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第11話
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さっきまでたしかに満腹を感じていたのだ。しかし、家に着く頃、ふいにお腹がぐーぅと鳴った。
飢えているというほどではないが、あのとき須加の問いに、お腹が空いたと答えればよかったと今さら思う。
本当……贅沢になったな。
傘を伝って落ちた雨粒が地面に作ったしみをぼんやりと見て、苦笑する。
エレベーターに乗り込む。ウィーンと無機質な機械音が聞こえる。冷蔵庫になにが入ってるっけ。味はなくても、須加が心を込めて作った作り置きを食べれば、きっと満たされる。
そんなことを考えながら、目的階に着いた。キーケースを手探りしながら、地面に残る濡れた足跡の上を歩く。吹き込んだ小雨が頬に当たる。冷たさに肌が粟立つ。キーケースから鍵を取り出す。あれ、と違和感を覚えた。
家の前は雨や足音で色濃くなっている。
けれど。
視線を先に向ける。地面は雨に濡れた程度だった。
無意識にキーケースを握り締めた。身震いしそうになるのを堪え、扉を解錠しようと視線を上げると、綾瀬は固まった。
ドアノブに見覚えのないレジ袋が引っかかっている。震え出した手でそれを外す。風に飛ばされるほど軽い。潰れた栄養補給ゼニーのパッケージと菓子パンの包装袋が入っている。
ただのいたずらだろうか……
胸から嫌な音が響く。家に入りたいのに、手足が動かない。呼吸のペースまで乱れた。
ウィーン――
突然響いた無機質な電子音に肩を震わせた。顔を向けると、エレベーターから出てきた女性も綾瀬の存在に驚いた。
「えっと、どうも」
「……こんばんは」
声を出すのも精いっぱいだった。
見知らぬ人だけど、手に鍵を持っているから隣人だろう。怪しい人じゃない。このまま突っ立っていると怪しまれるかもしれない。早く家に入らなきゃ。
そう思うのに、うまく鍵を差し込めない。
「あの……大丈夫ですか」
大丈夫だと返事したいのに、声の出し方がまるでわからない。くちびるの隙間からは、浅くて短い息だけこぼれ出る。
「ここに住まれてる方ですよね。今日一日中、男が待ってましたよ」
「えっ」
「なんか怒ってるみたいで、扉を蹴ってました」
女性が指差したところを見る。扉の下方に、靴跡に似た汚れがついている。
「声をかけたらすぐ行っちゃったけど、お知り合いですか」
綾瀬は首を横に振った。
「一応管理会社に連絡を入れときます。なにかあったら危ないから気をつけね」
「ご、ご迷惑をおかけしました」
「いいえいいえ」
何度も女性にぺこりと頭を下げてから、綾瀬は深く息を吸い、手の震えを抑えようと鍵を握り締める。
「それも心当たりがないですか?」
女性の視線はレジ袋に止まっている。
「……はい」
「不気味ですね。私が捨てていきましょう」
「でも」
「気にしないで。それより早く中に入ったほうがいいですよ。顔色が悪いです」
女性は綾瀬からレジ袋を受け取ると、すぐに来た道を戻ってエレベーターのボタンを押した。
「ありがとうございます」
扉が閉まるまで、綾瀬は頭を深く下げ続けた。下階へ移動するエレベーターの機械音を聞きながら、再びドアノブと向き合う。
まだ手が震えていて、ガタッと鍵穴に当てられなかった。四回目でようやく鍵を差し込めた。すぐに回して中に入り、扉を勢いで閉めて旋錠する。
暗い室内を見回す。
自分の家なのに、薄気味悪い。
居間に入ると、力が抜けてそのままぺたんと座り込んだ。
誰が、なんのために。
須加がはじめてここに訪れてきた日のことを、ふいに思い出した。
――なんか……汚くないですか。
外廊下の汚れを指摘された。
――こんなの落ちてるし。
須加が拾った菓子パンの包装袋は、さっきのゴミと同じだったような気がする。
気にもしなかったいささかのことだったが、全部偶然ではなかったら――知らない男が今まで何度もここに来ていたということになる。
ときおり感じた視線も、ただの気のせいではなかったら――ずっと誰かにつけられている。
誰が、なんのために。
綾瀬は必死に頭を働かせて考える。
理香子のことを調べるためしつこく追いかけてきた記者だろうか。
けれど、どうして今。
理香子の命日はまだ先だ。
