金懐花を竜に

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第2章

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 リリューシェに乗ってしばらく飛び、来訪者用の竜舎に彼女を預け、手配された駆竜車に乗り込む。
 北部最大の領地をもつレリアン公爵の第二邸宅は、おそらく演習場を合わせた北部基地よりもでかくて、そのなかでもひと際小高い場所に建てられた竜鳴館は、大渓谷に沈んでいく夕日に照らされ、遠くから見るとそれ自体が大きな金懐花みたいにきらきらしている。
「なんで来たんだよ」
 向かい合って竜車に揺られながら、ジーグエは小声で訊いた。ミスミは窓の外に視線を向けたまま、「呼ばれたからですけど」とそっけない。
「だからってのこのこ来るか? 白爺に代わってもらってまで」
 ミスミが出張や休みのとき、代わりに来てくれる近所の竜医の白爺(本名は誰も知らない)は、それなりに頼りにはなるが、なにせ怠け者なのが困る。よっぽどじゃない限りは竜医務室から出てこないし、「診て欲しかったら連れてこい」と追い払われる始末だ。本人曰く「あんまり優秀だとミスミの立つ瀬がなくなってしまうから、自重している」とのことだけど、割のいい臨時の食い扶持、程度にしか思ってないのはばればれだった。
「断ったら角が立つでしょう。基地長も困るでしょうし」
 ようやく目をこちらに向けて、ミスミは何か問題でも? というように首を傾げた。わかってないわけないだろうに。鼻を鳴らして腕を組む。がたがたとゆれる振動に合わせて、ミスミの胸に飾られた徽章がちかちか光った。多少でもこれが魔除けになればいいがな、と眉根を寄せる。
 団長直々にミスミを呼んだのは、印象づけるためだろう。『自分だって、雲を疎外しているわけじゃない』という紋所。貴族だっていろいろだ。人は結局正義と善を好むから、厳しさより優しさを見せたほうがいい場面だってたくさんある。
 たとえば、次期王を選ぶ貴族がわんさか集まる舞踏会とか。
 振動が止まり、竜車から降りる。深緑の毛織物の上を歩いて会場に入ると、そこは星々をかき集めてばらまいたような場所だった。高い天井からつららを束ねたようなシャンデリアがいくつもつり下がり、その下で着飾った人々が穏やかに談笑している。どこからか弦楽器の演奏が聞こえてきて、ほろ甘い酒精と混じりたゆたっている。
 ぐっと唾をのみ込み、意識して姿勢を正す。ひとまずはあいさつ回りだ。目ぼしい人物を見つけると、ジーグエは手当たり次第に声を掛けていった。もちろん女性と踊りたくないわけじゃないけれど、一度捕まったが最後、あいさつどころじゃなくなるのは目に見えている。
 北部基地に良質な藁を提供してくれている地方の領主、少し前に水害に見舞われた土地の豪農、質の良い弩弓職人を輩出する工房の責任者と、その後継者。知っている顔、知らない顔、知っておきたい顔、知らなければならない顔。そのひとつひとつを頭に叩き込み、相手に合わせた話題を引っ張り出しては手をにぎる。指紋が擦り切れそうなほど握手を交わして、ようやくひと通りのあいさつが終わったころには、すっかりミスミとはぐれてしまっていた。
 まあ、初心者とはいえいい大人だしと思いつつ視線を巡らせると、いた。壁際の柱のとなりに、黒い頭がのぞいている。本当に目立つな、と少しだけ感動した。よく乾燥した藁の間から顔をだすあの竜の子みたいだ。
 そのたったひとりの黒髪はいま、三人の紳士と談笑しているようだった。見るに、まだ年若い青年たちだ。おおかた代替わりを見据えて人脈作りに着ている地方貴族の嫡男だろう。その一人が手袋をはめた指先で、肩の前に垂らされた黒髪を摘まむ。まるで猫の毛を拾い上げるような仕草は当然、この場所にも彼への態度としてもふさわしくない。
 ここでもか。
 予想していたとはいえ、あまりに稚拙な行動に呆れかえる。もう何度も繰り返したように割って入ろうとしたとき、くすっと薄紙をつぶすような音に足を止めた。ささやかで上品な笑い声。見れば少なくない人数の「貴族」が、さりげなく彼らを観察している。
 ああ、あれは見世物なのだ。
 不変と継続に倦んだこの会場にいる誰もが楽しめる娯楽。いま、声を掛ければ、自分もその一部になるのだろう。果たしてそれは、『ジーグエ』として正解か?
