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第六章:金曜、それぞれの思惑、それぞれの決意

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「折角だ、冷めぬうちに食うがよかろうよ」
 張果ちょうかが、五月に粥を勧め、自分も昼食を摂るのだろう、葉法善ようほうぜんを連れて部屋を出て行く。
 五月は、肘掛け椅子を立つと事務机に移り、事務椅子に座り直す。茉茉モモを左腕に抱いたままなので、どうしても体が半身になる。朝から、いや、寝ている間すらこの格好のままの左腕は、もう痛いを通り越して肘が動かない。
 器用に右手だけで、五月は粥をすする。若者向きの味付けではないが、決して不味くはない。精進料理も食べ慣れている五月にとっては充分に味わえる薬膳だ。

 食べながら、五月は考える。さっき張果が言ったことは本当かしら。嘘をつく理由は、ない。少なくとも、無茶をして茉茉を壊されてはかなわないという意味では、本当だと思える。だけど、それだけだと、茉茉を使って私が張果に楯突かない理由としては、根拠が薄い気もする。
 張果が私を教えてみたいというのは、多分本当のことだろう。張果の目的がどこにあるかは知らないが、茉茉を私が使いこなせるとして、私が自主的に張果に協力するのであれば、私の能力が高いに越したことはないはずだから。
 もっとも、私が自分の意思で協力する気がないのは、張果だって充分分かっているはず。かと言って薬漬けの廃人じゃあ意味がないだろうし、殴る蹴るで言うこと聞かせるってのもこの場合はない話だろう。とすれば、きっとそのうち、私の心をへし折りに来る。心を折って、意のままになるようにするんじゃないかな……ああ、また、作業服着たチンピラがこっち見ながらガラス窓の向こうを通った。あの目は、明らかにお預けを喰らっている犬の目ね。きっと、私をあいつらの慰み物にでもして、心をへし折ろうとでも考えてるんだろう……いや、多分、既にもう何回か同じ事してるんだ、私より前にも何人か。
 そう考えて、五月は怖気が走るのを感じる。この歳で、男を知らないわけじゃあないけれど、あんな連中に慰み物にされるのは絶対に嫌。そうなったら、それこそ舌でも噛んで死んでやるか……いや待って。私が自主的に術を使わなくても、茉茉を突いたり斬ったりすることで術が発動出来るなら、法力の消耗というか効率を考えないなら、私の意思は関係ないわよね。だったら、手足を潰して、生きてるだけの状態だっていい理屈になる……
 その可能性に気付き、五月は流石にぞっとした。要するに、茉茉にとっての「電池」があればいいのなら、そういう事だ。それは、流石に最悪の想像だ。だが。
 張果なら、やりかねない、やるだろう。五月は、思わず茉茉を胸に抱き寄せ、体を丸めた。

 そうなる前に、何としてもここを脱出しないと……でも、体がろくに動かないし、術だってどこまで使えるか分からない。
 五月は、天井を見上げてため息をつき、あえて気楽に考えようとする。バイト先、無断欠勤で迷惑かけちゃってるなぁ……源三郎さんはどうしてるだろう?心配してくれてるかなぁ……私が何日も帰ってないことに、源三郎さんが気付かないはずない。きっと何か手を打ってくれているはず。でも……
 五月は、倉庫の外が見える窓から見える景色、道路と狭い植え込みの向こうに広がる海を見る。
 ……ここがどこだかなんて、簡単に分かるはず、ない。助けは、期待出来ないわよね……

 五月自身、ここがどこだか分かっていない。気絶している間に運ばれたから、新宿からどれくらい離れているかすら分からない。
 分からないから、不安になる。
 一度不安になると、不安は増殖する。
 さっきまでは張果と気安く話していた、いたように、傍からは見えていたろうけれど、相手はどうか知らないが、五月にとっては一言一言が勝負、緊張しっぱなしだった。何しろ、五月の言葉の何かに反応して、張果が急に態度を変えてもなんら不思議はないのだ。その結果として五月が死んだり、死ぬより酷い目にあったとしても、それは張果にとって有望だった株が一つ堕ちただけであって、また一から新しい株を探すだけの事であったろうと、五月は想像していた。だから、何か下手を打ったら即座に殺される、その緊張がずっと抜けなかった。まあ、さっきはことのほか張果の機嫌がよかったようだが……
 いや。五月は考え直す。これ、よく聞くヤツだ。精神的にも肉体的にも追い込んで、精神の糸が切れる寸前にちょっと優しくすると墜ちるってヤツ。実際、五月の体は茉茉の支配下にある事もあって、部屋の中をゆっくり歩くくらいしか出来ないし、寝るのもこの肘掛けつきの椅子の上だから、急速に萎えている。どうやら、茉茉の中で、「お母さん」というのは座って自分を抱いているもの、というイメージしかないらしく、それ以外の行動をほとんど許容しないのだ。だから、常に茉茉を抱いている五月の左腕は疲れを通り越して麻痺に近く、左肩も酷い肩こりを起こしている。横になれないから眠りも浅く、足もむくんでいる。背中も酷く痛む。それでも気丈にしているのは、そうしていないと体に釣られて心まで折れてしまいそうだから。だから、それこそが張果の狙いなのかも、と五月は思う。

