずくは直にフローリングに座った。綾瀬はソファに座ったまま。
「あそぼー」
しずくに腕を引っ張られた。小さな手なのに、力が意外と強い。潤った両眼に見つめられ、観衆でいられなくなった。
「……わかった」
須加の向かいに座った。そうすると、しずくはぴったりとくっついてきた。
遊び慣れていない綾瀬に、こっち、あっち、としずくが指示する。言われた通りにコマを盤に差して須加のコマをはさみ、にわとりをひよこにひっくり返す。
ひよこのマスコットが増えると、しずくは「やった」と笑いながら、ぐりぐりと頭を綾瀬の腕に擦りつけて甘える。
最初こそ黄色いひよこの数が多かった。だんだん白いにわとりの数が増えてきた。
「えー、ひよこ返して!」
しずくはくちびるを尖らせ、どんどんひよこを奪っていく兄の手を恨めしく睨む。
あっという間にすべてのマスが埋まった。わざわざ数えなくても、にわとりが多いのが一目瞭然だ。
「もっかい!」
かわいい妹のおねだりに、ふたりはせっせとゲーム盤をリセットする。
二回目の勝負は出るまで時間がかかった。
ゲーム盤の上は、黄色と白がきれいに彩る。パッと見ても、どっちが多いかわからない。綾瀬と須加が数えながらコマを引き抜くのを、しずくは固唾を吞んで見つめる。
須加の手が先に止まった。ゲーム盤に残った最後のひよこを、綾瀬が引き抜く。
「わぁー、やった!」
両手を挙げたしずくはぴょんぴょん跳ね上がった。
すっかり兄の顔になった須加は、リバーシを片づけ始めながら、綾瀬に声をかける。
「先輩、俺ちょっとご飯の支度をしてきます。漫画とか読みます?」
「いや、邪魔しちゃ悪いから……」
「一緒にご飯を食べましょう」
ふたりの話し声を聞いていたしずくはパッと顔を上げる。
「まだ帰らないで!」
寂しそうな顔に引き止められ、綾瀬は困った表情を浮かべた。
「今日は俺特製のカレーですよ」
「兄ちゃんのカレー、おいしいよ」
心が揺れる。しずくの前に普通に食事できるかという不安と同時に、もう少しだけ一緒にいたい気持ちもたしかにあった。
「大丈夫ですよ。一緒に食べましょう」
帰らないでと訴えてくるふたりの強い視線に堪えられず、綾瀬は浮かせかけた腰をソファに戻した。薄々気づいているが、どうやら須加兄妹の眼に弱いようだ。
「……わかった」
それから、須加の姿はキッチンへ消え、しずくは塗り絵セットを持ってきた。色鉛筆を渡され、ほんの少し戸惑いながら、綾瀬はしずくと並んで真っ白なくまを彩っていく。
ほどなくして、トントン、とリズムを刻んだ音がキッチンから響いてきた。音のほうに顔を向けると、料理をしている須加の後ろ姿が見えた。
ジュウジュウ。グツグツ……――
聞き慣れない生活音に、胸にあたたかい空気を送り込まれ、もわっとなにかが膨らんだような気持ちになった。
そのうちに、カレーのいいにおいが居間まで漂ってきた。
そういえば、毎日カレーを食べたいほど好きだったことを思い出す。同じものを食べ続けるのが苦だった理香子をずいぶん困らせていた。
『もー、よく飽きないわね。野菜もちゃんと食べてね』
母のカレーはどんな味だったか、もう思い出せない。
理香子とのことを思い出すと、胸の奥に渦巻いている感情が少し重くなった。
「ご飯ができたよ」
綾瀬はしずくに手を引かれ、食卓へ案内された。三人分のカレーライスが食卓に並んである。しずくはすぐに自分の席に座った。
「先輩はこっちです」
促されて席に着く。眼前のカレーを複雑な表情で見る。しずくに違和感を与えずに食べられるか。
須加が着席すると、兄妹ふたりは「いただきます」と声を揃えた。やや遅れて綾瀬もいただきます、と、ぎこちなく紡ぐ。
しずくは匙でカレーを掬い、口に入れた。うふふ~ん、と実に幸せそうに食べる。
「理人、どう? おいしい?」
須加は妹の問いに手を止めた。一拍置いてから、妹から綾瀬に視線を移す。
ふたりの視線からプレッシャーを感じながら、綾瀬はやっと匙を摑んだ。
