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第五章 月齢28.5

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「友達……ですか」
 男は、その言葉を噛みしめるように、繰り返した。
「友達。その概念もまた、私にはよく分からないのです。つまりあなた方は、主従関係ではない、対等と言えるなんらかの利害関係であると、そういう事でしょうか?」
「利害ってのは、ちょっと違うわね」
 ユモは、何かが分かりかけてきたような気がして、慎重に答えた。
「あたし達の間には、打算的な利害関係はないわ。そうでしょ?」
「そうね、確かに互いに助け合わないとどうにもならないけど、それは打算じゃないわ……好意、友情、そういうものよ」
 一息、大きく息を吸って吐いてから、雪風が付け足した。
「口にすると、恥ずかしいけどね」

「なるほど……余計に分からなくなりました。これはもっとあなた方を観察し、教えていただかないといけないのでしょうけれど……」
 男は、そう言って、懐中時計を取り出し、見た。
「……当面のところ、残念ながら私にはあまり時間がありません。そろそろ行かないと……」
「待ちなさいよ」
 一歩踏み出して、ユモが語気鋭く言う。
「ペンダントはどこよ?教えるつもりだったんじゃないの?」
「ああ!そうでした。新たなる疑問にすっかり気を取られていました」
 男は、またしても大げさに、芝居がかった仕草で驚き、謝罪してみせる。
「残念ながら、本当に時間がないのです。何しろ、明日の朝方にはあっち・・・に居ないといけないので」
「……あっち?」
 どこか遠くを見つめるような仕草で答えた男に、ユモは聞き返す。
あっち・・・、です。ここでも良かったはずなんですが……が、馴染んだ場所の方が良いと言うことなので」
 やれやれと、男はかぶりを振る。
「結構大変なのです。これ・・は、星々を渡るには便利なのですが、これほどの近距離を移動するには向いていませんので……かと言って他に移動手段が今の私にはないので、一旦これ・・でユゴスまで行って帰ってくるしかないのですが……水平距離の割に、大変に非効率で」
 言いながら、男は足下の平らな丸石を軽く蹴る。ほわり、と、その石がわずかに青白く光をまとう。
 ユモは、息を呑む。その光の正体に、直感的に気付いたのだ。
「というわけで、私はこれでお暇します。代わりに、これを差し上げます。オーガストさんが、ここに残されたメモです」
 男は、言いながらその丸石の上に立ち、手に持っていたメモ帳をユモに投げ渡す。
「私は、あなた方の文字を読むのはまだ不慣れでして。ですが、あなた方の知りたいことが大体そこに書かれているだろう事は分かりました。是非、役立ててください」
 光が、徐々に強くなるのがユモにも雪風にも分かる。その、強くなる光に合わせるように、男の体がゆっくりと、ほんのわずかに、平らな石から浮き上がるのも。
「……ずらかった方がよさそうよ」
 雪風が、さっきまで男が腰掛けていた岩を見ながらユモに耳打ちする。ユモも、気付いた。その岩が、ぶるぶると、まるで腐った煮魚から浸み出した体液の煮こごりのように、震え、沸き立ち始めたことを。
「そうね、頃合いね」
 男が投げ渡したメモを軽くお手玉しながら受け取ったユモも、その不快な物体を視線に入れないようにしながら、答えた。
「では、さようならです。またお会いできる日があることを、本当に楽しみにしています」
 もはや、石が放つ光は目を焼くほどに強く、岩に見えていた黒いゼラチンのようなものは、ねじれ、揺らめき、そして煮えくりかえるかのようにぶくぶくぼつぼつと気泡を弾けさせる。
 そして、そのいくつもの気泡が変じた風穴は、吹き抜ける生暖かく湿った不快な吐息に、フルートのような共鳴音を付け加え始めた。
「ユキ!」
「あいよ!」
 もはやこれまで。ユモは、これ以上ここに留まるのは危険と判断し、雪風に脱出を促す。以心伝心、失神しているチャックを既に小脇に抱えていた雪風は、答えるが早いかユモの腰に手を回すと、二人を抱えたまま大きく飛びすさる。空中で半身をひねり、光に背を向けた雪風は、着地と同時に脱兎の勢いで獣道を駆け抜けた。

