しかく関係

黒川成瀬

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火照り

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山鹿やまがという苗字はあまりみかけない。親からは福岡県が起源だって聞いたことがあるけど、それも本当かわからない。
山に鹿。先祖は、山で鹿狩りをしていたのだろうか。それとも、鹿を飼っていたのだろうか。おそらく前者だろう。自分の性格がそう告げる。

初対面の場合、大抵名前の読み方を聞かれる。でも大学に入ってから、友人関係での苗字の必要性が少し薄れた気がする。男友達でも下の名前で気軽に「ゆーか」と呼ぶ。でも、私の名前は「ゆうか」だと言いたかった。
この名前を丁寧に「ゆうかさん」と呼んでくれた人がいた。「う」を略さない。珍しい人だった。彼は学科内で、いい意味でも悪い意味でも噂になるくらいの人だった。いい意味では、設計課題で毎回一位になる人として。悪い……というか良くない意味では、学校内部、外部関わらず、設計コンペティションを荒らしている人として。
 彼からしたら、いい迷惑だろう。自分はただ、ただ大好きな建築を極めるために大学に入って、それを実現しようとしていただけなのに……
彼は、「りつくん」という人だった。彼にふさわしい名前だと思った。自分を律する人間像。

一度話してみたいと思ってから丸々一年が経ったある日、設計課題で同じ先生のユニットになった。建築の世界では、自分の案に磨きをかけていくことを「エスキスする」、もしくは「エスキースする」という。彼の先生とのエスキスを一度だけ近くで聞いていたことがある。―とてつもない言語化能力。膨大な敷地周辺データを扱う能力。試作模型の数々。言葉一つ一つに信念がある。そして、それとは裏腹に、儚い声。今にも消え入りそうな声で、軸のある言葉を放つ。コンペで戦ってもいないのに、「これは完敗だ」と無意識に思ってしまった。彼はその設計課題でも学科内一位。もう誰も止められない。設計課題が始まった二年生から七回連続で学科内一位の設計。学内のコンペは二度最優秀賞。そして学外のコンペは最優秀賞が二つ、次点の優秀賞が一つ、奨励賞が二つ。憧れもそうだが、それ以前に絶望を抱いた。

* * *

夏の暑さがまだ残る頃、同じ研究室の男友達から共同設計のコンペに誘われたのを覚えている。
「ゆーか! あと一人コンペのメンバー探してて…。一緒にやんない?」
「いいけどメンバーは?」
「谷口と野上とゆーか」
「え? あんたいないじゃん」
「いやさ、この間の設計課題最終回の後、飲みに野上を誘って、コンペの話になったんだよ」
「うん」
「三人一組で参加するコンペがあって、その時に五人で飲んでて…」
「あー話が読めたよ。二組作るのにあと一人足りないってことね。でも野上律くんか…話したいとは思ってたけど、話したことないし…」
「そこは谷口がフォローしてくれるみたいだし」
「まぁそれなら…いいけど」
「あと野上くん自体は、いま個人で別の住宅コンペの最終選考が決まってるみたいだから、途中少し抜けることになりそう」
「了解。噂通り凄いね。律くん」
「そうだよなー。今回一緒にコンペ参加してくれるだけでも嬉しいわ」
「律くん信仰かよ。そうなるとそっちのメンバーは誰なの?」
「俺と涼真りょうま絆貴きずき
「いつものメンバーね。了解。本格的に始まる前に顔合わせの機会は欲しいかなー」
「いいけど…顔合わせもなにも野上はお前のこと知ってたぞ?」
「え?」
 驚いたとも違う心臓の高鳴り方をしたのを今でも覚えている。
「顔のいい女性が同じユニットに居て、珍しい名前をしていたって。印象に残ってたみたい。だからお前に声かけたんだよ」
「は? 顔のいいって。覚え方が雑……」
 と悪態をつきながらも、内心彼への憧れに近い感情を抱いていた私は嬉しかった。
「いい顔が赤くなってますよー」
「もう……うるさいなー」