ひと口を食べたら、しずくみたいな反応をすればごまかせるだろう。少しでも微妙な表情をしたら、不審がられるかもしれない。万が一フォークだと気づかれたら……
思考が一度でも嫌なほうに向いてしまうと、不安の波がどんどん押し寄せてくる。
パクッとひと口。鼻腔内に広がるスパイスの香り。舌先がカレーに触れた瞬間、微かだけど、たしかな味がした。
ハッと須加に顔を向ける。
「どうでした」
ほんのりと甘い――それは知っている味だ。
「……美味しい」
「よかった!」
「まだあるからおかわりできますよ」
食べながら、しずくは朝観たアニメの話をする。須加は微笑を浮かべて妹の話に相槌を打つ。
そんな兄妹を眺めていると、どうして今自分がここにいるだろう、と不思議に思い始めた。
黙々と食べていると、カレーを平らげた。
「おかわり要ります?」
「大丈夫。ごちそうさまです」
後片づけが終わる頃に、須加の両親が帰ってきた。ぎごちない挨拶を交わし、そろそろ帰ろうと思っていたら、「俺の部屋に行きましょう」とまた引き止められた。
須加の部屋は、階段を上がったすぐのところに位置する。扉を開けると、須加の甘いにおいがした。散らかっていないが、読みかけの本が数冊枕元に置いてある。
「ベッドに座っても大丈夫です」
「うん」
ベッドサイドに座ると、須加が横に腰をかけた。ふたり分の体重を受けたマットレスが沈んだ。
須加がなにかを言う前に、彼の手首を摑み、指を確かめる。人差し指の表面に、細い切り傷があった。傷口はまだくっついていない。指腹を軽く押すと、血が滲み出る。
「やっぱり指を切ったのか」
「気づきました?」
綾瀬の分のカレーに、須加は自分の血を入れたのだ。指の切り傷は浅い。そんなに入れてないだろう。
結果的に助かったが、それでも危ないことに変わりはない。
ケーキの味に刺激され、必死に抑え込んでいたフォークの本能が出てくるかもしれない。
それなのに、須加はその危険性をまるでわかっていない。何事もなかったように笑う。
「そんなことを頼んでない」
口調を強めると、須加は教師に叱られた子供のような顔になった。
「先輩がすごく心細そうにしてたから……味があれば、少しは安心できるかなって思って」
「……そんなのを気にしなくていいから、もっとケーキの自覚を持って」
たしかにご飯を食べるまでは不安だった。カレーを食べ、須加の味がしたとき、あたたかい毛布に包まれたような安心感を覚えた。
でも、須加を傷つけるまでその安心感を得ようと思わない。
「もう二度としないって約束して」
「わかりました」
今度こそもう帰ろう、と綾瀬は腰を浮かそうとするとき。
「……先輩。昼のとき、なにかあったんですか」
体調が悪くなった、と言えばこの話題はそれで終わる。心の奥に仕舞い込んだ記憶に、自分から触れたいと思わない。しかし、用意していた言葉が喉に支える。
誰にも話したくなかった理香子のことを、話してもいいかなと心が揺れた。
たっぷり時間を要してから、ようやく重い口を開く。
「結構昔のことだけど、フォークに襲われて死んだ女優のニュース、知ってる?」
ケーキバースがまだ広く知られていない時代に起こった捕食事件。世間をかなり震撼させたが、当時まだ四、五歳の須加は覚えていないかもしれない。
「なんとなく。捕食衝動について調べたとき、そんなのを見た気がする」
「あの女優は……俺のお母さん」
須加が静かに息を呑んだのがわかった。なにも言わない。真顔で、ただ綾瀬の言葉の続きを待つ。
ひと呼吸。理香子のことを誰かに話すのははじめてだ。なにをどう話すか、次の言葉を見つけるまで時間がかかった。
「お母さんと歩いてたら急に、後ろから男が襲ってきた。お母さんは刺されて倒れた。すごい血が流れて、その血を、男が飲んで……お母さんの腕を嚙んで……俺、びっくりして、座り込んでなにもできなかった」
***************
お読みいただきありがとうございます。
次は明日7/19 18時に更新します!