「ミスミ」
 ためらったその一瞬、ジーグエの傍を涼やかな声がすり抜けた。
 瞬間、全員が凍り付く。
「ハルレイヒア王子」
 ひとりだけ、まるで旧友に会ったかのような気軽さでまばたきをしたミスミは、ご無沙汰しておりますと優雅に腰を折った。うん、と頷く整った横顔。見事な純金の髪に、眠たそうな目。この建物と同じくらい高価なんじゃないかというほどに宝石のちりばめられた礼服は抜けるような白さで、何よりも雄弁にその身分の高さを顕示していた。
 ハルレイヒア王子。現国王の血を引く唯一の王子であり、竜を溺愛する変わり者。そして、この舞踏会の発起人である王妹フチに、王宮を追放された悲劇の子。
 なぜここに。
 王子がちらりと視線を向けると、群がっていた若者たちはふっと息を吹きかけられたおが屑みたいに散っていった。その無様な後ろ姿には目もくれず、ミスミは楽しそうに王子と談笑している。どうやら面識があったらしい。この国の最高位貴族と、単なるいち竜医が?
 竜の話でもしているのか、ミスミはめずらしく頬を紅潮させて早口で何かをしゃべっている。王子の表情はあまり変わらなかったけれど、気品が匂い立つかんばせに、うっすら笑みを乗せているのが遠目にもよくわかった。いつの間にか皆踊りをやめ、ちらちらと二人を見ている。そのすべての視線を叩き落したくなって、ジーグエはつよく頭を振った。
「これはめずらしいこと」
 上品な声が近くから聞こえて振り向く。この舞踏会の女主人、レリアン公爵夫人が女性を伴って立っていた。優美な扇を口元に当て、「ハルレイヒア王子に、このような粗会にお越しいただけるなんて」とうそぶく。
「この度はお招きいただき、ありがとうございます。飛竜隊北部基地長ニーニエに代わりまして、心より御礼申し上げます」
「いやだわ、そんなに固くならないで。私たちの土地を守ってくれる飛竜隊員の皆さまには、本当に感謝しているのよ」
「身に余るお言葉です」
 腰を折って頭を下げると、彼女は鷹揚に笑った。そしてとなりに立った女性――フチに視線を向ける。
「フチ殿下にもお目にかかれましたこと、光栄です」
「王子も出席していて驚いたでしょう。きょうは、日ごろ各領地を治め、我々王政府にお力添えいただいている皆さまへの感謝の気持ちを表す会ですから」
 フチはあくまで冷静だった。チリチリとした視線を感じる。無理もない。次代の最高権力者候補が揃うことなどほとんどない。お互いがお互いにどう出るか。まるで闘竜でも見るような異様な興奮がじわりと立ち昇るのを感じる。
「私も、久しぶりに北部の皆さまとお会いできて嬉しいわ。そうだ、お二人とも一曲、踊ってきてはいかが?」
 公爵夫人は、まるで気づいていないかのようにふんわりと両手を合わせた。かけっこを提案するような無邪気さに舌を巻く。彼女はあえて、そうしているのだ。何度修羅場を乗り切ってきたのか、想像もつかない。
 女主人に取り計らわれて、断るという選択肢はなかった。「私でよろしければ」と腕を差し伸べると、深緑の長手袋に包まれた指がそっと添えられる。
 蝶の羽のように光によって色を変えるパンツドレスは、草原のなかですっくと立つ若木のような彼女によく似合っていた。少し釣り上がった目元は変わらないものの、軍服を脱いだ彼女は硬い皮を剥いだ白木のようにみずみずしくてドキリとする。
 手をにぎり、腰を抱いて、旋律に合わせ踊り出す。右に、左に、手を離して、また身を寄せて。その繰り返しの最中に、フチは「まさか、あなたが来てくれるなんて」とささやいた。
「あなたからのお誘いを、逃すわけがありません」
 光と音が回転し、ない交ぜになっていく。同じように耳元に口を寄せれば、まるで火を流しこんだみたいに色づいた。じくりと胸が痛むのを悟られないよう、口元に力を入れて笑みを保つ。
