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十二月二十三日の記憶
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この時期の京都は底冷えしていた。
特に手足の冷える僕にとっては、温かな存在が隣にいてほしかった。
十二月二十三日。温かな存在が、僕の傍からいなくなった日。
ちょうど二年経った今でも覚えている。
この日だけは、カップル、その類の人々を視界に入れたくないので、僕はうつむき加減で帰宅する。それでも、視界の端には映りこんでくる幸せな男女二人組。ため息が出る。
「どうか、今の関係をこれ以上なく大切に思えよ。」と心の中で思ってしまう。
十二月二十三日。僕は初めて彼女に振られた。
この彼女以前にも交際経験は四、五回ほどあったが、振られたのは初めてだった。そして、一番深くかかわったのも、今回の彼女が初めてだった。その傷が癒えないまま、次の恋愛に進んでしまって今に至る。その彼女と別れて三週間後、当時学生で、今は看護師の女性と付き合った。その彼女と関係は続いている。僕が大阪、お相手が京都といった少し距離のある恋愛だ。
今日は十二月二十三日。うつむきながら帰ったその先には、真っ暗で冷たい空気に満ちた賃貸の一室。仕事を終えて帰ってくると、料理の支度をする。だが今日は、そんな気が起こらなかった。だから、服だけ上下真っ黒なスウェットに着替えて、いつも行く近くの居酒屋に赴く。とても丁寧な料理を出してくれるお店で、仕事終わりにどうしても自炊する元気がないときは、ここを利用している。
カランッ
「あ、お兄ちゃん! いらっしゃい! 開いてる席座りな!」
「どうも」
といつものように、一番奥のカウンター席に腰かける。
「はい! おしぼりとお冷!」
「ありがとうございます」
「注文はいつも通りか?」
「いえ、今日はちょっと……メニュー見てから決めます」
「そうか。決まったら声かけてな」
そう言われて、メニューに目を通す。このお店のメニューには、まさに「居酒屋」というようなものがたくさん並ぶ。軟骨の唐揚げ。だし巻き卵。焼き鳥。おまけにホルモン鍋まである。その中でひときわ僕が興味を持っていたのは、「炊き込みご飯」だ。なんせ一合炊いて、食べられる分だけ食べた後の残ったご飯は、おむすびにして持って帰らせてくれるらしい。「明日の昼ご飯にでも食べられるな」そんなことを思いながら、
「大将。まずはだし巻き卵と軟骨の唐揚げ、あとは……炊き込みご飯で」
「はいよ! 炊き込みは? 一合でええか?」
「はい一合でお願いします」
「今からやと炊き込みは少し時間もらうから、先にだし巻きと軟骨の唐揚げ準備するわ。きゅうりの漬けもんとかもどうや?」
「いただきます。ありがとうございます」
僕はそう言って、いつもとは少し違う晩御飯を楽しむことに心が躍っていた。
だし巻きのふわっとしたやわらかい香り。その後に響く、軟骨の唐揚げの揚がる軽い音が心地よかった。この心地よさは何かに似ていた。
ふと学生時代のことを思い出す。設計課題の毎日。九か月間、半同棲をした元彼女。僕に言葉を残して卒業した、心がつながった魅力的な先輩。今の彼女との出会い……というか再会。一つ一つ、まだ丁寧に思い出せる。
僕は、素敵な彼女がいながら、まだ過去の恋愛を引きずっているのだ。なんとも馬鹿馬鹿しい。そして女々しい。誰かに叱られそうだ。だから誰にも話したことはない。
そんなことを考えているうちに、僕のカウンターテーブルには、だし巻き卵と軟骨の唐揚げ、きゅうりの漬物が並べられた。それらを口に運ぶために、割り箸を取ろうと顔を上げたその刹那、とある視線に気がついた。
―隣に座る女性の視線だ。