理香子が原因でないとすれば、フォークだとバレたからかもしれない。捕食事件の被害者の息子がフォークだった――この特性がまさにマスコミの格好の餌食だ。
追われて、写真を撮られて、あれこれ聞かれる。忘れてしまいたいことを無理矢理に思い起こされ、隠したいことを暴かれ――想像するだけで胸がむかむかする。気持ちが悪い。
突然響いたスマホの振動音にすら、心臓が飛び出るほど驚いた。
『もうお家に着きました?』
視界が滲む。須加のメッセージに返事できなかった。トークルームを開くと、『助けて』と入力してしまいそうだ。
しかしそんなことはできない。もう自分のことで誰かを巻き込みたくない。
ついさっきまで須加と一緒に過ごしていたのに、そのとき感じていた温もりはもうすっかり冷めてしまった。
まるで、つかの間のあたたかい夢を見ることすら許されない。罪悪感と後悔に押し潰されて息をするのもつらい。
次の日、さらに次の日も、綾瀬は学校を休んだ。家を出ることができなかった。
出かけようとすると、胸がバクバクと鳴り出し、頭の中が嫌な妄想でぐちゃぐちゃになる。
勉強する気すら起きない。ベッドに横たわったまま、なにもできない自分に次第に嫌悪感を覚えた。
神経が過敏になり、スマホのバイブにも驚く。乱れた拍動音を感じながらスマホを取る。
須加からのメッセージだろう。この二日間、申し訳なさを覚えながら何度も無視した。
画面を確かめると、鳴り止まない振動は叔母からの着信通知だった。
『もしもし理人?』
「はい」
『どうしたの? 体調が悪いの?』
声音に心配の響きがした。後ろめたさが込み上げてくる。
「ちょっとだけ」
『今日様子見に行こうか』
「い、いいよ! 寝てれば治るから」
『二日間も休んだんでしょう? 本当に大丈夫なの?』
「ちょっとサボってみたくなっただけ、本当に大丈夫だから」
『……そう。理人がそう言うなら今日行くのはやめておくね。でも理人、なんかあったら絶対言ってね』
「……わかった」
『じゃあゆっくり休んでね。ご飯もちゃんと食べるのよ』
「……わかった」
もう叔母を悲しませたくなくて、迷惑をかけたくないから、叔母の庇護下から離れたのに。また、心配させてしまった。後ろめたさで心が潰れそうになった。
*******
次は明日7/26の昼頃に更新します
須加が出てきます!
飢えているというほどではないが、あのとき須加の問いに、お腹が空いたと答えればよかったと今さら思う。
本当……贅沢になったな。
傘を伝って落ちた雨粒が地面に作ったしみをぼんやりと見て、苦笑する。
エレベーターに乗り込む。ウィーンと無機質な機械音が聞こえる。冷蔵庫になにが入ってるっけ。味はなくても、須加が心を込めて作った作り置きを食べれば、きっと満たされる。
そんなことを考えながら、目的階に着いた。キーケースを手探りしながら、地面に残る濡れた足跡の上を歩く。吹き込んだ小雨が頬に当たる。冷たさに肌が粟立つ。キーケースから鍵を取り出す。あれ、と違和感を覚えた。
家の前は雨や足音で色濃くなっている。
けれど。
視線を先に向ける。地面は雨に濡れた程度だった。
無意識にキーケースを握り締めた。身震いしそうになるのを堪え、扉を解錠しようと視線を上げると、綾瀬は固まった。
ドアノブに見覚えのないレジ袋が引っかかっている。震え出した手でそれを外す。風に飛ばされるほど軽い。潰れた栄養補給ゼニーのパッケージと菓子パンの包装袋が入っている。
ただのいたずらだろうか……
胸から嫌な音が響く。家に入りたいのに、手足が動かない。呼吸のペースまで乱れた。
ウィーン――
突然響いた無機質な電子音に肩を震わせた。顔を向けると、エレベーターから出てきた女性も綾瀬の存在に驚いた。
「えっと、どうも」
「……こんばんは」
声を出すのも精いっぱいだった。
見知らぬ人だけど、手に鍵を持っているから隣人だろう。怪しい人じゃない。このまま突っ立っていると怪しまれるかもしれない。早く家に入らなきゃ。
そう思うのに、うまく鍵を差し込めない。
「あの……大丈夫ですか」
大丈夫だと返事したいのに、声の出し方がまるでわからない。くちびるの隙間からは、浅くて短い息だけこぼれ出る。
「ここに住まれてる方ですよね。今日一日中、男が待ってましたよ」
「えっ」
「なんか怒ってるみたいで、扉を蹴ってました」
