6 / 19
【2】恋人のふりは、ベッドの上で破られる
③
そんな時だった。
隣の給湯室から、女子社員たちの声が聞こえてきた。
「ねえ、相馬課長って、結婚してるのかな?」
「してないって。独身らしいよ。素敵よね~、あの落ち着いた感じ。」
そうか……やっぱり誰でも一度は考えるよね。
あれだけ仕事ができて、容姿も整ってて、冷静で頼れる人。
私だって、惹かれて当然だもの。
「でもさ、お持ち帰りしてるって噂、聞いたことある。」
「……えっ、そうなの? 彼女いるんだ?」
「うーん、それがね。いないっぽいんだよね。」
「だから遊びなのかなって。……そういう人、いるじゃん?」
その言葉で、手が止まった。
──遊び?
課長が?
私を“彼女のふり”として抱いた夜のことが、ふいに脳裏をよぎる。
あれはただの気まぐれ?
私も……噂の“お持ち帰り”の一人なの?
指先が震えて、紙をめくる手がかすかに滲んで見えた。
ふり。
遊び人。
つながったような気がして、胸がチクリと痛んだ。
──聞けばよかった。
あの夜、どういう気持ちで抱いたのか。
でも、今さら聞けるわけない。
私はただの“契約恋人”。
それ以上でも、それ以下でもない……はずだった。
翌朝、私は相馬課長のもとへ足を運んだ。
周囲には同僚がいて、いつものオフィスの喧騒がある。
でも、自分の中だけは、ずっと静まり返っていた。
「……課長、少しよろしいでしょうか?」
彼が顔を上げ、私を見る。
その視線から目を逸らさずに、私は言った。
「“契約”……解除していただけますか?」
相馬課長の眉がわずかに動いた。
「……もう、ストーカーも来ませんし。」
そう言って、私は精一杯、笑って見せた。
「ありがとうございました。助けていただいて、本当に……感謝してます。」
課長の反応はなかった。
ただ、じっと私の顔を見つめていた。
その沈黙が、痛かった。
何かを期待している自分がいて、それを自分で否定した。
だから私は、ひとつだけ深く頭を下げて、その場を離れた。
……これでよかったんだ。
“ふり”は、終わらせなきゃいけなかった。
ほんとうの恋人じゃないなら、いつかきっと、もっと深く傷つく日が来てしまうから。
給湯室に行くと、掃除を担当している年配の女性がひとり、静かにモップを動かしていた。
「お疲れさまです。」と声をかけると、彼女は顔を上げて、私の名札を見つめた。
「……水原さんって言うのね。もしかして、お名前、瑠奈って言う?」
「はい、そうですけど……」
答えると、彼女はふふっと優しく笑った。
「あなたが、相馬課長の言ってた“瑠奈ちゃん”なのね。」
「……えっ?」
思わず固まった。
課長が……私のことを、話してた?
「彼ね、ずーっとあなたのこと想ってたのよ。会話は多くないけど、いつも名前が優しかったもの。」
一瞬、呼吸が止まった気がした。
「この前も、“瑠奈ちゃん、無事だった”ってほっとしてたのよ。……泊まったって聞いて、ああ、やっと報われたのねって思ったの」
胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。
「……課長が、私の話を……?」
「うん。あの人、不器用だけど、あったかいのよ。言葉に出せないだけでね。」
それだけ言って、彼女は再びモップを動かし始めた。
私の中で、何かが溶けていくのがわかった。
ずっと不安だった。
遊びだったらどうしようって、ひとりで苦しんでた。
でも──
もしかしたら、課長はずっと、
最初から、ちゃんと私を見てくれていたのかもしれない。
掃除の人の言葉を聞いたあと、私は急いで課長のもとへ向かった。
でも、デスクにはもう彼の姿はなかった。
「相馬課長なら、さっき帰られましたよ。」
そう聞いた瞬間、私は駆け出していた。
会社の駐車場へと向かう。