一瞬で、一席開けて隣に座っている女性が、元彼女だと気が付いた。失礼かもしれないが、なにも変わっていない。変わったのは、私服がオフィスカジュアルになっていただけ……。大阪で就職したのは知っていたからあり得る話だ。しかし、僕は気づかないふりをした。また傷つくのが怖かったからだ。「お願いだ。声をかけないでくれ。」と神様に願った。
神様は私の願いに気付かなかったようだ。
「律くん……?」
僕はまだ気づかないふりをする。心臓がはちきれそうだ。
「野上律くんだよね?」
もう無理だ。神様の悪戯に付き合おう。
「え……?侑加さん? なんでここに……」
「今とっても驚いています」という表情と声色で応えた。
「そうだよ! やっぱり律くんだ。変わらないね」
「びっくりした。侑加さんもお元気そうで」
もう帰りたい。なぜまだ癒えていない傷に塩を塗り込まれなければいけないのだ。しかもこの十二月二十三日という日に。
彼女は覚えてすらいないのだろう。この日は、あなたが私を振った日だということを。
彼女はそのまま席を一つ詰めて、隣に座った。彼女のこういうところが嫌いだった。
「こんな偶然あるんだね。律くん」
「そうだね。もう二度と会わないと冗談抜きに思っていたよ」
また、好きになってしまうのだろうか…。僕には彼女がいるのに。
少しの沈黙の後、彼女が口を開いた。
「律くん。二年前の今日のこと覚えてる?」
もちろん覚えてる。あなたが私を振った日だ。でも別のことかもしれない。
「二年前……? 覚えてないけどどうしたの?」
知らないふりをした。もう傷つきたくない。
「そっか……なんでもない」
そう言い切って彼女はジョッキの中のビールを飲み干した。あの頃、ビールは苦手と言って、一緒に飲めなかったのに……。
「大将。お会計お願いします」
と彼女は言った。
「まって侑加さん」
脳が勝手に口を動かした感覚だった。なんで引き留めたのだろう。未練たらしい。焦りながらも、言い訳を脳内で必死に探す。話がしたい? いや違う。ご飯が……
「炊き込みご飯頼んだんだけど、一人では多いから一緒にどう?」
「え……いいの?」
「うん。逆に助かるよ」
「じゃあお言葉に甘えて……」
「なんだ? お会計はまだいいって感じか?」
「はい。すみません大将」
「いいよいいよ! ゆっくりしてきな! 知り合いか?」
「はい! 昔交際していた律くんです」
「そうかそうか。ならなおさらゆっくりしてきな!」
「ありがとうございます!」
彼女は快活に答えた。
侑加さんはメニューを持って、近づいて聞いてきた。
「律くん律くん。炊き込みご飯ってこれ?」
相変わらず、異性との距離が近い。
「そうだよ。一合頼んじゃったから半分食べて」
「一合か……」
「なに?」
「いや、懐かしいなって……」
もうやめてほしい。僕はまだ、懐かしむことができるほど思い出になっていない。
「どういうこと? 何か思い出があるの?」
侑加さんは疑うような目で、こちらをじっと見てきた。
「覚えてるんでしょ?二合の小さな炊飯器……」
やっぱりその話か。お冷を一口、口に含む。
「あったね。一合を二人で食べるときは、半分ずつにしてちょうどいいって気づいた……ってやつでしょ?」
「そうそう。最初は二合炊いてて、半分は冷凍してたけどね」
「懐かしいね」
この言葉は自分を守るためのまやかしだ。気のせいか、店内はたくさんの人で満ちているのに、周りの話が聞こえてこない。侑加さんの声としぐさだけが鮮明に映し出される。この居酒屋は、さながら彼女のための演劇セットのようだ。
彼女は追い打ちをかけてくる。
「一緒に陶芸体験に行って、作ったお茶碗で食べてたよね」
もう思い出したくない。芋づる式にあの頃気づけなかった「幸せ」が思い出される。
「そうだったね。工房の名前はたしか……」
「さく工房だよ」
僕もはっきりと覚えていたが、はぐらかした。
「あれ? そんな名前だったっけ?」