 こんなこと、もう何度もやってきた。ないものをあるように、青を赤く見せるように。なのに、いまさら口のなかが苦いのはなぜだろう。
 もっと甘い言葉を。おぼれるような眼差しを。彼女を射止めれば、ウォーグはますます盤石になる。わかっている。わかっていた。なのに身体は勝手に動き、くるくる回る外界へ、助けを求めるように視線を向ける。
 誰もがこちらを見ていた。うつくしい女性。たくましい男性。微笑ましい笑顔。妬ましそうな視線。その中でたったふたり背を向けていた黒色が、ふとこちらを向いた。
「あっ」
 右足の甲に鈍い痛みが走る。フチの足が絡まったようだ。申し訳ないと首をすくめる彼女の手を励ますように強く握り、へその下に力を入れて踊りを再開する。
 庭園みたいにうつくしく結い上げられた金髪、その後れ毛からのぞく細いうなじ。形の良い耳たぶに、いまや果実のように色づいたやわらかそうな頬。一つ一つ指さして確認するように、必死で見つめた。腕の中の女性を。
 ほんの一瞬、交わっただけの黒い瞳は、長い尾で打たれたときみたいにじんじんと熱を持ってまだ消えない。

 曲が終わり、次のあいさつへ向かうフチを見送って、ジーグエはさっさと外に避難した。
 建物をはさんで、入り口と反対側に作られた庭園は、館を二つ並べてなお余りあるほど広い。一流の料理人が慎重に盛り付けた料理のように、うつくしく配置された数千もの草花は、いつでも何かが咲くように綿密に管理されている。奥へと延びる庭園のその中央は広く開けていて、花の盛りには簡易の舞台が立てられ、領民を招いて宴を催しているらしい。
 階段を下りながら庭園へと向かう途中、先客に気づいた。生け垣の前で若木のようにしずかに寄り添うのは、王子とミスミだ。どうやら王子はもう帰るようで、従者がいらいらとせかすのもまるで気にせず、ミスミの耳元に口を寄せて何ごとかを告げる。驚くでも畏まるでもなく、ごく自然にそれを受け入れたミスミは、口元に手をあてくすくすと笑った。
 夜風に裾がはためく。雲が押し流され月が明るくなり、世界が青白く浮かび上がる。不敬だとわかりつつ、ジーグエは二人から目を逸らせなかった。
 どれくらいそうしていただろう。やがて王子は従者と兵に連れられて行き、ミスミはその背中を見送ったあと、庭園に足を向けた。背の高い生け垣の間に消えていく姿を、まるで光に吸い寄せられる虫みたいに追いかける。
 深酒したときに見る夢のようだ。迷路のように張り巡らされた草花の壁で、黒い背中をあっという間に見失う。また風が強く吹き、細かな水が吹き上がるような音に囚われる。ちぎれた葉や花弁が空に消え、月は冴え冴えと形を変えない。
「なにしてるんですか」
 ぽん、と肩に手を置かれ、ジーグエは思わず飛び上がった。ミスミがにこにこ笑って後ろに立っていた。
「な、んだよ。驚かすな」
「誰かついてくるなあと思ったら、あなたなんですもん。ちょっとしたいたずらです」
 もうあいさつ回りはいいんですか? とミスミは歩きながら訊ねた。
「基地長に怒られない程度には済ませた。これで文句いうなら、次は自分で行けって話だ」
「そうですか。」
「そっちこそ、ハルレイヒア王子とどこで知り合ったんだ?」
 ミスミは視線を左右に動かし、咲いている花の香りを嗅いだり、とがった葉の先端をつついたりしている。こいつ、竜以外も興味あったんだな。はじめて外に連れ出した子犬みたいな様子に、つい見入ってしまう。
「年に一度まとめている竜医の診療報告書をご覧になって、お声がけいただいたんですよ。光栄なことです」
「そんなにすごい報告書出してたのか」
「そんなことは……まあ、気づくと他の方の二倍の項数になっているんですけど」
 様式は守ってるんですけどねえ、と不思議そうだ。
