しかく関係

黒川成瀬

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38℃の関係

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 夜勤明けの病院の白い蛍光灯は、いつもより少し冷たく感じる。人の体温に触れ続けた手は、帰り道でやっと自分の温度を取り戻す。私は人に触れることに慣れている。仕事だから。
 脈の速さ、瞳孔の揺れ、言葉と呼吸のずれ。ほんのわずかな変化も見逃さない。それが私の仕事だ。
 凝り固まった精神をほぐすように、真っ暗な空に浮かぶ星をぐるりと回転させる。
 真っ白で清潔な制服を着ている私は、天使のように見えるのだろうか。命に寄り添う姿は、たしかにそうかもしれない。でも天使にも、夜はある。プライベートの私は、簡単に堕ちる。

 私には仕事終わりの楽しみがある。彼氏である律からのメッセージに返信することだ。
 いつもなら「お疲れ様」と連絡があるのに、今日はない。……今日だけじゃない。最近は返信が半日後ということも多い。以前は三時間も空かなかったのに。絵文字が減って、句読点が増えた。文章は丁寧になったのに、どこか距離がある。
 忙しいだけ。そう思うことにしている。日曜日も予定が増えた。会社の人との付き合いらしい。律は昔から、誰かに頼られると断れない人だった。優しいのか、優柔不断なのか、その境界は今もよくわからない。ただ、儚く消え入りそうなのに軸がある。
 寂しい、と言えないのは、私が大人になったからだろうか。それとも、また私だけが踏み出してしまいそうで怖いからだろうか。

 律と出会ったのは中学生のとき。大人っぽくて落ち着いているのに、授業中に寝ていたり、友達と無邪気に笑ったり。そのアンバランスさが、どうしようもなく愛おしかった。私はあの頃から、律の変化に敏感だった。声のトーンが少し低い日は機嫌が悪い。目が泳ぐときは何かを隠している。でも、優しい声で残酷なこともたまには言う人だということは、まだ知らなかった。
 当時も私たちは交際をしていた。告白したのは私からだった。
「彼女できないなー」
 と律が言うから、
「もうできるよ」
 と私が言った。数秒固まったあと、
「どういうこと?」
 と聞いてきたのを、今でも覚えている。律のことだから、どうせ気づいていたんだろうな。掃除時間で人が減ったタイミングを狙って廊下に律を呼び出し、「律のことが好き」と伝えた。言った瞬間、教室に逃げこんだ。あのときの私は、衝動そのものだった。その夜は眠れなかった。律の「ごめんね」が頭の中で何度も再生された。

 翌朝、鈍色の空の下、足取りは重かった。でも、期待は捨てきれなかった。
「おはよう一香。ちょっと今いい?」
 小声でそう言われただけで、体温が一気に上がった。
 人気のない階段裏まで、律はそっと私の手を引いた。あのときの私の手は、少し震えていた気がする。
「昨日の返事……。こちらこそよろしくね。一香のこと好きだよ」
 優しい声だった。あのときの律は、ちゃんと私を見ていた。
「え! いいの?」
「うん。昨日逃げちゃうんだもん。ほんとはすぐ言いたかった。勇気を出して伝えてくれてありがとう」
 あの一言で、私は報われたと思った。

 半年付き合ったけれど、手もつながない、デートは一度も行かない。キスなんてもってのほか。振り返れば、あれは恋というより、好きという言葉の拘束力だけが存在していた時間だったのかもしれない。私はずっと、律の隣にいる「予定」だった。
 結局、交際をやめようと提案したのは律だった。私は彼の優しい声に包まれて、別れを告げられた。あの時間は何だったのだろうと、今でも思う。でも、あの時間があったからこそ、今の私と律がいる。―そう、言い聞かせている。