「そうだよ! 律くんが勝手に漢字で『朔工房』だったら……とか言ってたじゃん」
「新月を意味するってやつね。物事の始まりを意味しているみたいでいいって」
「そうそう……」
やっぱりこの人との生活が忘れられない。今の彼女もこれ以上なくいいお相手なのだけど、九か月間もほぼ毎日一緒に生活していた人なんて、これからも数人しか出会えないのだろうから。
「はい。おまちどうさま! 炊き込みご飯や!」
「ありがとうございます」
「わあ! おいしそう!」
「この店来るのは初めて?」
「うん」
僕は炊き込みご飯を混ぜて、彼女の分を取り分けながら話した。
「そうだったんだ。大阪で就職してたのは知ってたから会うのは不思議ではないけど、偶然すぎたね」
「ほんとだねー」
「うん。はいどうぞ」
「ありがとう」
「いえいえ」
なんて当たり障りのないやり取りをしていると、
「そういえばさ、律くん侑加と別れてすぐライン消したでしょ?」
彼女の一人称が自分の名前になった。当時も慣れてくると彼女はそうなっていた。
「ごめんね。侑加さんと別れて本当に辛くて……。今後関わることもないと思うと指が勝手に動いちゃって」
「なるほどね。そんなに好きだったんだ。侑加のこと……」
「俺、最後まで別れたくないって言ってたでしょ」
「たしかに」
彼女は笑いながら言った。そこには、ここにしかない、どこにもない、誰にもない、柔らかな空気が漂った。やはりこの店は彼女のための演劇セットなんだ。
「いただきます」
彼女は言った。僕がよそい終わるのを待ってくれていたみたいだ。先にご飯をよそってあげたのは失敗だったかな。
「いただきます」
僕も続いて言う。
「そういえば侑加たちってなんで別れたんだっけ……?」
もういいや。傷をえぐるだけえぐられよう。
「俺がうまく感情表現できなくて、嫌なことがあると態度に出るのに言葉にできなかったからってのが一番の原因だね」
「そうだっけ。私も付き合ってすぐにとっても申し訳ないことをした覚えがあるけど……」
確かにあった。だから僕はこの人に自分の本心を話すことを敬遠したのだ。付き合って間もない頃に、信頼関係の基礎を壊された気分だった。
「終電を逃して、一緒に飲んでた男二人と男の家で寝てきたことはあったね……」
僕はバツが悪そうに言う。これが今でもトラウマになっているのだ。いわゆる「寝取られ」というやつなのだろう。どこに向ければいいか分からない怒りがまた当時の熱量で込み上げてくる。今にもそれを吐露しそうだ。
「ほんとに何もしてなかったんだよ……? でも信じられないよね。侑加のこと信じて欲しかったな……」
「ごめんね。いまでも信じることはできない」
「ううん。侑加こそごめんね」
しばらくの間、他の客の声や話の内容に耳がいった。
「おいしいね。この炊き込みご飯」
「俺も初めて頼むんだけど、そうだね。今度からこれも頼んでみて」
「そうする」
僕たちは一合の炊き込みご飯を半分ずつ味わった。
「大将お会計お願いします」
「はいよ! 姉ちゃんと分けて会計でええな?」
「はい。分けてお願いします」
もう当時とは違うのだ。お会計も分けて行う。
「姉ちゃんはこっち。兄ちゃんはこっち。あとはレジで!」
「わかりました。ご馳走さまでした」
「ご馳走さまでした!」
彼女も続けて言う。
「私さ、律くんのそういうところすごく好きだったな……」
「なんのこと?」
「なんでもない! レジいこ!」
一人称が私になっている。昔話はこれでおしまいってことかな。店の外に出る。寒い。
「帰り道はどっち?」
「俺はこっち。すぐそこのマンション」
「私もこっちの方の駅だから、一緒に歩こ」
「いいよ」
こうして歩くのすら僕にとっては傷をえぐられる行為。夜空は絵に描いたように澄んでいて、逆に残念に思った。やっぱり神様の悪戯か。
「そういえばさ、そのスウェット。同じの買ったから私のとどっちがどっちのかわからなくなったままのやつだよね?」