綾瀬の重い過去……よかったら読んでやってください
須加の家は、閑静な住宅街に佇む二階建ての一軒家。
「ただいま」
「兄ちゃん、おかえり! ママもうじいちゃんのところに行った」
待ち構えているかのように、玄関の扉を開けると、すぐにかわいらしい声が響いてきた。
廊下に顔をのぞかせた小さな女の子は須加を目掛け、ペチペチと足音を立てて歩いてくる。彼女の両手が、須加とのメッセージルームですっかり見慣れたひよこのぬいぐるみを抱いている。
ふいに、綾瀬はまん丸い両眼と視線がかち合った。すると、女の子はピタッと足を止め、ギュッとぬいぐるみを抱き締めた。
「しー、この人は兄ちゃんの友だち。ご挨拶できる?」
視線を合わせてしゃがんだ須加のもとへ、急にスイッチが入ったように女の子は走り出した。片手はぬいぐるみ、もう片手は兄の腕を摑む。警戒とも好奇心ともつかない眼差しでじっと見つめてくる。綾瀬は少しだけ帰りたくなった。
数秒を要してから、女の子はやっと口を開いた。声音はさっきより幾分落ち着いている。やはり見知らぬ人に緊張しているようだ。
「須加しずく、五歳」
「えっと、綾瀬理人です。こんにちは」
「先輩、どうぞ入ってください」
「お邪魔します」
くっついてくる妹に慣れた様子で、須加はその小さな手を握って先を歩く。綾瀬はふたりの後についていく。ときどき、前を歩くしずくが振り向いてチラリとこっちを見る。その視線が気になるけど、気づかないふりをする。
須加が帰ってくるまで、しずくはひとりでテレビを観ていたようだ。魔法少女はボロボロになっても必死に敵と戦っている。
「ここでちょっと待ってください。飲み物を持ってきます」
しずくとひとり分の距離をあけ、綾瀬はソファに腰を下ろした。所在なさげにテレビを観る。横からじっと見てくる視線が、無視できないほど強い。
どうしてこんなに見てくるか。子供だからフォークの性質を敏感に察知できるのか、なんてありえないことまで思考を巡らせた。
「えっと、テレビ、観ないの?」
「今朝の録画なの」
「そうなんだ」
会話らしい会話が続かない。平和のため魔法少女がこんなにも頑張っているのに、子供の視線がまだ綾瀬に止まったままだ。魔法少女の決め台詞から虚しい響きがした。
ようやく戻ってきた須加が救世主のように見えた。
「先輩はお水でいいですか」
「ありがとう」
「しーはオレンジジュースね」
「ありがとー」
須加がふたりの間に腰を下ろすと、しずくはすぐ須加の袖を引っ張る。
「どうした?」
ソファに立ち上がったしずくは須加に顔を寄せ、「あのね」と言う。
「お友だち、きれいな人だね」
兄にだけ耳打ちのつもりだろうが、声はよく通る。水を飲んでいた綾瀬の顔が上気した。一応空気を読んで聞こえないふりをする。
「ねえ、きれいだよね」
須加はニッと笑った。綾瀬が聞こえているとわかっていながら、しずくに耳打ちをし返す。声量を抑えていない。
「ふざけたことを言わないで」
「本心ですよ。先輩」
にやける須加の顔が憎たらしい。
「あそぼ」
「なにして遊ぶ?」
「リバーシ!」
ひよこのマスコットがついたリバーシが、しずくのマイブームらしい。
しずくが運んできた箱の中身を並べる。穴が空いたゲーム盤と、にわとりとひよこの形をした大量のマスコット。綾瀬は興味津々にひとつ摘み上げて見る。
「それがコマですよ」
すかさず須加が説明する。
綾瀬は眼を丸くした。記憶の中のリバーシは、白黒というシンプルなデザインだった。知らないうちに、ここまでかわいく進化していると感心した。
セッティングが終わると、須加としずくは直にフローリングに座った。綾瀬はソファに座ったまま。
「あそぼー」
しずくに腕を引っ張られた。小さな手なのに、力が意外と強い。潤った両眼に見つめられ、観衆でいられなくなった。
「……わかった」
