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第二章 月齢25.5

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「しっかり結んだな?じゃあ、上げるぞ!」
 ユモの細い腰をコイル巻きもやい結びでガッチリと固定したユキに、5m程上の穴の縁から下を覗き込むスティーブが声をかけた。
「OKです!行って下さい!」
 ユキが、上に向かって声をかけ返す。
 スティーブとチャックの居る空間の底から、ユモとユキの居る足場の木の根まで、高低差およそ5m。体力勝負の男達や、それを上回る体力自慢のユキならばロープ登りで到達可能な高さだが、
「……上れる?」
「無理」
 と一応聞いたユキに即答するユモが登れるはずが無く、下に居たチャックが先に上にあがり、スティーブと二人で引っ張り上げる事になった。

行くぞ!せーの!Ready,set,Go!
 力任せに、スティーブとチャックはロープを引き始める。小柄で軽いとはいえ、ロープ一本で吊した少女を垂直に腕力だけで引き上げるのは、想像以上にきつい。ほぼ氷点下の気温、薄暗いランプの光の中で離れて下から見上げるユキにも、二人の額に汗が噴き出してくるのがわかる。
 ユモは、なるべく体を揺らさないよう、二人の負担を増やさないようにおとなしく、怖いので下は見ずに上だけ見て吊り上げられている。
――魔法陣でも箒でも、何なら何にもなしだって、自分で魔法で飛ぶんなら、全然怖くなんかないんだけど……――
 ユモは、自分は高いのが怖いのではないと、強く思う。
――……こういうのは、やっぱり不安――
 小さくため息をつき、ユモは目を伏せる。正直な話、自力で飛んでしまった方がよほど早いし、楽だとユモは思う。とはいえ、おじさん達の前で魔法を使うのは、可能な限り避けておきたい。そんな事を思いながら、視線を上に戻した時。
「……後ろ!危ない!」
 ユモの目に、スティーブとチャックの背後、ゆがんだ卵形の空間のどこから飛び出したものか、黒い放射閃オドを纏った何かが一つ、降ってくるのが見えた。

 ユモが叫ぶよりほんの一瞬早く、ユキもそれ・・に気付いていた。気付いて、上を向いたまま、ユキは反射的に腰の左に両手をのばしかけ、思いとどまって改めて右の腰の拳銃に手をのばす。合成樹脂カイデックスのCQCホルスターに慣れたユキにはまだるっこしい革製ホルスターのフラップを開け、コルトM1917回転式拳銃リボルバーを引き抜き、上向きのアイソセレスで構える頃には、ユモの声がその上のスティーブとチャックに届いている。
 ユキにとってスローモーションのように進行する状況の中、ユキは見る。落ちてくるのは、さっき薪雑把で突いたのとよく似た風貌の男。
 撃つなら、今しか無い。まだ、その男の爪がスティーブ達に届くまで数瞬あると踏んだユキは、決断する、決断しようとする。
 だが、撃てない。射線上にユモが、スティーブ達が居る。ダブルアクションでトリガーを途中まで引いた、その指のブレがフロントサイトを揺らす。みんなに当てずにその男だけ撃ち抜く、その自信が、持てない。
 体当たりするように、その男はスティーブにぶつかる。ぶつかるその刹那、男の腕が奔る。
「ぐあ!」
 スティーブのくぐもった悲鳴が、地下に響く。遅れて、血の臭い。穴の縁から、スティーブと男の姿が消える。チャック一人で支えるロープが、ユモががくりと揺れる。
「きゃ!」
 ユモの悲鳴。チャックは、必至にロープを支えつつ、右肩越しに後側方、スティーブが消えた方に目をやっている。その目が驚愕に開かれ、右足が1歩引かれ、体が開く。そのチャックの視線の先から、再び、穴の縁に男が姿を現す。
 今度こそ。無理矢理に心を鼓舞して、ユキは再び男に銃口を向けようとする。その時。
 銃声と、白煙。一拍おいて、もう1発。男は、背中側から撃ち抜かれ、のけぞって倒れ、穴から滑り落ち、ユモの脇を通って暗闇の底に消える。ややあって、スティーブが穴の縁に顔を出す。
「……よし、さっさとやっつけちまおう」
 笑顔を歪めながら言ったスティーブは、チャックが確保するロープを掴み、引く。チャックも、何か言いたげな顔を一瞬見せたが、それを押し殺してスティーブと力を合わせる。
 苦痛を顔に表しつつも力強くロープを引くスティーブの様子に、心配しつつも安堵のため息をユモはつく。ついた、その直後。
 ぞわり、と、ユモの背筋を冷たいものが遡る。良くない放射閃オドの感触。体の芯が冷えきり、嫌な汗が脇を、背中を濡らす。
 ユモは、下を、自分達が上がってきた穴の底を見下ろす。目を、こらす。人としての目ではなく、魔女としての、月の魔女の末裔としての、魔を見通す目を。
 ハッとして、ユモは身を固くする。見えた。何か、理解出来ないもの。今まで経験したものの中には決して同じ感覚のない、しかし、明らかにわかる、触れてはいけない、禁忌の感触。その禁忌たる理由は、しかし、わからない。
 心に怖気おぞけを感じつつ、それでもその禁忌の放射閃オドを放つ何かの正体を見極めようと地底を凝視するユモの視野を、何かが、複数の何かが、蠢く。
 その正体は、即座に知れた。ユモは、叫ぶ。
「ユキ!後ろ!」

