【R18】この夏、君に溺れた

日下奈緒

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設定と現実

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駅の近くにあると言った先生の家は、本当に歩いて10分ぐらいの場所にあった。

マンションが何棟か建っている中の、一番南にある物。

現在無職の先生が、何故こんなに立地のいい物件を持っているのか、気になって仕方がなかった。


「お前は婚活中のOLか!?」

先生からは明確な答えは、引き出せなかった。

後は自分で考えるしかない。


もしかして、実家がお金持ち?

若しくは女性に貢がせているとか?


「何、考えているんだよ。早く家の中に入れ。」

玄関で立ち止まっている私に、先生は呆れ顔で自分の家の中へと誘導。

そこは2LDKの小さな部屋で、リビングにはたくさんの紙が置いてあった。

「適当にそこら辺に座って。」

先生は歩く度に、その紙切れを拾い集めた。

そんなに大切な物なのか。

私は先生が拾いそこねた紙切れを、一枚だけ掴んだ。


「原稿用紙!?」

振り向いた先生は、私の手の中にある紙切れを、勢いよく奪った。

「見たな。」

およそ教師とは思えない、動揺ぶり。

「見てません。」

「嘘つけ!!」

「見る前に、先生が取ったじゃないですか!!」

反論する私と、先生は睨めっこ。

高校生と睨み合うなんて、年甲斐もない。


「とにかくこの部屋にある物は、一切触るな。」

そう言われて、ようやく坐るスペースを見つけたけれど、目の前には煙草の山。

「先生、タバコ……」

「あっ、悪い。」

後ろから手を伸ばして、煙草が山積みにされている灰皿を持ち上げる。


フワッと香る大人の匂い。

おそらく香水だろう。

それが煙草の匂いと混じり合うことで、尚一層、大人の男性の匂いを醸し出していた。


「あった、あった。」

先生は雑誌の間から、一枚の用紙を取り出した。

「やっぱりだ。まだ出前間に合う。」

それは先生がいつも頼んでいる、出前のメニュー表らしい。

「何がいい?」

差し出されたメニュー表の中には、ありきたりな料理が並ぶ。

どうやら中華料理らしい。

ありきたりな名前の脇に、麻婆豆腐丼という見た事もないものが躍った。

「これ。」

私がそれを指さすと、怪訝そうな目でメニュー表を見つめた。

「なに?」

「いや。」

先生は何も言わずに、電話を架けた。

「おばさん、平塚です。麻婆豆腐丼と回鍋肉定食お願いします。そうです、曲がり角のマンションです。」

適当に相槌を打って、先生は受話器を置いた。

「ここの店、暇だから15分もしないうちに持ってくるさ。」

私は頷いた。


付き合ってもいない男性の、しかも去年まで私の国語の先生だった人の部屋でお昼ご飯を食べる。

なんて不思議な気分なのだろう。

「先生、いつも出前なの?」

「大抵そうかな。」

なんだか一人暮らしの男性の生活を、ほんの少しだけ垣間見た気がした。

私は隣に座る先生を、チラッとみた。

確か先生は、私よりも10歳年上のはず。

30歳手前の男の色気が、まだ子供の私との間に、何とも言えない壁を作っているような気がした。

「先生。」

「ん?」

「あのさ……」

彼女、いる?と聞きかけた時だった。



ピンポーン



玄関の、呼び鈴が鳴った。

「は~い。」

先生は私の出そうとして出せなかった言葉なぞ気にせず、玄関に向かった。

「來々軒で~~す。出前、お持ちしました。」

遠くで皿を置く音がする。

15分もしないうちって、10分ぐらいで着いたじゃないか。

どれだけ暇だったんのよ。

言えなかった言葉を、出前のせいにしたくて、頬をプクッと膨らませた。

「ほれ。飯だ、飯。」

先生は大きなお盆に、たくさんの料理を乗せて、テーブルに持ってきた。


「なにこれ!すごい!!」

回鍋肉定食と麻婆豆腐丼を頼んだだけなのに、テーブルは一気に中華料理で埋め尽くされた。

「いっただっきまーす!!!!」

バチンと両手を併せて、私は空き過ぎたお腹に、麻婆豆腐丼を掻きこんだ。

「うぉっ!いい食べっぷり!」

先生も私に負けじと、定食を掻き込む。


「あ~。お腹いっぱい。」

あれだけ待ったのに。

こんなにお腹を空かせるまで待ったのに。

食べ終わるまでは、あっと言う間だ。

「食べた食べた。」

先生もお腹を撫でている。

「ご馳走様でした。」

私は先生に、頭を下げた。

「はい!お粗末さん!」


私は顔を上げると、首を45度傾けた。

「なに、それ。」

「『ご馳走様でした』は、豪華なお食事でしたね。という意味だろう?代わりにお粗末な料理でしたって返すんだよ。日本式の挨拶だ。」

先生は爪楊枝を、口の中に入れていた。

「それは……先生が料理を作った時でしょう?」

「ん?」

「今は出前だから、作ったのはお店の人だもん。先生にお粗末様なんて言えないよ。」