「そうだよ。でも卒業設計の制作の時に塗料で少し汚れたからもうこれは俺のです」
作り笑いをしながら話した。
「卒業設計ダブル受賞。学科内史上初事例。そして就職先は学部卒で唯一の大手ゼネコン設計部。ほんと律くんって勝ち組だよね」
勝ち組……僕はその言葉が嫌いだ。あくまで血のにじむような努力をして得た結果だ。
「勝ち組か……そんなこと考えたことなかったよ。結構業務も激務だよ」
「確かにそうなのかもね。あの律君が居酒屋で晩御飯だもの」
「そうでしょ。いい証拠だよ」
家までの道ってこんなに短かったっけ……
「今日は十二月二十三日だよ。律くん。」
「そうだね。もう少しでクリスマス。いきなりどうしたの?」
「私があなたを振った日」
「覚えてたんだ……」
「うん……」
夜空を見上げる。さっきより空は暗く見えた。
「じゃあ俺はここで」
「あ、あっちなんだ。そっか……」
「うん。またどこかで」
「どこかではいや……また飲みに行こうよ」
もうこれ以上この人と関わってはいけないとわかっているのにまた脳は勝手に口を突く。
「いいよ。次いつ休みなの?」
「毎週水曜と日曜が休み。実質日曜だけだけど……どっちかなら連絡くれたら行けるよ」
「わかった。じゃあまた連絡する」
「連絡ってなにで? 律くんライン消してるじゃん」
「そうだった」
「もう一回交換しよ? 一応確認なんだけど、いま彼女さんとかいないよね?」
心臓がドキリとなった。だんだん不安になる。この人とご飯に行くのは浮気ではないだろうかと。
「いないよ」
ついてはいけない嘘をついた。でも神様の悪戯に付き合ったのだ。このくらい……
「よかったー。いたら浮気っぽくなるからね」
「そうだよね」
多少の躊躇はありながら、QRコードを差し出した。
「はい完了! 次は消さないでね?」
「消さないよ。じゃあまた」
「うん。またね」
侑加さんとのちょうどいい距離の保ち方に頭を悩ませながら一人で帰路に就いた。
特に手足の冷える僕にとっては、温かな存在が隣にいてほしかった。
十二月二十三日。温かな存在が、僕の傍からいなくなった日。
ちょうど二年経った今でも覚えている。
この日だけは、カップル、その類の人々を視界に入れたくないので、僕はうつむき加減で帰宅する。それでも、視界の端には映りこんでくる幸せな男女二人組。ため息が出る。
「どうか、今の関係をこれ以上なく大切に思えよ。」と心の中で思ってしまう。
十二月二十三日。僕は初めて彼女に振られた。
この彼女以前にも交際経験は四、五回ほどあったが、振られたのは初めてだった。そして、一番深くかかわったのも、今回の彼女が初めてだった。その傷が癒えないまま、次の恋愛に進んでしまって今に至る。その彼女と別れて三週間後、当時学生で、今は看護師の女性と付き合った。その彼女と関係は続いている。僕が大阪、お相手が京都といった少し距離のある恋愛だ。
今日は十二月二十三日。うつむきながら帰ったその先には、真っ暗で冷たい空気に満ちた賃貸の一室。仕事を終えて帰ってくると、料理の支度をする。だが今日は、そんな気が起こらなかった。だから、服だけ上下真っ黒なスウェットに着替えて、いつも行く近くの居酒屋に赴く。とても丁寧な料理を出してくれるお店で、仕事終わりにどうしても自炊する元気がないときは、ここを利用している。
カランッ
「あ、お兄ちゃん! いらっしゃい! 開いてる席座りな!」
「どうも」
といつものように、一番奥のカウンター席に腰かける。
「はい! おしぼりとお冷!」
「ありがとうございます」
「注文はいつも通りか?」
「いえ、今日はちょっと……メニュー見てから決めます」
「そうか。決まったら声かけてな」