「それから何度か手紙のやりとりをさせていただきました。さすがにこうやって直接お会いすることは、そうなかったんですが」
「ふうん」
 王子が竜のことしか興味をもたないというのは、どうやら本当らしい。だからといって一介の竜医と個人的なやりとりをするというのは立場的にまずありえないことだが、あの王子ならやりかねないのが恐ろしい所だ。
「あなたこそ、かわいいご令嬢たちと踊ってこなくていいんです?」
 花から手をはなし、ミスミが訊ねた。少し硬い声だった。
「さっきのダンス、さまになってましたよ」
 月の影になって、表情はわからなかった。その言葉は確かに嫌味だったのに、不思議とジーグエの心をやわらかくほぐした。肩をすくめて「つき合いで仕方ないとき以外は断ってる。ひとりでも受けると、キリないからな」と答える。今度はミスミが「ふうん」と言った。
「あなた本当に、何でもできるんですね」
「踊りくらい習うだろ」
「習いませんよ。少なくとも、基礎学校じゃあね」
「なんだよ。惚れたか?」
「少しね」
 庭園の真ん中に出る。市場の中心にある交差点くらい開けた場所で、ミスミは両手を広げくるりと回った。重たい礼服の裾が、もったりと円を描く。
「踊ってやろうか」
 気づけばそんなことを言っていた。服はゆっくりと動きを止め、驚いた顔がこちらを向く。ジーグエは、まるで淑女をエスコートするときのように、片手を腰の後ろにまわして、もう一方の手を差し出した。ミスミはしばらくその手を見つめていたが、やがてそっと同じように手を差し伸べた。
 二つの手が重なる瞬間。
 甲高い笛の音が闇夜を引き裂いた。はっと顔をあげる。聞きなれた音――飛竜隊が用いる警告音だ。短い音が三回、長い音が一回――飛竜が、一頭、近づいている。
 雲を被った月がぽかりと浮かぶだけの空は、かなり視界が制限される。とにかく松明と、それから屋内への非難誘導をはじめようとしたとき、強風と共に飛竜が目の前をかすめていく。
(――ワーゴ?)
 ちらっと見えた羽の形は、よく隣で見る竜のものだった。カラリナの竜だ。
「龍が来る! 建物のなかへ!」
 声を張り上げ、ミスミにも協力してもらいながら、庭園から人々を避難させる。空を見上げると、黒い羽ばたきがふらふらゆれてた。それはみるみる大きくなって、竜鳴館の屋根をかすり、羽ばたきで窓にヒビを入れ、そうして、庭園中央の広場にずどんと音を立てながら墜落した。
「敵襲!」
 誰かが声を張り上げ、館の周辺に配備されていた兵たちが武器を手に取り駆けていく。落ちた竜は傷を負っているのか、地に横たわったまま動かない。リリを呼ぶか、加勢したほうがいいか迷って様子をうかがっていると、半円を描くように囲まれた竜の背から人影が二つ降りてくる。ひとりはどこかで見たような男、もうひとりは――。
「……エル?」
 ひらり、と低空飛行したワーゴの背からカラリナが舞うように降りた。取り囲む矢じりを物ともせず押し抜けて、輪の真ん中で足を止める。くちびるを真っ白にして立ち尽くすエルリナは、ぶるぶる震えながらも「母さん」と小さくつぶやいた。目に見えない戸惑いが兵の間に広がる。
(まずい)
「あんた、自分が何してるかわかってんの」
 地を這うようなカラリナの声にびくりと少女の肩が震える。同乗していた男も、紙のような顔色で立ち尽くしていた。その様子で思い出す。宿屋でエルを勧誘していたひとりだ。
「ちがうの、母さん、あたしは」
「こんなところに竜を飛ばして、何がちがうって言うの!」
 その悲鳴のような怒声を聞いた瞬間、エルリナの顔にぱっと亀裂が走ったように見えた。落ち着けよ、とカラリナを止めようとしたその時。
 耳を塞ぎたくなるような叫び声が爆発した。竜の咆哮。近くの――そう、目の前の落ちてきた竜の、苦悶の声。
 そう言えば、こいつはなぜ墜落したんだ?