 意識を取りもどした時、チャックは、自分がどこに居て、一体何が起こったのか、瞬時に理解出来なかった。
「……ここは……ロッジ、か……」
 暖炉にくべられた松の焚き木がぱちりと爆ぜ、ぼそりと崩れる。充分に温められたロッジのリビングの、床に敷かれた毛布の上で、チャックは体を起こす。頬から顎にかけて載せられていた濡れ布巾が、落ちる。しばらくその落ちた布巾を眺めていたチャックは、ゆるゆると経緯を思い出す。
――そうだ、俺は、ユキに殴られて昏倒したんだ……しかし、何故、俺は殴られたんだっけ……――
 欠け落ちている記憶を拾い集めようと努力しつつ、チャックは起き上がり、自分しか居ないリビングを見まわす。その視線が、テーブルの上の紙とペンに停まる。
 無言のままその紙を持ち上げたチャックは、読みやすい文字で丁寧に書かれたそのメモを、ゆっくりと読み始めた。

親愛なるDearチャックさんへMr.Chuck

 色々と説明したいのですが、あなたがいつ頃意識を取りもどすか分からないので、ここにメモを残します。
 あたし、ユモと、ユキカゼは、これから大急ぎでベイフィールドに戻ります。理由は、明日の朝、そこで何かが起こるとあの男が言ったから。
 何が起こるか、詳しい事は私たちにも分かりません。しかし、オーガスト大尉も関係する何かがそこで起こるだろう事は間違いなさそうです。
 馬は全てここに残して行きます。馬ではちょっと間に合いそうにないし、今日一日働いてくれた馬たちを、これから徹夜で走らせるのも可哀想なので。すみませんが、オーガスト大尉の馬も含めて世話をお願いします。
 ああ、それから、オーガスト大尉が残したメモがありました。解読が必要なので、とりあえず私が持って行かせてもらいます。
 全部片付いたら、何が起きたかを説明します。ベイフィールドのキャンプで待っているつもりですから、慌てずに来て下さい。馬と荷物をよろしくお願いします。
 くれぐれも、道中お気をつけて。

ユモ・タンカ・ツマンスカヤ』

「……馬を置いていった、だって……?」
 チャックは、読み書きが苦手な自分が、そこのところを読み間違えたのかと思って二度ほど読み直してから、呟いた。
「……じゃあ、一体どうやってベイフィールドまで行こうってんだ?……」