そう言われて、メニューに目を通す。このお店のメニューには、まさに「居酒屋」というようなものがたくさん並ぶ。軟骨の唐揚げ。だし巻き卵。焼き鳥。おまけにホルモン鍋まである。その中でひときわ僕が興味を持っていたのは、「炊き込みご飯」だ。なんせ一合炊いて、食べられる分だけ食べた後の残ったご飯は、おむすびにして持って帰らせてくれるらしい。「明日の昼ご飯にでも食べられるな」そんなことを思いながら、
「大将。まずはだし巻き卵と軟骨の唐揚げ、あとは……炊き込みご飯で」
「はいよ! 炊き込みは? 一合でええか?」
「はい一合でお願いします」
「今からやと炊き込みは少し時間もらうから、先にだし巻きと軟骨の唐揚げ準備するわ。きゅうりの漬けもんとかもどうや?」
「いただきます。ありがとうございます」
僕はそう言って、いつもとは少し違う晩御飯を楽しむことに心が躍っていた。
だし巻きのふわっとしたやわらかい香り。その後に響く、軟骨の唐揚げの揚がる軽い音が心地よかった。この心地よさは何かに似ていた。
ふと学生時代のことを思い出す。設計課題の毎日。九か月間、半同棲をした元彼女。僕に言葉を残して卒業した、心がつながった魅力的な先輩。今の彼女との出会い……というか再会。一つ一つ、まだ丁寧に思い出せる。
僕は、素敵な彼女がいながら、まだ過去の恋愛を引きずっているのだ。なんとも馬鹿馬鹿しい。そして女々しい。誰かに叱られそうだ。だから誰にも話したことはない。
そんなことを考えているうちに、僕のカウンターテーブルには、だし巻き卵と軟骨の唐揚げ、きゅうりの漬物が並べられた。それらを口に運ぶために、割り箸を取ろうと顔を上げたその刹那、とある視線に気がついた。
―隣に座る女性の視線だ。
一瞬で、一席開けて隣に座っている女性が、元彼女だと気が付いた。失礼かもしれないが、なにも変わっていない。変わったのは、私服がオフィスカジュアルになっていただけ……。大阪で就職したのは知っていたからあり得る話だ。しかし、僕は気づかないふりをした。また傷つくのが怖かったからだ。「お願いだ。声をかけないでくれ。」と神様に願った。
神様は私の願いに気付かなかったようだ。
「律くん……?」
僕はまだ気づかないふりをする。心臓がはちきれそうだ。
「野上律くんだよね?」
もう無理だ。神様の悪戯に付き合おう。
「え……?侑加さん? なんでここに……」
「今とっても驚いています」という表情と声色で応えた。
「そうだよ! やっぱり律くんだ。変わらないね」
「びっくりした。侑加さんもお元気そうで」
もう帰りたい。なぜまだ癒えていない傷に塩を塗り込まれなければいけないのだ。しかもこの十二月二十三日という日に。
彼女は覚えてすらいないのだろう。この日は、あなたが私を振った日だということを。
彼女はそのまま席を一つ詰めて、隣に座った。彼女のこういうところが嫌いだった。
「こんな偶然あるんだね。律くん」
「そうだね。もう二度と会わないと冗談抜きに思っていたよ」
また、好きになってしまうのだろうか…。僕には彼女がいるのに。
少しの沈黙の後、彼女が口を開いた。
「律くん。二年前の今日のこと覚えてる?」
もちろん覚えてる。あなたが私を振った日だ。でも別のことかもしれない。
「二年前……? 覚えてないけどどうしたの?」
知らないふりをした。もう傷つきたくない。
「そっか……なんでもない」
そう言い切って彼女はジョッキの中のビールを飲み干した。あの頃、ビールは苦手と言って、一緒に飲めなかったのに……。
「大将。お会計お願いします」
と彼女は言った。
「まって侑加さん」
脳が勝手に口を動かした感覚だった。なんで引き留めたのだろう。未練たらしい。焦りながらも、言い訳を脳内で必死に探す。話がしたい? いや違う。ご飯が……
「炊き込みご飯頼んだんだけど、一人では多いから一緒にどう?」
「え……いいの?」
「うん。逆に助かるよ」
「じゃあお言葉に甘えて……」
「なんだ? お会計はまだいいって感じか?」