須加の向かいに座った。そうすると、しずくはぴったりとくっついてきた。
遊び慣れていない綾瀬に、こっち、あっち、としずくが指示する。言われた通りにコマを盤に差して須加のコマをはさみ、にわとりをひよこにひっくり返す。
ひよこのマスコットが増えると、しずくは「やった」と笑いながら、ぐりぐりと頭を綾瀬の腕に擦りつけて甘える。
最初こそ黄色いひよこの数が多かった。だんだん白いにわとりの数が増えてきた。
「えー、ひよこ返して!」
しずくはくちびるを尖らせ、どんどんひよこを奪っていく兄の手を恨めしく睨む。
あっという間にすべてのマスが埋まった。わざわざ数えなくても、にわとりが多いのが一目瞭然だ。
「もっかい!」
かわいい妹のおねだりに、ふたりはせっせとゲーム盤をリセットする。
二回目の勝負は出るまで時間がかかった。
ゲーム盤の上は、黄色と白がきれいに彩る。パッと見ても、どっちが多いかわからない。綾瀬と須加が数えながらコマを引き抜くのを、しずくは固唾を吞んで見つめる。
須加の手が先に止まった。ゲーム盤に残った最後のひよこを、綾瀬が引き抜く。
「わぁー、やった!」
両手を挙げたしずくはぴょんぴょん跳ね上がった。
すっかり兄の顔になった須加は、リバーシを片づけ始めながら、綾瀬に声をかける。
「先輩、俺ちょっとご飯の支度をしてきます。漫画とか読みます?」
「いや、邪魔しちゃ悪いから……」
「一緒にご飯を食べましょう」
ふたりの話し声を聞いていたしずくはパッと顔を上げる。
「まだ帰らないで!」
寂しそうな顔に引き止められ、綾瀬は困った表情を浮かべた。
「今日は俺特製のカレーですよ」
「兄ちゃんのカレー、おいしいよ」
心が揺れる。しずくの前に普通に食事できるかという不安と同時に、もう少しだけ一緒にいたい気持ちもたしかにあった。
「大丈夫ですよ。一緒に食べましょう」
帰らないでと訴えてくるふたりの強い視線に堪えられず、綾瀬は浮かせかけた腰をソファに戻した。薄々気づいているが、どうやら須加兄妹の眼に弱いようだ。
「……わかった」
それから、須加の姿はキッチンへ消え、しずくは塗り絵セットを持ってきた。色鉛筆を渡され、ほんの少し戸惑いながら、綾瀬はしずくと並んで真っ白なくまを彩っていく。
ほどなくして、トントン、とリズムを刻んだ音がキッチンから響いてきた。音のほうに顔を向けると、料理をしている須加の後ろ姿が見えた。
ジュウジュウ。グツグツ……――
聞き慣れない生活音に、胸にあたたかい空気を送り込まれ、もわっとなにかが膨らんだような気持ちになった。
そのうちに、カレーのいいにおいが居間まで漂ってきた。
そういえば、毎日カレーを食べたいほど好きだったことを思い出す。同じものを食べ続けるのが苦だった理香子をずいぶん困らせていた。
『もー、よく飽きないわね。野菜もちゃんと食べてね』
母のカレーはどんな味だったか、もう思い出せない。
理香子とのことを思い出すと、胸の奥に渦巻いている感情が少し重くなった。
「ご飯ができたよ」
綾瀬はしずくに手を引かれ、食卓へ案内された。三人分のカレーライスが食卓に並んである。しずくはすぐに自分の席に座った。
「先輩はこっちです」
促されて席に着く。眼前のカレーを複雑な表情で見る。しずくに違和感を与えずに食べられるか。
須加が着席すると、兄妹ふたりは「いただきます」と声を揃えた。やや遅れて綾瀬もいただきます、と、ぎこちなく紡ぐ。
しずくは匙でカレーを掬い、口に入れた。うふふ~ん、と実に幸せそうに食べる。
「理人、どう? おいしい?」
須加は妹の問いに手を止めた。一拍置いてから、妹から綾瀬に視線を移す。
ふたりの視線からプレッシャーを感じながら、綾瀬はやっと匙を摑んだ。
ひと口を食べたら、しずくみたいな反応をすればごまかせるだろう。少しでも微妙な表情をしたら、不審がられるかもしれない。万が一フォークだと気づかれたら……