 スマートフォンの画面は、まだ光らない。天使の姿はすでに崩れ、私は小さくため息をついた。その息が白く、黒い空へ昇って行った。

 私と律が再会したのは、大学四年生の冬だった。卒業を目前に控えた、どこか落ち着かない季節。私から律にSNSで連絡をした。きっかけは、ずっと心に引っかかっていたこと。
 別れたあと、律の友人の何人かから嫌がらせを受けていた。あのとき、律は関与していたのか。それだけは確かめておきたかった。でも本当は、それだけじゃなかった。社会人になる前に、曖昧な男関係を整理したかった。好意とも依存ともつかない関係が、いくつかあった。誘われれば会う、寂しさを埋め合わせるだけの関係。ちゃんと好きだと言えないまま、誰かの隣に眠ることに慣れかけていた。このまま大人という肩書を背負うのが、少し怖かった。
 律に聞くと、嫌がらせのことは全く知らなかったらしい。「ごめんね。そんなことになっていると思ってなくて…」と、短いメッセージが返ってきた。その言葉は、昔と変わらず優しかった。
 やりとりが続くうちに、私は思い切ってもうひとつの本音を投げた。
「もし、彼氏ができたら。曖昧な異性関係って、ちゃんと切れるものかな?」
 少し時間が空いたあと、律から返信がきた。
「切るものじゃなくて、自然にいらなくなるものじゃない?」
 その言い方が、いかにも律だった。否定も肯定もせず、私に選ばせる言い方。よく言えば傾聴がうまく、悪く言えば無関心。そうだと思っていたら、追加で返信が来た。
「それでも残るなら、それはまだ必要なんじゃない?」
 画面を見つめながら、胸の奥がざわついた。
「必要」という言葉が、どこか甘くて、残酷だった。

 それから話は続き、律のほうから「ご飯でも行く?」と誘われた。これで最後にしようと思った。整理のための食事。区切りのための再会。そう決めて、会いに行った。彼は変わらず、柔らかな雰囲気を纏っていた。声は少し低くなっていて、以前よりも儚さが増して見えた。止まっていた時間が、静かに動き出す感覚。心が、勝手に躍った。
 律が儚く見えたのは、実は彼が彼女と別れて間もない時期だったからかもしれない。なんてタイミングで連絡してしまったのだろう、と一瞬後悔した。けれど同時に、彼がどこか人の温もりを求めているようにも感じた。その目の奥にあったのは、寂しさだったのか。
 それともあれは、そう捉えたい私の願望だったのか。
 二週間後、私たちは約八年ぶりに復縁した。懐かしさよりも、初対面に近い感覚だった。私の知らない律と、律の知らない私が、もう一度向き合うような。整理するはずだった関係はいつの間にか、いちばん深い場所に戻っていた。

 そのころ私は、看護師の国家資格試験数か月前で、彼は一級建築士の国家資格試験約半年前だった。一緒にカフェで勉強したこともあった。私は看護師資格試験に合格し、彼も今では一級建築士資格試験に合格し免許取得のために、実務をこなす毎日だ。

 一つ思い出したことがある。最近の律との甘い関係とは少し違う話。お互いの資格試験のために勉強する場所を相談していたとき、私は律の家で勉強してみたくなった。彼は、早くに母親を失っていて、家にはほとんど人がいない。「抱かれたいな」そんな期待も込めて、「律の家に行きたい」といってみた。付き合って一か月経たないくらいの時だったと思う。律は「いいよ。おいで」とあっさり承諾した。いきなり部屋にお邪魔したのに、とてもきれいな部屋だった。カフェなんかよりもよほど落ち着く。観葉植物に囲まれた、彼の甘い香りのする部屋だった。勉強を言い訳に彼の部屋にきた私は、彼のベッドで彼に跨り、誘惑した。部屋の雰囲気のせいだ。そうに違いない。
 