「はい。すみません大将」
「いいよいいよ! ゆっくりしてきな! 知り合いか?」
「はい! 昔交際していた律くんです」
「そうかそうか。ならなおさらゆっくりしてきな!」
「ありがとうございます!」
彼女は快活に答えた。
侑加さんはメニューを持って、近づいて聞いてきた。
「律くん律くん。炊き込みご飯ってこれ?」
相変わらず、異性との距離が近い。
「そうだよ。一合頼んじゃったから半分食べて」
「一合か……」
「なに?」
「いや、懐かしいなって……」
もうやめてほしい。僕はまだ、懐かしむことができるほど思い出になっていない。
「どういうこと? 何か思い出があるの?」
侑加さんは疑うような目で、こちらをじっと見てきた。
「覚えてるんでしょ?二合の小さな炊飯器……」
やっぱりその話か。お冷を一口、口に含む。
「あったね。一合を二人で食べるときは、半分ずつにしてちょうどいいって気づいた……ってやつでしょ?」
「そうそう。最初は二合炊いてて、半分は冷凍してたけどね」
「懐かしいね」
この言葉は自分を守るためのまやかしだ。気のせいか、店内はたくさんの人で満ちているのに、周りの話が聞こえてこない。侑加さんの声としぐさだけが鮮明に映し出される。この居酒屋は、さながら彼女のための演劇セットのようだ。
彼女は追い打ちをかけてくる。
「一緒に陶芸体験に行って、作ったお茶碗で食べてたよね」
もう思い出したくない。芋づる式にあの頃気づけなかった「幸せ」が思い出される。
「そうだったね。工房の名前はたしか……」
「さく工房だよ」
僕もはっきりと覚えていたが、はぐらかした。
「あれ? そんな名前だったっけ?」
「そうだよ! 律くんが勝手に漢字で『朔工房』だったら……とか言ってたじゃん」
「新月を意味するってやつね。物事の始まりを意味しているみたいでいいって」
「そうそう……」
やっぱりこの人との生活が忘れられない。今の彼女もこれ以上なくいいお相手なのだけど、九か月間もほぼ毎日一緒に生活していた人なんて、これからも数人しか出会えないのだろうから。
「はい。おまちどうさま! 炊き込みご飯や!」
「ありがとうございます」
「わあ! おいしそう!」
「この店来るのは初めて?」
「うん」
僕は炊き込みご飯を混ぜて、彼女の分を取り分けながら話した。
「そうだったんだ。大阪で就職してたのは知ってたから会うのは不思議ではないけど、偶然すぎたね」
「ほんとだねー」
「うん。はいどうぞ」
「ありがとう」
「いえいえ」
なんて当たり障りのないやり取りをしていると、
「そういえばさ、律くん侑加と別れてすぐライン消したでしょ?」
彼女の一人称が自分の名前になった。当時も慣れてくると彼女はそうなっていた。
「ごめんね。侑加さんと別れて本当に辛くて……。今後関わることもないと思うと指が勝手に動いちゃって」
「なるほどね。そんなに好きだったんだ。侑加のこと……」
「俺、最後まで別れたくないって言ってたでしょ」
「たしかに」
彼女は笑いながら言った。そこには、ここにしかない、どこにもない、誰にもない、柔らかな空気が漂った。やはりこの店は彼女のための演劇セットなんだ。
「いただきます」
彼女は言った。僕がよそい終わるのを待ってくれていたみたいだ。先にご飯をよそってあげたのは失敗だったかな。
「いただきます」
僕も続いて言う。
「そういえば侑加たちってなんで別れたんだっけ……?」
もういいや。傷をえぐるだけえぐられよう。
「俺がうまく感情表現できなくて、嫌なことがあると態度に出るのに言葉にできなかったからってのが一番の原因だね」
「そうだっけ。私も付き合ってすぐにとっても申し訳ないことをした覚えがあるけど……」
確かにあった。だから僕はこの人に自分の本心を話すことを敬遠したのだ。付き合って間もない頃に、信頼関係の基礎を壊された気分だった。
