クロノス

新井 岳

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夜空に浮かぶ無数の星々が、まるで遠い故郷の家族を見つめているかのように瞬いていた。私はその光を、このボロボロのエレベーターの窓から眺めていた。このエレベーターは、私にとっての家であり、職場であり、そして唯一の友だった。
その名を「クロノス」という。
普通の集合住宅にありそうな、ありふれたエレベーターだ。しかし、違う点が一つだけある。階数ボタンに「現在」や「未来」などといった、日付や時代が記されていることだ。
数年前、私はこのクロノスの管理人になった。正確には、クロノスに選ばれたのだ。初めてこのエレベーターに足を踏み入れた日のことを、今でも鮮明に覚えている。錆びついた扉が開き、薄暗いエレベーター内に足を踏み入れると、壁に埋め込まれたパネルが静かに輝き出した。
「適合者、認証完了」
その声が響いた瞬間、私は自分の運命が、永遠にこのエレベーターと共に歩むことになったことを悟った。それ以来、私はクロノスと共に、時空の狭間を旅する配達人になった。過去の時代に忘れられた希望を届けたり、未来に消えゆく運命の鍵を運んだり。私の仕事は、時空の歪みを修復することだった。
ある夜、私は西暦2050年、大都市の摩天楼にそびえ立つビルの最上階から、西暦1920年のロンドンにある、小さな古書店へと向かっていた。扉が閉まり、エレベーターがゆっくりと下降する。階数を示すランプが次々と点滅していく。1990年、1950年、そして1920年。
エレベーターが停止し、扉が開くと、そこには白黒の世界が広がっていた。行き交う人々はレトロな衣装を身につけ、馬車が行き来する石畳の道からは、蹄の音が響いてくる。私は古書店の扉を開け、一冊の古びた手帳を店主へと手渡した。それは、未来に起こるであろう悲劇を回避するための、唯一の手がかりとなる手帳だった。
任務を終え、クロノスに戻ると、私は疲れた体を壁にもたれかけ、深く息を吐いた。
「クロノス、次はどこへ行くんだい?」
私の問いかけに、クロノスは答えなかった。代わりに、エレベーター内のパネルが、私が見たことのない階数を示した。そこには「起源」と記されていた。
「起源?」
私は思わずつぶやいた。それは、過去のどんな時代よりも遠い、この世界の始まりを意味していた。
クロノスの扉がゆっくりと閉まり、エレベーターは再び時空の旅へと出発した。私は、この旅の果てに何が待ち受けているのかを知らない。しかし、私はこのエレベーターと共に、その答えを探す旅に出るのだ。このボロボロのエレベーター、クロノスと共に。

薄暗いエレベーターの内部に、静かな電子音が響いた。階数パネルに表示されていた「起源」の文字が、ゆっくりと点滅している。私は不安と期待が入り混じった奇妙な感覚に包まれながら、クロノスの壁に寄りかかった。
「クロノス、一体どこへ向かっているんだい? 過去のどの記録にも、この時代のことは記されていないはずだ」
私の問いかけに、クロノスは答えなかった。代わりに、エレベーターは猛烈な勢いで下降を始めた。通常のタイムトラベルでは感じることのない、強烈なGが体を襲う。壁に埋め込まれたパネルが、次々と奇妙な数字や記号を表示していく。それは、私がこれまでの旅で見たことのない、未知の言語や数式だった。
どれほどの時間が経過しただろうか。やがてエレベーターは、ふわりと停止した。扉がゆっくりと開き、外の世界の光がエレベーターの内部に差し込んでくる。私は恐る恐る扉の外に一歩足を踏み出した。
そこは、何も存在しない空間だった。広がるのは、無限に続く漆黒の闇。しかし、その闇の中に、無数の光の粒子が、まるで蛍のように輝いている。その光は、ゆっくりと渦を巻き、まるで生きているかのように、形を変えていく。
「これは…」
私が言葉を失っていると、エレベーターのパネルから、再び声が響いた。
「ここは、あなたの時間軸の外です。創造の瞬間であり、すべての始まりの場所」
声の主は、クロノスだった。しかし、これまでの機械的な声とは違い、その声には感情がこもっているようにも感じられた。
「なぜ、私をここに連れてきたんだ?」
私は問いかけた。
「あなたは、この世界で最も重要なものを、過去に置き忘れてきたからです」
クロノスの言葉に、私は理解が追いつかなかった。私が何かを忘れた? しかし、いつ、何を?
その瞬間、闇の中に輝く光の粒子の一つが、私の目の前に現れた。それは、小さな光の塊だった。その光に触れようと手を伸ばすと、光は形を変え、一つの懐中時計になった。それは、私が子供の頃に、祖父から貰った大切な懐中時計だった。時を刻むことをやめ、針が止まったままの、壊れた懐中時計。私は、それを物心ついた頃から、ずっと肌身離さず持っていたはずだった。
「それは、あなたの時間です。あなたは、過去にそれを置いてきてしまった。それが、この世界の時間軸を歪ませた原因です」
クロノスは淡々と語った。私は驚きを隠せない。祖父から貰った懐中時計が、世界の時間を歪ませるほどの力を持つなんて、信じられなかった。
「なぜ、そんなことを…」
私は震える声で尋ねた。
「あなたは、自身の過去を乗り越えなければ、未来へ進むことができない。そのために、あなたは自身の過去と向き合う必要があったのです」
その言葉を最後に、懐中時計は再び光の粒子となり、闇の中に消えていった。そして、エレベーターの扉がゆっくりと閉まり始める。
「クロノス…」
私はもう一度、クロノスの名を呼んだ。しかし、返事はなかった。
エレベーターは再び動き出し、私は再び、時空の旅へと放り出された。しかし、今度の旅は、これまでとは違う。私は、自分の「時間」を取り戻すために、そして、世界の歪みを修復するために、過去の旅に出るのだ。あの懐中時計が、私に何を伝えようとしていたのか、そして、私が何を忘れてしまったのか。その答えを探すために。

