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第五章 月齢28.5

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「これはこれは。なんともごあいさつですね」
 男は、大げさな仕草で、いかにも困った風に両手を上げて顔を背け、肩をすくめる。
「お教えするのはやぶさかではありませんが、では、ギブ&テイクと言うやつです。私にも一つ、教えていただけますか?」
「何を?」
 聞き返したユモに、男は姿勢を正して言った。
「そのペンダント、輝かないアンシャイニング・多面体トラペゾヘドロンを作った方は、今、どちらにいらっしゃいますか?」

 ユモの表情に、緊張が走った。
「……それを聞いて、どうするの?」
 男は、考え込むような仕草をする。
「さあて、どうしましょうか。とりあえず、私は旧知の間柄であるの魔女と親交を温めたい、とでも言っておきましょうか」
 男は、口角を上げつつ、答えた。仮面マスクが笑ったなら、こんな感じだろうな。チャックは、未知なるものへの恐怖で回転の鈍った頭で、そう思った。
「あなたは、少なくとも、月の魔女リュールカを御存知のはず。であるならば……いかがでしょうか?」
「悪くない提案ね」
「ちょっと!ユ……」
 腕を組んで答えたユモに、思わず雪風は袖を引き、声をかける。が、ユモはそれを手で制する。
「……あたしが、その魔女の居場所を知っているなら、ね。残念だけど、知らないものは教えられないわ」
 ユモは、思った。ママムティに、魔女リュールカ・ツマンスカヤに、こんな蕃神ばんしんに関係するような知り合いが居るなんて、聞いたことが無い。勿論、あたしが聞いていないだけかも知れないけれど、だとしたら、それは聞かない方が良い、あるいはまだ聞くべきではないという事に違いない。
 だから、教えられない。教えるわけには、いかない。ユモは、普段の母の面影を、自分よりいくらか背は高いとは言え、普段であれば少女と見まごうようなその優しい眼鏡越しの笑顔を脳裏にうかべつつ、堅く思う。
「そうですか……それは確かに残念なことです」
 ユモは、知らない。この男の脳裏に、脳などというものがこの存在にあればだが、そこに浮かんだ魔女リュールカの姿は、ユモが思い浮かべたものとは色々と食い違っていたことを。
「交渉は決裂、という事ですか。いやはや、残念至極です」
 帽子に手をかけ、男は、さも残念そうに頭を振る。
 その有様を、雪風は、首の後ろがひりつくような緊張感を持って見ている。
――こいつは、ヤバイ奴だ――
 雪風の本能が、そう告げる。
――そういう意味では、強くはない。あたしでも斬れるし、突いて、つらぬける。でも、多分、勝てない。負けることは、倒されはしないだろうけど、多分、倒せない……違う。倒しようがない・・・・・・・……――
 魔法を使えるユモならともかく、物理的に切った張ったする事しか出来ない今の自分では、相手が悪い。雪風は、直感する。直感して、しかしなお、右手は右腰の拳銃M1911のホルスターに伸び、左手は、親指で鯉口を切るかのように左腰に添えて構えている。
「残念ですが、しかし、お近づきの印に、特別にお教えしましょう……その前に、あなた、お名前を聞いても?」
 残念だと言う割には、男の声色は一つも残念そうには聞こえない。
「……ジュモー。ジュモー・タンク。あんたは?」
 ユモは、警戒して、よく使う『微妙に違う本名』を答え、そして尋ね返す。
「……ああ、そうでしたか。あなたが。あなたが、オーガストさんが話していた、魔女ジュモー、なのですね?」
「……違うわ」
 ユモは、低い声で訂正する。
「あたしは、まだ魔女じゃない。魔女見習いよ」
 それを聞いた男は、大げさに驚いたというジェスターを示しつつ、答える。
「いやはや、ご謙遜いただくとは、これまたお見それしました。お話しは伺っていましたが、どうもこう、私は人の見分けというのが苦手でして。大人とか子供とか、よく分からないのです……ああ、さっきも言いましたとおり、私の事はお好きなように呼んで戴いて結構です。なにしろ」
 男は、帽子のつばに触れ、ほんのわずかに帽子を持ち上げながら、言った。
「私には、顔がないそうなので」

 気が付いた時、チャックは雪に覆われた冷たい森の下草に膝をついていた。何が起きたのか、自分でも分からなかったが、体に力が入らず、上体がそのまま崩れ落ちる。目の前は真っ暗で、何がどうしたのか、理解が追いつかない。
「……すみません、咄嗟なんで、これしか」
 すぐ側で、何事か言い訳する雪風の声がした。チャックは、耳も少しおかしくなっているのだと感じた。その程度に、雪風の声は、わずかにくぐもって聞こえた。
 片頬が、妙に熱い。
「出来れば、そのまま気を失ってください。何も聞かず、見ず、匂いも嗅がずに」
 チャックは、理解した。雪風が、文字通り目にもとまらぬ早業で、自分の顎にノックアウトパンチをくれたのだ、と。
「ずいぶんと酷い事をするわね」
 怒気を含んだユモの声が、脳震盪で途切れる直前の意識の中、チャックの耳に届いた。
「手加減したつもりだけど、咄嗟だったから」
「あんたじゃなくて。あんたよ」
 気を失う寸前に、チャックは理解した。ユモの怒気の矛先は、雪風ではなく、その男の方に向いているのだ、と。