「終電を逃して、一緒に飲んでた男二人と男の家で寝てきたことはあったね……」
僕はバツが悪そうに言う。これが今でもトラウマになっているのだ。いわゆる「寝取られ」というやつなのだろう。どこに向ければいいか分からない怒りがまた当時の熱量で込み上げてくる。今にもそれを吐露しそうだ。
「ほんとに何もしてなかったんだよ……? でも信じられないよね。侑加のこと信じて欲しかったな……」
「ごめんね。いまでも信じることはできない」
「ううん。侑加こそごめんね」
しばらくの間、他の客の声や話の内容に耳がいった。
「おいしいね。この炊き込みご飯」
「俺も初めて頼むんだけど、そうだね。今度からこれも頼んでみて」
「そうする」
僕たちは一合の炊き込みご飯を半分ずつ味わった。
「大将お会計お願いします」
「はいよ! 姉ちゃんと分けて会計でええな?」
「はい。分けてお願いします」
もう当時とは違うのだ。お会計も分けて行う。
「姉ちゃんはこっち。兄ちゃんはこっち。あとはレジで!」
「わかりました。ご馳走さまでした」
「ご馳走さまでした!」
彼女も続けて言う。
「私さ、律くんのそういうところすごく好きだったな……」
「なんのこと?」
「なんでもない! レジいこ!」
一人称が私になっている。昔話はこれでおしまいってことかな。店の外に出る。寒い。
「帰り道はどっち?」
「俺はこっち。すぐそこのマンション」
「私もこっちの方の駅だから、一緒に歩こ」
「いいよ」
こうして歩くのすら僕にとっては傷をえぐられる行為。夜空は絵に描いたように澄んでいて、逆に残念に思った。やっぱり神様の悪戯か。
「そういえばさ、そのスウェット。同じの買ったから私のとどっちがどっちのかわからなくなったままのやつだよね?」
「そうだよ。でも卒業設計の制作の時に塗料で少し汚れたからもうこれは俺のです」
作り笑いをしながら話した。
「卒業設計ダブル受賞。学科内史上初事例。そして就職先は学部卒で唯一の大手ゼネコン設計部。ほんと律くんって勝ち組だよね」
勝ち組……僕はその言葉が嫌いだ。あくまで血のにじむような努力をして得た結果だ。
「勝ち組か……そんなこと考えたことなかったよ。結構業務も激務だよ」
「確かにそうなのかもね。あの律君が居酒屋で晩御飯だもの」
「そうでしょ。いい証拠だよ」
家までの道ってこんなに短かったっけ……
「今日は十二月二十三日だよ。律くん。」
「そうだね。もう少しでクリスマス。いきなりどうしたの?」
「私があなたを振った日」
「覚えてたんだ……」
「うん……」
夜空を見上げる。さっきより空は暗く見えた。
「じゃあ俺はここで」
「あ、あっちなんだ。そっか……」
「うん。またどこかで」
「どこかではいや……また飲みに行こうよ」
もうこれ以上この人と関わってはいけないとわかっているのにまた脳は勝手に口を突く。
「いいよ。次いつ休みなの?」
「毎週水曜と日曜が休み。実質日曜だけだけど……どっちかなら連絡くれたら行けるよ」
「わかった。じゃあまた連絡する」
「連絡ってなにで? 律くんライン消してるじゃん」
「そうだった」
「もう一回交換しよ? 一応確認なんだけど、いま彼女さんとかいないよね?」
心臓がドキリとなった。だんだん不安になる。この人とご飯に行くのは浮気ではないだろうかと。
「いないよ」
ついてはいけない嘘をついた。でも神様の悪戯に付き合ったのだ。このくらい……
「よかったー。いたら浮気っぽくなるからね」
「そうだよね」
多少の躊躇はありながら、QRコードを差し出した。
「はい完了! 次は消さないでね?」
「消さないよ。じゃあまた」
「うん。またね」
侑加さんとのちょうどいい距離の保ち方に頭を悩ませながら一人で帰路に就いた。
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