思考が一度でも嫌なほうに向いてしまうと、不安の波がどんどん押し寄せてくる。
パクッとひと口。鼻腔内に広がるスパイスの香り。舌先がカレーに触れた瞬間、微かだけど、たしかな味がした。
ハッと須加に顔を向ける。
「どうでした」
ほんのりと甘い――それは知っている味だ。
「……美味しい」
「よかった!」
「まだあるからおかわりできますよ」
食べながら、しずくは朝観たアニメの話をする。須加は微笑を浮かべて妹の話に相槌を打つ。
そんな兄妹を眺めていると、どうして今自分がここにいるだろう、と不思議に思い始めた。
黙々と食べていると、カレーを平らげた。
「おかわり要ります?」
「大丈夫。ごちそうさまです」
後片づけが終わる頃に、須加の両親が帰ってきた。ぎごちない挨拶を交わし、そろそろ帰ろうと思っていたら、「俺の部屋に行きましょう」とまた引き止められた。
須加の部屋は、階段を上がったすぐのところに位置する。扉を開けると、須加の甘いにおいがした。散らかっていないが、読みかけの本が数冊枕元に置いてある。
「ベッドに座っても大丈夫です」
「うん」
ベッドサイドに座ると、須加が横に腰をかけた。ふたり分の体重を受けたマットレスが沈んだ。
須加がなにかを言う前に、彼の手首を摑み、指を確かめる。人差し指の表面に、細い切り傷があった。傷口はまだくっついていない。指腹を軽く押すと、血が滲み出る。
「やっぱり指を切ったのか」
「気づきました?」
綾瀬の分のカレーに、須加は自分の血を入れたのだ。指の切り傷は浅い。そんなに入れてないだろう。
結果的に助かったが、それでも危ないことに変わりはない。
ケーキの味に刺激され、必死に抑え込んでいたフォークの本能が出てくるかもしれない。
それなのに、須加はその危険性をまるでわかっていない。何事もなかったように笑う。
「そんなことを頼んでない」
口調を強めると、須加は教師に叱られた子供のような顔になった。
「先輩がすごく心細そうにしてたから……味があれば、少しは安心できるかなって思って」
「……そんなのを気にしなくていいから、もっとケーキの自覚を持って」
たしかにご飯を食べるまでは不安だった。カレーを食べ、須加の味がしたとき、あたたかい毛布に包まれたような安心感を覚えた。
でも、須加を傷つけるまでその安心感を得ようと思わない。
「もう二度としないって約束して」
「わかりました」
今度こそもう帰ろう、と綾瀬は腰を浮かそうとするとき。
「……先輩。昼のとき、なにかあったんですか」
体調が悪くなった、と言えばこの話題はそれで終わる。心の奥に仕舞い込んだ記憶に、自分から触れたいと思わない。しかし、用意していた言葉が喉に支える。
誰にも話したくなかった理香子のことを、話してもいいかなと心が揺れた。
たっぷり時間を要してから、ようやく重い口を開く。
「結構昔のことだけど、フォークに襲われて死んだ女優のニュース、知ってる?」
ケーキバースがまだ広く知られていない時代に起こった捕食事件。世間をかなり震撼させたが、当時まだ四、五歳の須加は覚えていないかもしれない。
「なんとなく。捕食衝動について調べたとき、そんなのを見た気がする」
「あの女優は……俺のお母さん」
須加が静かに息を呑んだのがわかった。なにも言わない。真顔で、ただ綾瀬の言葉の続きを待つ。
ひと呼吸。理香子のことを誰かに話すのははじめてだ。なにをどう話すか、次の言葉を見つけるまで時間がかかった。
「お母さんと歩いてたら急に、後ろから男が襲ってきた。お母さんは刺されて倒れた。すごい血が流れて、その血を、男が飲んで……お母さんの腕を嚙んで……俺、びっくりして、座り込んでなにもできなかった」
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