女性が指差したところを見る。扉の下方に、靴跡に似た汚れがついている。
「声をかけたらすぐ行っちゃったけど、お知り合いですか」
綾瀬は首を横に振った。
「一応管理会社に連絡を入れときます。なにかあったら危ないから気をつけね」
「ご、ご迷惑をおかけしました」
「いいえいいえ」
何度も女性にぺこりと頭を下げてから、綾瀬は深く息を吸い、手の震えを抑えようと鍵を握り締める。
「それも心当たりがないですか?」
女性の視線はレジ袋に止まっている。
「……はい」
「不気味ですね。私が捨てていきましょう」
「でも」
「気にしないで。それより早く中に入ったほうがいいですよ。顔色が悪いです」
女性は綾瀬からレジ袋を受け取ると、すぐに来た道を戻ってエレベーターのボタンを押した。
「ありがとうございます」
扉が閉まるまで、綾瀬は頭を深く下げ続けた。下階へ移動するエレベーターの機械音を聞きながら、再びドアノブと向き合う。
まだ手が震えていて、ガタッと鍵穴に当てられなかった。四回目でようやく鍵を差し込めた。すぐに回して中に入り、扉を勢いで閉めて旋錠する。
暗い室内を見回す。
自分の家なのに、薄気味悪い。
居間に入ると、力が抜けてそのままぺたんと座り込んだ。
誰が、なんのために。
須加がはじめてここに訪れてきた日のことを、ふいに思い出した。
――なんか……汚くないですか。
外廊下の汚れを指摘された。
――こんなの落ちてるし。
須加が拾った菓子パンの包装袋は、さっきのゴミと同じだったような気がする。
気にもしなかったいささかのことだったが、全部偶然ではなかったら――知らない男が今まで何度もここに来ていたということになる。
ときおり感じた視線も、ただの気のせいではなかったら――ずっと誰かにつけられている。
誰が、なんのために。
綾瀬は必死に頭を働かせて考える。
理香子のことを調べるためしつこく追いかけてきた記者だろうか。
けれど、どうして今。
理香子の命日はまだ先だ。
理香子が原因でないとすれば、フォークだとバレたからかもしれない。捕食事件の被害者の息子がフォークだった――この特性がまさにマスコミの格好の餌食だ。
追われて、写真を撮られて、あれこれ聞かれる。忘れてしまいたいことを無理矢理に思い起こされ、隠したいことを暴かれ――想像するだけで胸がむかむかする。気持ちが悪い。
突然響いたスマホの振動音にすら、心臓が飛び出るほど驚いた。
『もうお家に着きました?』
視界が滲む。須加のメッセージに返事できなかった。トークルームを開くと、『助けて』と入力してしまいそうだ。
しかしそんなことはできない。もう自分のことで誰かを巻き込みたくない。
ついさっきまで須加と一緒に過ごしていたのに、そのとき感じていた温もりはもうすっかり冷めてしまった。
まるで、つかの間のあたたかい夢を見ることすら許されない。罪悪感と後悔に押し潰されて息をするのもつらい。
次の日、さらに次の日も、綾瀬は学校を休んだ。家を出ることができなかった。
出かけようとすると、胸がバクバクと鳴り出し、頭の中が嫌な妄想でぐちゃぐちゃになる。
勉強する気すら起きない。ベッドに横たわったまま、なにもできない自分に次第に嫌悪感を覚えた。
神経が過敏になり、スマホのバイブにも驚く。乱れた拍動音を感じながらスマホを取る。
須加からのメッセージだろう。この二日間、申し訳なさを覚えながら何度も無視した。
画面を確かめると、鳴り止まない振動は叔母からの着信通知だった。
『もしもし理人?』
「はい」
『どうしたの? 体調が悪いの?』
声音に心配の響きがした。後ろめたさが込み上げてくる。
「ちょっとだけ」
『今日様子見に行こうか』
「い、いいよ! 寝てれば治るから」
『二日間も休んだんでしょう? 本当に大丈夫なの?』
「ちょっとサボってみたくなっただけ、本当に大丈夫だから」
『……そう。理人がそう言うなら今日行くのはやめておくね。でも理人、なんかあったら絶対言ってね』
「……わかった」
『じゃあゆっくり休んでね。ご飯もちゃんと食べるのよ』
「……わかった」
もう叔母を悲しませたくなくて、迷惑をかけたくないから、叔母の庇護下から離れたのに。また、心配させてしまった。後ろめたさで心が潰れそうになった。
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