漆黒の闇から再び光が差し込み、エレベーターはゆっくりと停止した。扉が開くと、そこは私がかつて住んでいた、古びたアパートの一室だった。壁のシミや剥がれたペンキ、使い古された家具。すべてが、私の記憶の中にあるままだった。しかし、決定的に違う点が一つだけあった。
床の上に、一冊の古いアルバムが落ちていた。それは、私が子供の頃、祖父と過ごした日々を記録した、大切な思い出の品だった。
クロノスは、私を過去の自分と再会させるのではなく、直接、この場所に連れてきたのだ。アルバムを拾い上げると、私はページをめくり始めた。幼い頃の私と、優しく微笑む祖父の写真。一枚、また一枚とページをめくっていくうちに、ある写真で私の指が止まった。
それは、私と祖父が、夕焼けを背景にベンチに座っている写真だった。私の手には、壊れた懐中時計が握られている。そして、その写真の下には、祖父の震える手で書かれたと思われる文字が記されていた。
「壊れた時間を、決して手放すな」
その言葉を読んだ瞬間、私の頭の中に、忘れていた記憶が蘇った。
子供の頃、私はこの懐中時計を壊してしまった。動かなくなった時計を見て、私はひどく落ち込んだ。そんな私に、祖父はこう言ったのだ。
「いいかい、アキラ。時間は、刻むだけがすべてじゃない。止まった時間にも、大切な思い出が詰まっている。だから、この時計は、決して捨ててはいけないんだ」
私は、その言葉の意味を、ずっと理解できずにいた。時を刻むことのできない時計に、一体どんな意味があるというのだろうか。しかし、今、この場所で、私はその本当の意味を悟った。
懐中時計は、ただの時計ではなかった。それは、祖父との大切な思い出、そして、私が未来へ進むための、壊れたままの鍵だったのだ。私は、時が止まったこの懐中時計を、自身の過去と共に置き去りにしてしまった。それが、世界の時間軸を歪ませた原因だった。
私は、アルバムを閉じた。そして、手に持った壊れた懐中時計を、もう一度見つめた。針は止まったままだが、私には確かに、その中で、祖父と過ごした温かい時間が流れているのが感じられた。
その時、エレベーターのパネルから、再びクロノスの声が響いた。
「これで、あなた自身の時間は修復されました。さあ、未来へ進む準備はできましたか?」
私は、壊れた懐中時計をポケットにしまった。それはもう、重荷ではなかった。私の未来を、祖父との思い出を、そして世界の時間を修復するための、新しい始まりの証だった。
「ああ、いつでも」
私は微笑み、再びエレベーターへと足を踏み入れた。扉が閉まり、エレベーターはゆっくりと上昇を始める。階数を示すランプは、今度は「未来」を指していた。
私は、壊れた時間と共に、未来へ向かう。そして、この懐中時計が、いつか再び動き出す日を信じて。
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