「何の、事ですか?」
 いけしゃあしゃあと、男は言う。黒い肌の中、対照的に輝く白い歯を見せて。
「何って……」
 男の、帽子の下に垣間見える顔を直視しないようにしながら、ユモは答える。そこにあるのは、確かに顔、黒い肌の、男の顔。しかし、瞬きした次の瞬間、そこにあるのは本当に目は二つ、鼻と口は一つなのかすらわからない、得体の知れない何かであり、しかしながら同時にそれは絶世の美男子のそれにも見える。
 絶対的な、致命的なまでの矛盾。眉目秀麗にして無貌、とでも言うべきかしらね。ユモは、思う。こういうのは、別にさほど珍しくはない。『人の認識の外』に存在するものは、えてしてこういうもの。その意味では、いわゆる神や悪魔でさえ同じこと。その姿を、受け側の人間が視覚聴覚その他を整理し再構成し、自分の常識の範囲で理解し得た姿が一般に伝えられているだけ。魔女を筆頭に、訓練された者ならば、ある程度は本質が『見える』けれど、普通はただ光っているだけ、暗闇だけ、見えるのはそんな程度。だからこそ、何かの拍子に運悪く、一部でも見えちゃうと、良くも悪くも一発で精神に来る。
 でも、こいつは違う。ユモの眉間に、自然に力がこもる。こいつは、おそらく、見たくなくても見えてしまうタイプ。そして、見えてしまえば、簡単に理解の限界を超えてしまう、そういう奴。ユキが、チャックがこれを見る前に気絶させたのは、手荒だけど大正解……でも、そしたら、ユキ自身は大丈夫?
「……こんだけ悪質な『いないPeekいないばぁboo』も無いって話よね」
 斜め後ろから聞こえた雪風の声は、そのまま近づき、ユモの真横に並んだ。その声に、ユモは大きな安堵を感じ、雪風の言葉に答える。
「まったくだわ」
 答えて、ちらり、と、ユモは一瞬だけ雪風に視線をそらし、小さな驚きを感じつつ、平然を装って視線をその男に戻す。
「で?それ・・が、あんたの正体?」
 前を見たまま、ユモは隣の雪風に口の端で問いかける。
「ん?……ま、ね。自己防衛本能ってやつ?」
 わずかにくぐもった声で、皮肉っぽく雪風は答える。
「あたしも、まだまだ未熟って事ね」
 精神的な防御につられて、ちょっとだけとは言え肉体も変化してしまった自分を見て、大きく発達した犬歯を見せて苦笑しながら、雪風は言った。

「いやいや、これはこれは。悪気ではないのです、ただ、少しでも私を知っていただけたら、あなた方も、もちろん私も、楽しいだろうと、そう思っただけなのですよ……しかし」
 男は、帽子を目深に被りなおして、続ける。
「本当にわからないものです。どうやら、あなたもただの人間ではなかったようですね。お見それしました」
 その言葉は、雪風に向けられたものらしい。うやうやしく、男は雪風に礼賛らいさんのポーズをとる。
「考えてみれば、ジュモーさんでしたか、あなたは、魔女リュールカの創りし輝かないアンシャイニング・多面体トラペゾヘドロンを託されるような方です。ただの幼子であるはずがありません」
「……どいつもこいつも……」
 男の言葉を聴きながら、ユモは、子供扱いされたのが面白くなさそうに呟く。だが、男のその次の言葉に、ユモは少しだけ機嫌を直す。
「ジュモーさん、あなたは、あなたも充分に立派な魔女なのですね?いやいや、わからないものです……私は、本当に勉強不足で、その人の人となりというのですか?見抜くのが本当に苦手なのです……してみると、お隣のあなたは、ジュモーさんの使い魔なのですか?」
「……あ?」
 この数日間でユモが聞いた中で、もっとも不機嫌かつドスの効いた声で返事をしつつ、右手も左腰に添えた雪風が答えた。
「あんた……斬られたい?」
「ダメよ、まだ……ぷっ」
「……あんたも、笑うんじゃないわよ」
 抑えようとすればするほど、申し訳ないと思えば思うほどこみ上げてくるおかしさに思わず吹き出し、肩を震わせたユモを、雪風は恨めしげに睨み、軽く肘鉄を入れる。
「ゴメン、でも……んん!」
 咳払いして笑いをかみ殺したユモは、改めて男に向き直った。
「残念だけど。この娘は、あたしの友達よ」
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