全部、俺のものになるまで 【R18】【完結】

日下奈緒

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【2】恋人のふりは、ベッドの上で破られる

そんな時だった。

隣の給湯室から、女子社員たちの声が聞こえてきた。

「ねえ、相馬課長って、結婚してるのかな?」

「してないって。独身らしいよ。素敵よね~、あの落ち着いた感じ。」

そうか……やっぱり誰でも一度は考えるよね。

あれだけ仕事ができて、容姿も整ってて、冷静で頼れる人。

私だって、惹かれて当然だもの。

「でもさ、お持ち帰りしてるって噂、聞いたことある。」

「……えっ、そうなの? 彼女いるんだ?」

「うーん、それがね。いないっぽいんだよね。」

「だから遊びなのかなって。……そういう人、いるじゃん?」

その言葉で、手が止まった。

──遊び?

課長が?

私を“彼女のふり”として抱いた夜のことが、ふいに脳裏をよぎる。

あれはただの気まぐれ?

私も……噂の“お持ち帰り”の一人なの?

指先が震えて、紙をめくる手がかすかに滲んで見えた。

ふり。

遊び人。

つながったような気がして、胸がチクリと痛んだ。

──聞けばよかった。

あの夜、どういう気持ちで抱いたのか。

でも、今さら聞けるわけない。

私はただの“契約恋人”。

それ以上でも、それ以下でもない……はずだった。

翌朝、私は相馬課長のもとへ足を運んだ。

周囲には同僚がいて、いつものオフィスの喧騒がある。

でも、自分の中だけは、ずっと静まり返っていた。

「……課長、少しよろしいでしょうか?」

彼が顔を上げ、私を見る。

その視線から目を逸らさずに、私は言った。

「“契約”……解除していただけますか?」

相馬課長の眉がわずかに動いた。

「……もう、ストーカーも来ませんし。」

そう言って、私は精一杯、笑って見せた。

「ありがとうございました。助けていただいて、本当に……感謝してます。」

課長の反応はなかった。

ただ、じっと私の顔を見つめていた。

その沈黙が、痛かった。

何かを期待している自分がいて、それを自分で否定した。

だから私は、ひとつだけ深く頭を下げて、その場を離れた。

……これでよかったんだ。

“ふり”は、終わらせなきゃいけなかった。

ほんとうの恋人じゃないなら、いつかきっと、もっと深く傷つく日が来てしまうから。

給湯室に行くと、掃除を担当している年配の女性がひとり、静かにモップを動かしていた。

「お疲れさまです。」と声をかけると、彼女は顔を上げて、私の名札を見つめた。

「……水原さんって言うのね。もしかして、お名前、瑠奈って言う?」

「はい、そうですけど……」

答えると、彼女はふふっと優しく笑った。

「あなたが、相馬課長の言ってた“瑠奈ちゃん”なのね。」

「……えっ?」

思わず固まった。

課長が……私のことを、話してた?

「彼ね、ずーっとあなたのこと想ってたのよ。会話は多くないけど、いつも名前が優しかったもの。」

一瞬、呼吸が止まった気がした。

「この前も、“瑠奈ちゃん、無事だった”ってほっとしてたのよ。……泊まったって聞いて、ああ、やっと報われたのねって思ったの」

胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。

「……課長が、私の話を……?」

「うん。あの人、不器用だけど、あったかいのよ。言葉に出せないだけでね。」

それだけ言って、彼女は再びモップを動かし始めた。

私の中で、何かが溶けていくのがわかった。

ずっと不安だった。

遊びだったらどうしようって、ひとりで苦しんでた。

でも──

もしかしたら、課長はずっと、

最初から、ちゃんと私を見てくれていたのかもしれない。

掃除の人の言葉を聞いたあと、私は急いで課長のもとへ向かった。

でも、デスクにはもう彼の姿はなかった。

「相馬課長なら、さっき帰られましたよ。」

そう聞いた瞬間、私は駆け出していた。

会社の駐車場へと向かう。

胸の中の言葉が、どうしても今日、伝えたかった。

──もう、ふりなんてしたくない。

走り込んだ先に、ちょうどエンジンをかけようとしていた課長の車があった。

「どうした? 水原。」

車の窓が開いて、彼が少し驚いた顔で言った。

「……お話があります。」

私は小さく息を切らしながらそう告げる。

「乗っていいですか?」

「……ああ。」

助手席に乗り込むと、彼もゆっくりと運転席に戻ってくる。

その静かな車内で、私は震える声を押し出した。

「相馬課長……私のこと、好きですよね?」

一瞬の沈黙。

課長は、ほんの少し目を見開いたまま、きょとんとしていた。

沈黙が怖くて、私は思わず叫んだ。

「……お願いです、何か言ってください。私、もう……泣きそうなんです……」

すると。

「……クククッ。」

静かに、課長が笑った。

「知られてしまったか。」

その笑いは、優しくて、照れていて──

まるで少年みたいだった。

「……最初から、振りなんかじゃなかった。」

相馬課長の手が、そっと私の頬に触れる。

その手のひらの温もりが、何よりの答えだった。

「契約なんて、ただの口実だ。俺は、君が……瑠奈が、好きだ。」

静かに、まっすぐに言い切る声。

その言葉に、胸が熱くなった。

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