 反射的に、ユキは前方に跳びだし、転がる。その場で突っ立って振り向くような愚挙はせず、転がりながら体をひねって向きを変え、持ったままの銃を向けようとした、その時。ユキの左手方向で銃声が鳴り、後ろの男を弾道がかすめ、男の姿勢も崩れる。
 直後、短い間隔で銃声が2発。体を開いていた男は、近距離から足に2発、ダブルタップでトリガーを引いたユキの.45APC弾を続けざまに喰らい、大きく後ろに弾き飛ばされた足に引き摺られるようにバランスを崩して墜落する。
「大丈夫ですか!?」
 少し離れた所の別の木の根の上で、左手で細い根っこを掴んで体を支え、右手だけで銃を持つオーガストの声がした。

「先に上がってください!」
 おっかなびっくりこっちに寄ってくるオーガストに、ユキはモディファイド・アイソセレスでM1917を構え、周囲を警戒しつつ声をかける。
「え?いや、しかし……」
「オーガストさん、お医者さんでしたよね?スティーブさんをお願いします!」
 そのオーガストに、先に上に行ってもらう理由をユキは述べる。
「……わかった」
 瞬時、女の子を残し自分が先に上がる事に葛藤があったのだろうオーガストは、しかし、負傷しているスティーブを一刻も早く診なければという義務感もあって、ユキの判断に従う事を決意する。
「あと」
 オーガストの返事を背中で聞きつつ、ユキは、付け加えた。
「その銃とスペアマグも貸して下さい」
 暗闇の奥に、何者かが動く気配を複数感じながら、オーガストは、腰に手を回した。

「大丈夫だ、傷は深くはない」
 ロープを垂直に登り、息が上がったままのオーガストは、息を整える間もあらばこそ、スティーブをうつ伏せにして背中の傷を見て、言った。
「だが、縫合は必要だ。馬に戻れば応急処置道具がある、早く、一旦戻ろう」
「分かった。立てるか?」
 オーガストの提案に、チャックは頷き、スティーブに尋ねる。
「ああ、お嬢さん達に、これ以上かっこ悪いところは見せられないからな……!」
 強がって答えたスティーブの言葉が終わるとほとんど同時に、穴の下から銃声。少し間をあけて、もう1発。直後、ロープが軋み、すぐにユキが穴から顔を出し、一挙動で穴の上に飛び出して来る。
「ジュモー!手貸して!ロープ上げて!」
 ユキは、立ち尽くしている――ように見える――ユモに声をかけ、しかし自身はそちらを見る事もなく、ホルスターからM1917を抜き、穴から下に向かって2発、撃つ。
 ユキがロープに取り付こうとした『ウェンディゴ憑き』を牽制している間に、男達の目を避けて何某なにがしかの呪文を唱え終えたユモは小走りにロープに駆け寄り、全力でロープを引き上げる。
「早く、一旦戻りましょう!」
 M1917リボルバーをホルスターに仕舞いながら、ユキは男達に言う。
「さっきのヤツ、思ったよりいっぱい居るみたい!」
「分かりました、オースチン君、君から行って下さい」
「……了解です大尉、あなたも、お早く」
 既に『いびつな卵形の、巨人の頭にも思える空間』の底から板張りの床に上がるロープに取り付いていたスティーブは、声をかけたオーガストに返事しつつ、苦痛を押してロープを登りはじめる。誰もが彼を手助けしたいが、この状況では自力で上がってもらうのが一番早いし、手助けもしようがない。
 その様子を背中で聞きながら、精一杯のスピードでロープを引き上げたユモは、小声で、ユキに向けて呟く。
「何かとんでもないのが下にあるわ。正体は分からないけど」
「それって、あいつらの事じゃなくて?」
「格が違うわ。封じた方が良さそうだけど……」
 相手の正体が分からないから、効果的な破邪の封印の見当がつけられない。ついたとしても、時間も道具も、何より自分の力量が、まるで足りない。考えるまでもなくその事に思い当たり、ユモは臍を噛む。
「出来るだけの事はしよう。術の方はお願い。チャックさん!オーガストさん!」
 小声でユモにそう頼んでから、ユキは振り返って男達に言う。
「この穴、一旦塞いでから撤退しましょう!」
「何?」
「それはその方が安心ですが、どうやって?」
 何とか床の上に上がったスティーブに続いてロープを上がろうとしていたオーガストと、そのロープを下で確保しているチャックが振り向く。
「みんなが上がったら、床を壊しましょう」
 振り向いた男達に、ユキが言う。
「床を?しかし……」
 オーガストは、ユキの答えを聞いて上を見上げる。かなり頼りなくなっているとは言え、一応は側壁に斜め梁をかけて組んである床板の構造は、壊して回るには相当な時間がかかりそうに見える。
「任して下さい、こういうの得意なんです。準備するから、二人とも先に上がって下さい」
 笑顔で、ユキは請け合い、付け加える。
「あたしもジュモーも、スカートなんで」
「大丈夫なの?」
 男達には聞こえない程度の小声で、ユモはユキに聞く。
「何ならあたしも……」
「大丈夫、この程度軽いもんよ。あんたは術でここを封じて、終わったらとっとと上に上がってちょうだい」
 ユキに言い切られて、ユモは頷くしか無くなる。万が一にも男達に見られないよう、上手い事ユキの影になりながら、ユモは左手で右腰の聖灰・聖水・水晶粉の入った弾薬盒パトローネンタッシェの蓋を開け、右手で左腰の銃剣バヨネットのハンドルを握った。
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