 カーテンの隙間から差し込む光は、もうほとんど夕暮れに近い淡さだった。部屋の中は薄暗い。私は律の膝の上に跨ったまま、彼の頬を両手で包む。律の瞳は確かに私を見ている。けれど、その奥の奥に一瞬だけ、別の誰かの輪郭が揺らぐような気がした。見間違いかもしれない。見間違いであってほしいと、祈るように思う。
 唇を重ねる。最初は柔らかく、確かめるように。律は応えてくれる。ちゃんと熱を返してくれる。でもどこかで、息のタイミングが微妙にずれる瞬間がある。私の舌が彼の舌に触れたとき、彼の指先が一瞬だけ、強く私の背中を掴んだ。それは、なにかにすがるような力だった。けれどすぐに、その力が緩む。
 服がするりと落ちる音。律の手は私の肌をなぞるたび、まるで記憶を確かめるようにゆっくり動く。優しい。とても優しい。なのに、その優しさが時々、どこか遠くを見ているような寂しさを含んでいることに、私は気づいてしまう。気づいてしまって、胸が小さく痛む。
 私は目を閉じた。律の熱が、私を満たす。深いところまで届く。けれど——同時に、届いていない何かがあることも、はっきりと感じてしまった。
 律の動きは丁寧で、執拗で、私を大切に扱うようにゆっくりだった。私は彼の首に腕を回し、耳元で小さく名前を呼ぶ。
「律……」
 彼は答えるように腰を押し付けてくる。でもその動きのどこかに、微かな躊躇がある。 まるで、もう一人の誰かと重ねてしまって、そこで思考が途切れてしまうような―そんな、僅かな空白が、繰り返し生まれる。私は目を開けて彼を見た。律の瞳には確かに私だけが映っているはずなのに、その瞳の底で、一瞬だけ別の顔が透けて見えた気がした。笑顔と泣き顔、別れを告げた日の顔のような―。
 胸が締め付けられる。それでも私は、もっと強く彼を抱きしめた。彼の背中に指を立てて、「ここにいるのは私だよ」声に出さずに、そう言い聞かせる。律の息が乱れはじめる。私の名前を呼ぶ声が、喉の奥から絞り出される。でもその声は、どこか途切れていて、完全には私に向ききっていない。昂ぶりが近づくにつれ、彼の動きが一瞬速くなる。けれどすぐに、途中で途切れる。まるで、何かを追いかけようとして、途中で足を止めてしまうように。
 私は彼の耳に唇を寄せて囁いた。
「私を見て……律、私を見て」
 律の瞳が、私を捕らえる。けれどその視線は、すぐに揺らぐ。焦点が、どこか別の場所へ滑り落ちていく。彼の動きが、ゆっくりと止まった。まだ私の中にいるのに―律の熱が、徐々に、静かに失われていく。硬さも、脈打つような力も、ゆっくりと萎え、ただの温もりだけが残る。それは、まるで灯りが消えていくような、静かな喪失だった。
「……ごめん」
 律の小さな声が、息の端から零れた。律は私の中から、ゆっくりと離れていく。その瞬間、冷たい空気が入り込んでくるような感覚がした。
 私はまだ彼の首に腕を回したまま、動けなかった。律は目を伏せて、私の大きな胸に額を預ける。息が、荒く、不規則に震えている。部屋には、喘ぎの籠もった匂いと、午後の残光だけが残っていた。互いの鼓動は、まだ速い。けれど、その鼓動の間には、まだ埋められない隙間ができていた。
 私は彼の髪を、そっと撫でる。
「大丈夫だよ。嫌いになったりしない」
 でも、ただ、静かに思う。今ここにいるのは、私なのに……。それでも、律の身体は、私だけを見ていなかったのだろう。
 夕暮れの光が、カーテンの隙間から、もう少しだけ薄く、部屋に落ちた。時間だけが、ゆっくりと溶けていく。私たちは、まだ抱き合ったまま、素肌が触れ合う感触を感じ、動かなかった。

 社会人になってからも律との関係は続いている。私が京都、彼が大阪で勤務している。つかず離れずの適温の関係。週末はたまにお互いの家に泊まりに行く。いわゆる半同棲だ。お泊りをした時には必ずと言っていいほど、体を重ねる。かつて、彼が見ていた他の誰かの影はなくなり、私だけを見てくれるようになった。その変化がこの上なく私の律への独占欲を刺激する。体を重ねているときだけは、お互い適温なんてもってのほかで、熱すぎるくらいだ。でも最近はその週末のお泊りも少なくなってきている。彼に日曜日の予定が増えたからだ。浮気は、律に限っては絶対にない。確かに、ミステリアスな雰囲気を纏っていて、律に興味を引かれる女性は多いだろうが、律は浮気しない。絶対に……。だって、浮気される側の気持ちを知っている人だから。
 律は最近何かに悩んでいるようにも見える。人の少しの変化に気づくのは職業病というものだろうか。私は律を手の届く範囲で支えたいと思う。私がつらいときいつもそうしてくれたみたいに。

 こんな、「この人しかいない」ではない不安と、「適温の関係」の心地よさはいつまで続けることができるのだろうか……。寂しいな。律。
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