「様子がおかしいの!」
 エルリナが叫んだ。駆け寄ったカラリナがその肩をつかむも、彼女の興奮は収まらない。
「飛ぶ前からずっとそわそわしてて、食欲もなくって、けど無理やり飛ばせて、やっぱり途中でふらつき出して、こんなとこ、来るつもりじゃなかったのに」
「どうしました」
 はっと顔をあげる。肩で息をするミスミの目が三人の顔を見て、それから横たわる竜を捕らえた。
「避難は完了しています。状況を教えてください」
 どこから持ってきたのか、ミスミはいつの間にか携帯用の鞄を携えていて、中から聴音器を引っ張り出している。
 エルがつっかえつっかえ経緯を話している間も、ミスミは手を止めなかった。横倒しになった竜の腹のわきにしゃがみこみ、円錐の底を上下する腹に当てて、じっと耳を澄ませながら、ときおりノックするように腹を叩いてはまたうつむく。
 ワーゴが睨みを利かせているせいか、よっぽど具合が悪いのか、倒れた竜はピクリとも動かなかった。荒い息を吐き、ときおり苦しむように呻いて弱々しく足をばたつかせる。
「――胃捻転かもしれません」
 聴音器を外し、立ち上がったミスミは険しい顔で診断を下した。エルリナは涙を溜めた瞳でミスミを見上げる。
「ねんてん?」
「腹のなかで胃がねじれてしまうことです。ちょうど、雑巾を絞ったみたいに。最近、飼料を変えたり、食べ過ぎたあとに激しい運動をしたりは?」
「飼料――ご飯は変えてないです。貸し竜屋で食べているものと同じはず」
「では、狩りをさせたことは?」
 はっとエルリナが身体をこわばらせる。
「普段食べない物が胃のなかで大きく膨らんでしまったり、あるいは食べ過ぎて胃が膨らんだときに激しい飛行を行うと、胃が腹のなかで回転してねじれてしまうんです」
「どうすればいいんですか?」
「ねじれたものを元に戻してあげればいい」
 ミスミは手を上げて、「誰か牽引するロープを四本持ってきてください」と取り囲む兵たちに頼んだ。ぐるりと囲んだ兵帽の下で、とまどうような視線が交わされるも、誰も動かない。先に焦れたのはジーグエで、一番近くに突っ立ってる兵の肩をつかむと「もってこい」と命じた。電流でも流されたかのように飛び上がったそいつは、確か第二部隊の末端だった。あとで苦情が来るんだろうがどうでもいい。
 ミスミは鞄から小瓶を取り出し、脱いだ上着に全部をぶちまけ、その上着で竜の鼻先をふんわりと覆った。
「鎮静が効いてきたら、この子を転がします」
「は? 転がす?」
「ねじれた方向と逆に身体を回転させて、元の位置に戻すんです」
「そんなことできるのか?」
 ミスミは振り返り、「成功率はあまり高くありませんが」と頷く。
「もちろん腹を開いて治したほうが早いです。が、この子は……」
「ああ、隊竜じゃないからか」
 薬も、医療道具も、タダじゃない。むしろ竜用のものは高価なうえに使う量も多く、飼料の次に金を食う。その金は、民の納めた血税だ。最小限の薬で眠らせているうちに、人の手でごろんと転がすだけでよくなるのなら、それが一番ありがたい。
 だけど、そんなにうまくいくのか?
 倒れた竜の呼吸が緩慢になったころにようやく、大人のふとももほどはあるロープが運ばれてきた。エルリナと男は拘束され、カラリナが身柄を押さえている。これ以上の襲撃なしと判断した兵たちは、竜を取り囲むとその四肢をロープで縛り、数人ずつで持つ。しっぽの先まで入れれば大人三人を並べてなお足りないほど大きな飛竜は、騎乗用としては一般的な大きさだが、ひとたび空から落ちるととんでもなくでかい。
「左前肢と後肢、ゆっくり挙上してください」
 ミスミの号令と共に、四肢に結わえられたロープを持つ兵たちがゆっくりと力を込め始める。
「肩と腰、押して!」
 せーの、という掛け声に合わせ、右半身を下に倒れていた身体があおむけになり、ゆっくり左に倒れるよう半回転していく。全体の指揮を執りながらも、その横顔は険しい。
 ジーグエは大股で近寄ると、ミスミの耳元に口を寄せた。
「治らなさそうか?」
 ハッと振り向いたミスミはくちびるを噛みしめる。せーの、とまた少し巨体が動き、それが何かの刺激になったのか、眠っているはずの竜が高く細く鳴いた。こんなでっかい身体をしておいて、子どもみたいな声で鳴くんだな、と思った。
 ジーグエは竜笛を吹いた。
 エルリナたちのもとに走り寄り、呆然と座り込んでいる彼女の肩を揺らす。
「あの竜を借りた店はどこだ」
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