 数日後、大学内のコモンスペースで六人集まり、顔合わせをした記憶がある。あの日は楽しかったな。律くんに公式で「律くん呼び」を許してもらったし、律くんの内面も知れた。彼の心の中には確かに炎があった。建築に対する情熱だ。でも、その炎の色は赤くなかった。悪い噂のような人間ではなかった。炎の色は青色だった。「青の炎は赤の炎より高温だよ」とでも言いそうな律くん。儚く、熱い。相反する二つ。
私は律くんの何かに突き動かされたんだった。

コンペの結果は、入賞すらしなかった。

コンペデータ提出後、予定のない四人で飲みに行ったんだった。私、律くん、涼真、谷口の四人だ。一軒目、二軒目とめぐっても律くんの顔色は変わらない。私は少しほろ酔いだった。他二人は二軒目で完全につぶれて、眠っていた。そこで、私は律くんにアプローチをかけたんだった。今にして思えばもう少し上手い方法があったと思う。なかなか目を合わせてくれない律くんの顔をのぞき込んだり、女である私に気を使って距離を取って隣に座ってくれている律くんとの距離を、わざと詰めて困らせたり。私はこのコンペを通して、完全に彼のことが好きになっていたみたいだ。もう誰とも付き合わなくても、結婚すらしなくてもいいと思っていた私が、律くんを好きになっていた。その日の帰りは、私と律くんだけが同じ電車で、わざと肩をくっつけて座ってみたりした。こんなにアプローチしても律くんは距離を詰めてこない。彼は私に興味がないものだと思っていた。でも、電車の乗り換えで別れた後すぐに、スマホに一通の通知。
「ゆうかさん。ちょっと酔っていたみたいだから気を付けて帰ってね。また行こうね」
 私はすぐに返信した。
「ありがとう! また行こうね! 次は二人で…」
 すぐに既読が付いた。
「酔いが覚めても二人で行きたかったらまた誘ってね」
 律くんの意地悪。と本気で思ったなあ。私は返信した。
「はーい! おやすみ律くん!」
「おやすみ。ゆうかさん」

それから一か月ほどだろうか。私たちは、約束していたデートもすることなく交際を始めた。私は律くんを支えたくて仕方がなくなったのだ。彼はみんなが思っているより、繊細で、誰かの助けを求めていた。それが露見したのは、彼が地元の友達と飲みに行ったときだった。はじめてつぶれるほどお酒を飲んだみたいだった。その日の真夜中のラインで、「人にどうやって頼ればいいかわからない」、「どうやって助けてって言えばいいかわからない」そんな内容が送られてきたことを今でも覚えている。戸惑ったが、私は彼が好きだったから、
「私と付き合って。私を頼って。律くんと真逆の性格をしているから、支え合うことができると思うの」
 そんなことを言ったんだった。それに彼は躊躇しながらも応じてくれた。

 それから九か月間は夢のような毎日だった。彼は京都から片道二時間かけて大阪の私のところまで会いに来てくれて、半同棲状態だった。彼と抱き合うと安心する。彼に一度聞いてみたことがある。
「なんでそんなに侑加を落ち着かせられるの? フェロモンでも出してるの?」
「俺も同じことを感じてるよ。ゆうかさんといると本当の自分でいられる」
 今にして思えば、人生最大の幸せを感じていたのだと思う。でもお互いにそれが当たり前になってきて、喧嘩が増えて、九か月間で別れることになった。十二月二十三日。

 最後の日、会って話をした。彼はどうやら私のことを交際して最初の二週間目からずっと、ずっと信用していなかったみたい。その原因は私にあった。私が、谷口と絆貴と三人で飲みに行って、終電を逃し、谷口の家に泊まってそこで体の関係をもってしまったからだ。酔っていた私は、なんて馬鹿な真似をしたのだろうと翌日思った。そして、黙っているのがいたたまれず、律くんに伝えて謝罪した。もちろん彼は怒りを露にした。あのとき二十分歩けば、谷口の家から徒歩で帰れたのにそうすることなく、家に泊まり、誘惑に負けた、欲に負けた。私がすべて悪かった。そんなことを今悔やんでも仕方がない。二年経った今日でも彼の最後の言葉を思い出す。
「あの日からずっとあなたの言葉や行動を何一つ信じていなかった。ごめんね」