胸の中の言葉が、どうしても今日、伝えたかった。
──もう、ふりなんてしたくない。
走り込んだ先に、ちょうどエンジンをかけようとしていた課長の車があった。
「どうした? 水原。」
車の窓が開いて、彼が少し驚いた顔で言った。
「……お話があります。」
私は小さく息を切らしながらそう告げる。
「乗っていいですか?」
「……ああ。」
助手席に乗り込むと、彼もゆっくりと運転席に戻ってくる。
その静かな車内で、私は震える声を押し出した。
「相馬課長……私のこと、好きですよね?」
一瞬の沈黙。
課長は、ほんの少し目を見開いたまま、きょとんとしていた。
沈黙が怖くて、私は思わず叫んだ。
「……お願いです、何か言ってください。私、もう……泣きそうなんです……」
すると。
「……クククッ。」
静かに、課長が笑った。
「知られてしまったか。」
その笑いは、優しくて、照れていて──
まるで少年みたいだった。
「……最初から、振りなんかじゃなかった。」
相馬課長の手が、そっと私の頬に触れる。
その手のひらの温もりが、何よりの答えだった。
「契約なんて、ただの口実だ。俺は、君が……瑠奈が、好きだ。」
静かに、まっすぐに言い切る声。
その言葉に、胸が熱くなった。
隣の給湯室から、女子社員たちの声が聞こえてきた。
「ねえ、相馬課長って、結婚してるのかな?」
「してないって。独身らしいよ。素敵よね~、あの落ち着いた感じ。」
そうか……やっぱり誰でも一度は考えるよね。
あれだけ仕事ができて、容姿も整ってて、冷静で頼れる人。
私だって、惹かれて当然だもの。
「でもさ、お持ち帰りしてるって噂、聞いたことある。」
「……えっ、そうなの? 彼女いるんだ?」
「うーん、それがね。いないっぽいんだよね。」
「だから遊びなのかなって。……そういう人、いるじゃん?」
その言葉で、手が止まった。
──遊び?
課長が?
私を“彼女のふり”として抱いた夜のことが、ふいに脳裏をよぎる。
あれはただの気まぐれ?
私も……噂の“お持ち帰り”の一人なの?
指先が震えて、紙をめくる手がかすかに滲んで見えた。
ふり。
遊び人。
つながったような気がして、胸がチクリと痛んだ。
──聞けばよかった。
あの夜、どういう気持ちで抱いたのか。
でも、今さら聞けるわけない。
私はただの“契約恋人”。
それ以上でも、それ以下でもない……はずだった。
翌朝、私は相馬課長のもとへ足を運んだ。
周囲には同僚がいて、いつものオフィスの喧騒がある。
でも、自分の中だけは、ずっと静まり返っていた。
「……課長、少しよろしいでしょうか?」
彼が顔を上げ、私を見る。
その視線から目を逸らさずに、私は言った。
「“契約”……解除していただけますか?」
相馬課長の眉がわずかに動いた。
「……もう、ストーカーも来ませんし。」
そう言って、私は精一杯、笑って見せた。
「ありがとうございました。助けていただいて、本当に……感謝してます。」
課長の反応はなかった。
ただ、じっと私の顔を見つめていた。
その沈黙が、痛かった。
何かを期待している自分がいて、それを自分で否定した。
だから私は、ひとつだけ深く頭を下げて、その場を離れた。
……これでよかったんだ。
“ふり”は、終わらせなきゃいけなかった。
ほんとうの恋人じゃないなら、いつかきっと、もっと深く傷つく日が来てしまうから。
給湯室に行くと、掃除を担当している年配の女性がひとり、静かにモップを動かしていた。
「お疲れさまです。」と声をかけると、彼女は顔を上げて、私の名札を見つめた。
「……水原さんって言うのね。もしかして、お名前、瑠奈って言う?」
「はい、そうですけど……」
答えると、彼女はふふっと優しく笑った。
「あなたが、相馬課長の言ってた“瑠奈ちゃん”なのね。」
「……えっ?」
思わず固まった。
課長が……私のことを、話してた?
