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第六章 月齢0ー朔の月ー

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 『友情を糾うバローム・クロース』のまじないは、ユモはリュールカからその存在は聞いていたが、同時に、母自身もそれを使ったことはないとも聞いていた。
 呪文自体の難易度は、『月の魔女』のまじないとしてはむしろ低い方に属する。しかし、一部の禁呪以外のほとんどのまじないを一度は経験しているリュールカであっても、このまじないはその条件の厳しさ故に唱えたことはなかったのだ、と。
 その条件とは、つまり。
 まじないを行う主体となる魔女あるいは魔法使いに対し、独立した個人でありながら友情という非常に抽象的な概念で結ばれ、かつ、互いを補完し合う力関係にある他者の存在が不可欠である事だった。
「お友達は居ますよ。それはもう、いっぱい。ただ、皆、魔法使いなので、あざなうに値する『補完する関係』たりえないのです」
  ユモから見て非の打ち所のない偉大な魔女であるリュールカだが、そのような『友人』と呼ぶに相応しい対等の『補完する関係』は在ったことが無く、そしてそれが故にこのまじない、『友情を糾うバローム・クロース』は使う機会が無かったと、リュールカが苦笑交じりにそう言ったのをユモは覚えていた。
「『補完する関係』って、具体的に、どういう関係なの?」
 ユモは、もっと幼い頃、母にそう聞いたことを思い出す。そのユモの素朴な疑問に、母は微笑んで答えた事も。
「自分と同等かそれ以上の源始力マナを扱う包容力キャパシティを持ち、かつ、私達魔法使いにとって絶対的に欠けている一面、精神面を追求する我々と対となる、肉体面を追求した存在、でしょうか……」
 そう言って、母は何事か思い出すように、遠い目をした事を、ユモは覚えていた。
「……もしかしたら、あの方であれば、ゆくゆくはそのような関係になれたかも、分かりませんでしたね……」
 その母の言葉が誰を指すのか、ユモには分からない。だが、自分とユキが、東洋人で、人狼で、体力と体術と包容力に秀でた『使い魔一号フェアトラート・エアステ』がその『補完する関係』の対象そのものである事は、『友情を糾うバローム・クロース』のまじないが成就した事で、ユモの中で確信に変わっていた。

 時間にすれば、それはほんの一瞬だった。頭に流れ込むユモの『意図』の通りに呪文を唱えた雪風は、ほんの一瞬、まぶたの裏に眩しいほどの輝きを、体の中心に熱い何かが迸る感触を覚え、思わず目をつぶった。
 雪風の首筋にしがみついて呪文を唱えたユモの体がまばゆい光を放ち、間を置かず雪風の体も同じように光る。時間にすればほんの一瞬、微妙に異なる二つの光は一つに融合し、共振し、新たな波長を生み出しつつさらに強く輝く。
 その光は、呪文の最終段を唱えるために立ち止まった二人に飛びかからんとした『ウェンディゴ憑き』の目をくらまし、二人が振動させた呪文の共鳴がもたらすエーテルの波動は『ウェンディゴ憑き』を物理的に押しとどめる。
「……ちぇすとぉおおおっ!」
 光の中から現れた鈍色に輝く一降りの剣が、その『ウェンディゴ憑き』を横薙ぎに薙ぎ払う。旋風のごとくに剣を振りきって光の中から跳び出したのは、黒と金の長い髪をなびかせ、軍用コートを羽織りライフルGwe71を背負った一人の大柄な女性。別の足場に飛び移り、木刀れえばていんを正眼に構え直したその女の顔は明らかに人とは異なる口吻マズルが突き出し、その瞳は金色に燃える。
「……視野が高いわね?もしかしてあたし、背が伸びてる?」
 発達した犬歯の覗くその口吻マズルから、雪風の声が呟く。
――あんたとあたしの体と力が一つになった結果よね、足して二で割るってわけじゃあ、ないって事ね――
 エーテルの振動が、ユモの声となって鼓膜に届く。
「マジか……まあいいわよ、これはこれでいい感じだもの」
 狼の口が、大きく耳まで裂けて、笑う。
そういうこと・・・・・・なら、じゃあ、魔法は任したわよ」
 雪風のみ・・・・だった頃には膝丈だったが今はミニ丈に近い膝上の、黒い制服のプリーツスカートからはみ出した尻尾をゆらゆらと振りながら、雪風が言い、
――あんたこそ、体の方は任したわよ――
 明らかに高揚した声色のユモの声が、それに答える。
「おーけー。そんじゃ、時間もないことだし、ぶわぁ~っと行きますか!」

 それ・・に意思や思考があるとして、それらを人間が理解できる言語で説明するのは、基本的には不可能だし意味のない事だった。
 なぜならば、それ・・は何一つとして、単細胞生物を含む既知の動植物と一致する部分を持たず、唯一、直立歩行する類人猿に似たその形状ですら、この地で多く観察された『微生物』を真似たものでしかなく、そうすることでその『微生物』が通常と異なる反応を示すことが分かったからに過ぎなかった。
 だから、あえて今、それ・・が何を思っているかを無理やりにでも記述するとするならば。
 それは、己の意図に反することが起こっている現状に対する混乱であり、疑問であり、いきどおりであった。