* * *

 大阪で就職してからもう二年目の十二月二十三日。私は独りになりたくて、独りで居酒屋に入った。こぢんまりとしているが、どこか彼の居た京都の町を思い出させるようなたたずまいの居酒屋。店内に入って奥から三番目の席に着く。注文を済ませて、二年前の今日のことを思い出していると、料理がカウンターに置かれた。私はそれを一人味わった。こんなにいい料理を一人で味わっている。涙が出そうだった。一通り味を楽しんだところで、一人の男性が入店して、一番奥の席に着いた。その儚い所作、声。黒いスウェット。それらが私の心の大切な部分を刺激する。今日は十二月二十三日。彼を無視できなかった。

 ―彼は律くんだった。

 私は彼が律くんだと確信したが、既に別れた身の女だ。ビールだけが時間とともに減っていく。彼は一合の炊き込みご飯を頼んでいた。「一合」。私たちにとってとても関わりの深い言葉がまた私の心を刺激する。ビールは残り一口とちょっと。この再会は運命だ。声を聴きたい。あなたの私に向けられた声を聴きたい。ビールは残り半口ほど。意を決した。
「律くん……? 野上律くんだよね?」

* * *

居酒屋の帰り道は、あの時のように並んで歩いた。彼は別れ際「またどこかで」と言った。私は律くんとの次の予定をなんとしてでも得たかった。神様にすがる思いだった。空はこんなに澄んでいて美しい。今日は十二月二十三日。私の口からこぼれ出た言葉は、
「どこかではいや……また飲みに行こうよ」
 だった。またどこかでは、一生来ない。そんな予感がした。彼は慣れた様子で聞いてきた。
「次いつ休みなの?」
 心が躍った。これは恋だと自覚した。
私はラインを交換した。今にも連絡を取りたくて仕方がなかった。

* * *

律くんと別れた後は彼との半同棲を思い出しながら帰路に就いた。半同棲時代は、色々なことを一緒にした。食事を作ること。朝食は律くんに頼り切りだった。夜中に絵を描くこと。散歩をすること。買出しに行くこと。一緒に寝ること……。そして、唇を、体を重ねること。私は律くんが初めての人だった。けど律くんは違った。正直、相手も初めてだったら嬉しいななんて思っていたから、少し嫉妬した。―体が足の間から裂けたのかと思うほど痛かった。その日の夜は雨だった。雨音と、大好きな人とつながるときのあの生々しい音だけが雑多な部屋に響いた。部屋が汗と喘ぎで蒸れていく。痛いのにも拘わらず、この時間に快楽を覚えた。そんなはじめての夜を思い出していた。

 かたんかたんと規則的に揺れる帰りの電車内で、スケジュール帳を確認する。来週の日曜日は空いている。嬉しくてこんな年になってもドキドキを感じた。すぐに律くんのライン画面を開く。そして来週の日曜日が空いていることを伝える。いますぐにでも会いたかった。あの儚い声で私の名前を呼んで欲しかった。あの儚いしぐさで頭をなでて欲しかった。身を彼に委ねたかった。

 次の日の朝、彼から返信があった。
「来週日曜だね。空いているよ。お互いの間くらいの場所で会おっか」
「うん! 楽しみにしてるね」
 その後は、私が交際中に贈った兎のスタンプが返ってきた。また嬉しくなって仕事がおろそかになる。こんなに彼のことを考えていると、幸せとときめきを感じるのに、なんで別れたんだっけと、先日の飲み屋での話を考える。彼は不満をすぐに言語化できない質の人で、あとからその不満が形を帯びてきて、言葉になるんだった。あとから言われるのが嫌な私は、律くんの機嫌を窺って付き合っていくのに疲れてしまったのだった。それだけだったら別れてなかった。最後に喧嘩した時……。私も意地になってしまったんだ。あの時はあの時で限界だったのだ。たしかに限界だった。―過去の記憶は、いつしか美化される。その怖さに少し身の毛がよだった。
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