先生は私を見ながら、顔をクシャクシャにして笑った。

不覚にもその笑顔に、ドキッとする。

「これ、台所に持って行くね。」

私は食べ終わったお皿を重ねて持つと、台所のシンクの中に置いた。

「そのままでいいぞ。」

先生が後ろから覗いた。

「後で俺が洗うから。」

その表情が優しすぎて、胸の奥がモヤモヤする。

「でも、私何もしていないし……」

「んな事ないよ。」

もう一度先生を見ると、穏やかな表情をしていて。

私は先生の手に導かれるように、元いた席に座った。


「休んだら、家まで送るから。」

低い声で聞いたセリフが、私の胸の奥にくる。


なんて優しいんだろう。

ジーンときて、大人の男性の余裕に、いつしか私の胸はキュンキュン鳴っていた。


側ではタバコを吸っている先生がいる。

私が生徒だった事を忘れているのかな。

だとしたら、嬉しい。

私は近くに置いてあった原稿用紙を見た。

何か文章が書いてある。

「……小説?」

煙草を吸って煙を吐き出した先生は、小さな声で答えた。

「ああ。」


まだほんの1枚の原稿用紙しか見てないけれど、先生の字は野性的で男らしかった。

「さっき本屋で言ってたやりたい事って、この事?」

先生はまた煙草を吸って、煙を吐き出してまた吸って、今度は長く煙を吐き出した。

「ああ、そうだよ。」


意外だった。

先生のやりたい事が、小説を書くことだったなんて。

でも国語の先生だったのだから、案外似合うかも。

なんて、自分勝手に想像し。

私は手に持っていた原稿用紙を、床に置いた。


「今はどんなお話を書いているんですか?」

先生は拾い集めた束の原稿用紙を見つめた。

「大した話じゃないよ。」


弱々しい言葉。

それは先生の夢が叶うまで、道が大分遠い事を私に教えてくれた。


先生が吸っているたばこの煙が、部屋の中をフワフワ動いている。

まるで今の先生のようで、私はいたたまれなくなった。

「そうだ、先生!思い切って新しい話を書いてみたら?」

「はあ?」

先生は顔をしかめている。

「例えば……」

「例えば?」

先生が私の顔を覗き込む。

「……教師と生徒とか。」

私と先生の間に、煙草の煙が無意味に漂う。


しばらくして先生は、煙草を灰皿に押しあてた。

「ありきたりだな。」

「で、でも!友達は流行っているって言うよ!」

どうしてそんなに必死に訴えたのか。

言った後から、理由を探した。


「ダメ?」

「ダメって言うか、想像がつかん。」

先生はそう言って、髪をクシャクシャと掻き上げた。

「先生は……生徒の事、恋愛対象だと思ったことないの?」

「ないな。」


答えは意外と、すぐに返ってきた。

「そんな事思ってたら、仕事にならんし。」

先生の言うことは、尤もだと思った。

でも少しだけ悲しく思うのは、どうしてだろう。


「もし、想像できないって言うのなら、」

私は、先生のTシャツの袖を掴んだ。

「私で試してみたら?」

先生が私をじっと見る。

「え?」


もう、止まらなかった。

少しずつ先生に近づいた。


「藤沢?」

もう少しで私の唇が、先生の唇と重なりそうになった。

「待てって。」

先生の手が、私の肩を掴んだ。

「落ち着けよ。」

「落ち着いてるよ。」

動じない私に、先生は急いで煙草の火を消した。


改めてこっちを向いた先生は、私を見ているようで、見ていない。

「……俺は去年まで、お前の教師だったんだぞ。」

「うん。」

「お前は、そんな奴を……」

私は何も言わずに、先生を抱きしめた。

「今は、教師と生徒じゃない。」

「藤沢……」

「ただの、男と女だよ。」

そんな大人びたセリフを、微かに震えた声で言ってしまった事を、先生は感じとってくれていたのかもしれない。

自分の体から、私の体を引き離した後、先生の大きくて温かい手が、私の首筋を覆った。


「いいのか?」

先生の、真剣な瞳。

心臓の鼓動が五月蠅いくらいに、鳴り響く。


声に成らなくて、私は頷くのが精一杯だった。

「途中で止めてなんて、言うなよ。」

先生はそう言うと、乱暴にワンピースの後ろのホックを外して、下着の隙間から手を伸ばした。


先生の手が、私の身体を包む。

初めての経験に、私は着いて行くことが、精一杯だった。

しばらくすると、先生の身体は私の身体に重なり、先生の唇や手は、私の全身を刺激した。

他人の手が、自分の身体を柔らかく触る。

その恥ずかしいけれど、気持ちがいい感覚に、私の気持ちは完全に持っていかれていた。


どれくらい、その感覚が続いただろう。

気づいたら先生が、私をそっと見つめていた。


先生ではない、男の人の顔。

ドキンと、心臓が大きく鳴った。


「嫌だったら、嫌だと言え。まだ間に合うぞ。」

そんな言葉に、なぜか私の胸は締め付けられた。
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