 その『微生物』は、確かに二つ、あった。形状には、今まで見てきた他の微生物とさしたる差があるようには見えなかったが、それらの移動能力も、移動方法も、捕えようとするそれ・・から逃れるやり方も、実にユニークで見たことがなかった。
 はじめのうちは面白半分であったが、次第に、それ・・は、その微生物が意のままにならないことに不快を感じた。そして、その微生物があれ・・の保存庫に入ったのを見て、それ・・は、逃げ道のないここで捕まえよう、そう決めた。
 捕まえて何をするか、なぜ捕まえるのか、そのようなことはそれ・・にとって意味がなかった。捕まえる、ただそれだけだった。
 だから。どうにも捕まらない、どころか、嫌な臭いのする光・・・・・・・・を放ち、いつの間にか一つになったその微生物に、それ・・は混乱し、憤っていた。
 だから。それ・・は、洞窟の上半分で渦巻き、居座るおのれから、まるで手を伸ばすがごとくに五本の吹雪の触手のついた触腕を、洞窟の底に向けて伸ばした。

――……って、ちょっと待って!――
 『友情を糾うバローム・クロース』のまじないが成功した直後、前にも増して力強く木剣を振るい、足場から足場に跳躍するその体のコントロールを雪風に全面的に任せたユモは、自分の分担である呪文を唱えようとして、ある事に気付いて愕然とし、声なき声で大声を上げた。
「うわ!な、何よいきなり!」
 突然、直接鼓膜をエーテルの振動で叩かれて、体をコントロールする雪風は跳躍のリズムを崩し、足場を踏み外しそうになる。その隙を突いて上から被せてきた吹雪の五本指を雪風はあえて避けず、腰を落として稼いだほんの一瞬を使って念を木刀れえばていんに集中し、
「……てりゃあ!」
 気合い一閃、渾身の突きでその吹雪で出来た歪な手を押し戻し、蹴散らす。散らされた吹雪の手が再びまとまる前に、ベースになっている雪風の体より頭一つ背が高く、相応に幅も厚みも増えているその体は別の足場に跳躍し直す。
 離れた足場から吹雪の指が再び形を成すのを見た、ユモと雪風が合体した存在、寸が詰まってミニ丈に見えるセーラー服の上に膝丈でちょうど良い按配の軍用コートを羽織り、右半分が黒、左半分が金の長い髪を風になびかせる金の瞳の獣魔女ヘキセンビーストは、木刀れえばていんを肩に担いで、独りごちる。
「……で?何?」
 突き出た口吻マズル、大きく鋭い犬歯から漏れる声はやや重いが雪風のもの。暗闇をも見通すようなその金の瞳は、油断なく吹雪の指と周囲の『ウェンディゴ憑き』を警戒する。
――手よ!手!あんたの手、貸して!呪文唱えても印が結べなきゃまじないが完成しないわ!――
 切羽詰まったユモの声なき声が、直接鼓膜に響く。
「んな事言ったって!」
 向かってきた吹雪の指を避けるべく跳躍しながら、雪風の声が答える。
「手が使えなきゃあたしだって困るわ、よ!」
 言いながら、獣魔女ヘキセンビーストは飛びかかってきた『ウェンディゴ憑き』を木刀れえばていんで叩きのめす。
――じゃあ、どうすんのよ!――
 テンパって、キレ気味にユモの声が返す。
「知らないわよ!いっそ阿修羅みたいに手でもいっぱい生やしてみる!?」
 雪風も、売り言葉に買い言葉で思いつきをそのまま口に出す。
――何よそのアーシュラって!?――
「こういうのよ!仏教の神様!」
 突っ込みどころ満載の答えを返しながら、雪風は脳裏に阿修羅のイメージを浮かべる。もっとも強いイメージは興福寺の阿修羅像、ヒンドゥーのアスラが仏教に取り込まれ、修羅道を治める阿修羅王の仏像である。互いの意識は独立していても、使い魔の契約フェアトラーク フォン フェアトラートだけの状態より明確にイメージが共有できていることに、二人は何の疑問も抱かない。
――うわ……でも……これ、いけるわ!――
「うえっ?」
 一瞬、見慣れないその仏像のイメージに気圧されたものの、すぐに何かをひらめいたらしいユモの声と気迫に、今度は逆に雪風が気圧される。
――つまり、こうよ!――
 言うが早いか、羽織っていた軍用コートの袖の中に、今ある腕より明らかに華奢な腕が出現する。その腕は、セーラー服の腰に巻かれたガンベルトの、そのさらに上に巻かれた弾薬盒パトローネンタッシェベルトから銃剣バヨネットと聖灰を取り出す。
「……そういう事か!」
 気を取り直した雪風の声と共に、獣魔女ヘキセンビーストは再び木刀れえばていんに念を込め、自分を掴み取ろうとした吹雪の掌を斬り飛ばし、霧散させる。
――我が前方にラファエル!我が後方にガブリエル!……――
 ユモの凜とした声が、印を切る腕の動きに乗って洞窟中のエーテルを振動させた。
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