「彼ね、ずーっとあなたのこと想ってたのよ。会話は多くないけど、いつも名前が優しかったもの。」
一瞬、呼吸が止まった気がした。
「この前も、“瑠奈ちゃん、無事だった”ってほっとしてたのよ。……泊まったって聞いて、ああ、やっと報われたのねって思ったの」
胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。
「……課長が、私の話を……?」
「うん。あの人、不器用だけど、あったかいのよ。言葉に出せないだけでね。」
それだけ言って、彼女は再びモップを動かし始めた。
私の中で、何かが溶けていくのがわかった。
ずっと不安だった。
遊びだったらどうしようって、ひとりで苦しんでた。
でも──
もしかしたら、課長はずっと、
最初から、ちゃんと私を見てくれていたのかもしれない。
掃除の人の言葉を聞いたあと、私は急いで課長のもとへ向かった。
でも、デスクにはもう彼の姿はなかった。
「相馬課長なら、さっき帰られましたよ。」
そう聞いた瞬間、私は駆け出していた。
会社の駐車場へと向かう。
胸の中の言葉が、どうしても今日、伝えたかった。
──もう、ふりなんてしたくない。
走り込んだ先に、ちょうどエンジンをかけようとしていた課長の車があった。
「どうした? 水原。」
車の窓が開いて、彼が少し驚いた顔で言った。
「……お話があります。」
私は小さく息を切らしながらそう告げる。
「乗っていいですか?」
「……ああ。」
助手席に乗り込むと、彼もゆっくりと運転席に戻ってくる。
その静かな車内で、私は震える声を押し出した。
「相馬課長……私のこと、好きですよね?」
一瞬の沈黙。
課長は、ほんの少し目を見開いたまま、きょとんとしていた。
沈黙が怖くて、私は思わず叫んだ。
「……お願いです、何か言ってください。私、もう……泣きそうなんです……」
すると。
「……クククッ。」
静かに、課長が笑った。
「知られてしまったか。」
その笑いは、優しくて、照れていて──
まるで少年みたいだった。
「……最初から、振りなんかじゃなかった。」
相馬課長の手が、そっと私の頬に触れる。
その手のひらの温もりが、何よりの答えだった。
「契約なんて、ただの口実だ。俺は、君が……瑠奈が、好きだ。」
静かに、まっすぐに言い切る声。
その言葉に、胸が熱くなった。
あなたにおすすめの小説
婚約解消されたら隣にいた男に攫われて、強請るまで抱かれたんですけど?〜暴君の暴君が暴君過ぎた話〜
紬あおい
恋愛
婚約解消された瞬間「俺が貰う」と連れ去られ、もっとしてと強請るまで抱き潰されたお話。
連れ去った強引な男は、実は一途で高貴な人だった。
年下夫の嘘と執着
紬あおい
恋愛
夫が十二歳の時に白い結婚をした。
それから五年、家族として穏やかに暮らしてきたが、夫に起こったある事件で、一人の男性としての夫への愛を自覚し、妻は家を出る。
妻に捨てられたと悲観した夫は毒薬を飲み、この世を去ろうとした。
【4話完結】 君を愛することはないと、こっちから言ってみた
紬あおい
恋愛
皇女にべったりな護衛騎士の夫。
流行りの「君を愛することはない」と先に言ってやった。
ザマアミロ!はあ、スッキリした。
と思っていたら、夫が溺愛されたがってる…何で!?
届かぬ温もり
HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった·····
◆◇◆◇◆◇◆
読んでくださり感謝いたします。
すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。
ゆっくり更新していきます。
誤字脱字も見つけ次第直していきます。
よろしくお願いします。
コワモテ軍人な旦那様は彼女にゾッコンなのです~新婚若奥様はいきなり大ピンチ~
3月5日コミカライズ配信♡二階堂まや
恋愛
政治家の令嬢イリーナは社交界の《白薔薇》と称される程の美貌を持ち、不自由無く華やかな生活を送っていた。
彼女は王立陸軍大尉ディートハルトに一目惚れするものの、国内で政治家と軍人は長年対立していた。加えて軍人は質実剛健を良しとしており、彼女の趣味嗜好とはまるで正反対であった。
そのためイリーナは華やかな生活を手放すことを決め、ディートハルトと無事に夫婦として結ばれる。
幸せな結婚生活を謳歌していたものの、ある日彼女は兄と弟から夜会に参加して欲しいと頼まれる。
そして夜会終了後、ディートハルトに華美な装いをしているところを見られてしまって……?
【完結】 契約が終わったら静かにお引き取りくださいと言ったのはあなたなのに執着しないでください
紬あおい
恋愛
「あなたとは二年間の契約婚です。満了の際は静かにお引き取りください。」
そう言ったのはあなたです。
お言葉通り、今日私はここを出て行きます。
なのに、どうして離してくれないのですか!?
すったもんだアリアリのクライスとファニア。
見守る義両親、騎士、山羊。
くすっと笑えるお話の…筈…?
山羊のポトちゃんが活躍する場面もお楽しみいただけますと幸いです。