 拝み屋などというものを生業としていれば、ヤクザや暴力団と接触する機会は一般人よりはるかに多くなる。むしろ、そちらからの仕事の依頼だって多い。五月は、師匠と仕事をしていた頃のことを思い出す。
 師匠は、そのあたりのあしらいが上手かったなぁ……私は、ダメだ。師匠が居なくなってから、それが嫌で占い師に逃げたんだもの……体術なら、相手が二、三人でもまず負ける気はしないし、法力だって知ってる範囲では半分より上の自信はある。でも、私は、根本的にあいつらが嫌い。だって……
 思い出したくない事に触れる手前で、五月は考えるの止めた。

 それにしても、張果は、私の知ってるあいつらとは訳が違う。あいつらなら、金か土地か縄張りか、それとも女か、何かしらの代償で交渉の余地があった。でも、張果にはそれが見えない。それが、怖い。
 張果の目的が、わからない。分からないけれど、その為には何をしてもいい、そう思ってるだろう事は分かる。だから、交渉、取引が出来ない。多分、私を可能な限り利用価値の高い状態に保ちたいのだろうけれど、それが無理となったら簡単に、利用価値が下がっても使い易い方を選ぶだろう……多分、過去に何人も同じように使い捨ててきたように。証拠は無いけど。
 茉茉を傷つけて使うと、あんなに大量に一回で力を吸われるのだから、普通の人ならひとたまりも無いだろう。本性が鬼になってからこっち力が増してるし、抵抗力も強くなっているからまだ耐えられたけど、立て続けに三回喰らったら、私だって立っていられる自信はない。それに、私みたいに「条件が合う者」がそんなに一杯居たとは思えない。けど、張果がそういうのが見つかるまで茉茉を使わなかったはずもないから、つまり「条件の合わない者」もきっとここで、あるいは別の場所で、力を吸われていたに違いないわ……その結果としてその犠牲者が死んだとしても、ここなら、海に沈める事も出来るし……考えたくないけど、張果なら、僵尸キョンシーとして再利用することも出来る、きっと。
 悪い想像ばかりが五月の脳裏をかすめる。体が萎えているから、心も病んできているのだと、五月は思おうとする。しかし、同時に、五月は、自分一人の力ではどうにもなりそうにないことを認め始めてもいた。
 それは、負けたような気がするので、認めたくはなかったことだった。師匠を失って以降、ずっと一人でやってこれた、それを自負していた。だが、最近、その自負が揺らいでいたことも、自分で気付いてはいた。
 
 ……そうよ、あの人がいけないのよ。
 五月は、感情の矛先を、自分の外に向ける。理不尽だと知りつつ。
 ……あの人が、私を弱くしたのよ、一緒にお酒飲んで、愚痴聞いてくれる人なんて、居なかったから……
 母子家庭だった五月は、父親というものがよく分かっていなかったし、だからだろうか、男に頼るという事も半分無意識に、半分意図的に避けていた。
 ……私、こんなわがままな女なのに、いやな顔しないで……たまにするけど、でも話聞いてくれるし。
 そんな五月だったが、あの一週間・・・・・は、頼らざるを得なかった。最初は打算だったが、すぐにその打算的な自分を嫌悪し、そして、うかつにも彼の目の前で涙を流してしまった。演技ではなく、本心から。
 酷い人。私が鬼に成り果てたと知っても、驚いてもくれないんだから……
 だから、五月は少しだけ、自分の秘密を話してしまった。
 ……驚いてくれたら。怖がってくれたら、私、一人で居られたのに。本当に酷い人。もう、一度すがっちゃったから、私、もう、手が離せない、離す事なんて、出来ない……

 さっき真言マントラを唱えた時からほんのわずかに疼く、体の芯の火照り。それが、わずかに強く、熱く、そしてきつく胸の奥を締め上げるのを五月は感じる。
 ……お願い。源三郎さん。私を、助けに来て……
 五月の、助けを願う心の声に応じて、その外から来た違和感は、さらに五月の胸の奥を締め付けた。
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