 十数分前、最低限の荷物――水と行動食とランプに油にマッチ、それに武器弾薬――をユモと雪風はかき集め、一番小さいサドルバッグに詰め込んでいた。
 あの男が言った、明日の朝方、というのが何時なのか、正確には分からない。だが、今から馬で行ったのでは間違いなく間に合わない、それだけは確かだった。
 その事を口にし、悔し紛れに爪を噛むユモに、雪風は、ならば自分がはしる、自分なら一晩中奔れるし、馬よりはやい、そう断言した。
「本当に?」
 一縷の光明を見いだしたユモは、思わず期待に満ちあふれた目を雪風に向けた。
「勿論。見たでしょ?あたしの本性……まあ、今夜が満月だったらもっと良かったんだけど」
「あ……」
 ちょっとだけ口惜しそうな雪風の様子に、ユモも気付く。今夜が、新月期であることに。そして、さっき見た雪風の本性、それは、月の満ち欠けに強く影響されるという種族のそれであった事を。
「ま、大丈夫よ。持久走なら馬より速く、遠くまで行けるのは確かだから」
 一般に、疾走する馬は時速にして50ないし60キロとされる。しかし、以外に知られていないが、この速度、襲歩ギャロップという最高速の歩法は、維持出来てせいぜい10分。馬を使って長距離移動する場合、その行程のほとんどは常歩なみあし、時速にして6キロ強。一般的に、常歩で二時間移動し、三十分ほど休息してまた常歩、これを繰り返して一日に50ないし60キロメートル移動、というのが馬での移動の基本である。
「正直、あたしはまだ年齢的に体が出来上がってないけど、でも、長距離なら確実に馬より速いわ。それよりあんた、体重何キロよ?」
「な、何よ藪から棒に」
 突然、雪風に違う話を振られて、ユモは戸惑う。
「あんた担いで走るのあたしなんだから、一応ね」
「……30キロ」
 年齢の割には体が小さい事がコンプレックスでもあるユモは、雪風から目を逸らしてぼそりと呟く。そのためだろうか、ユモは、雪風が小さく舌打ちした事に気付かなかった。
「あたしの半分かよ……OK、それくらいなら軽いもんだわ」
 言いながら、荷物をまとめ終わった雪風は、服を、中学の制服であるセーラー服を脱ぎ始める。
「……って、ちょっとあんた、何を」
「ママがね、完全に変化へんげする時は、先にキチンと服脱いどけって」
 チャックが人事不省であるのを良い事に、さっさと全裸になった雪風は、制服と下着を手早く畳んで荷物に付け加える。
「言いたがらないけど、ママ、それで大失敗したことがあるらしいのよ。パパに口止めしてたもの……じゃあ、悪いけどこれ、あたしが変化したら背中に乗っけて縛ってくれる?」
「いいけど……ぉおおっ?」
 言うが速いか、雪風は『本性』を露わにする。その雪風に返事したユモは、その変化を目の当たりにして、思わず感嘆の声を漏らす。
「……凄い……分かってたけど……あたし、こんな完全な変身、初めて見た……」
 ユモは、変化しきった雪風におそるおそる近づき、そっとその毛並みに手を触れて、呟く。暖かくしなやかなその毛皮に触れた手のひらから、猛々しくも優しい源始力マナが伝わってくる。
 ユモは、気付いてはいた。雪風の仕草から。言葉の端々から。だが、こんな間近で見たのは初めてだし、そもそも、話に聞いたことはあっても実際に見るのは初めてだった。
 そこに居たのは、先ほどまでは雪風だった、人の姿だった、獣。強く、気高く、誇り高き、森林の王。
 そこに居たのは、巨大な、漆黒の狼だった。

「……にしても、あたしが見たことある狼より、二回り近く大きいわよ、あんた」
 雪風の胴回りにサドルバッグを括り付けながら、ユモは呟いた。
「……体重がね、人の姿の時と変わんないんだって」
 くすぐったさに耐えながら、雪風が思わず答えた。
「……あんた、体重何キロよ」
「……」
「言いなさいよ、あたしも言ったんだから」
「……60キロ、くらい」
「……なるほど」
 ユモの知識によれば、犬の場合40キロを越える犬種は超大型犬と分類されるし、村でたまに見かける本物の狼も、いわゆる大型犬と大差ない。今、目の前に居る、雪風の声で――言葉としてはほとんど聴き取れないが、『言葉通じせしむまじない』のおかげで会話は成立している――話すこのけものは、雪山で見たことのあるセントバーナードと良い勝負だった。
「よし出来た。じゃあ、その力とやら、見せてもらおうかしら?」
「おう、目ん玉かっぽじっとけ!」
「ひんむくでしょうに……」
 雪風の軽いボケに付き合いつつ、ライフルGew71を背負ったユモはその背中に跨がる。
「どっちでもいいわよ、しっかりしがみついといてよ!」
「わかって……うひゃあ!」
 ユモが答えきるのを待たず、雪風という名の巨大な黒狼は、満天の星空の下、はるかな北を目指して駆け出した。
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