金懐花を竜に

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第2章

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 リリューシェとともに庭園に戻ってきたときには、夜が明けようとしていた。赤く染まった地面に膝をつき、血を被りながら竜の傍らに座り込むミスミの横顔が、何本も立てられたかがり火に照らされている。
「手術、無事終わったみたいだよ」
 リリを労っていると、カラリナが近寄ってきた。その顔には、濃い疲労が浮かんでいる。
「貸主への連絡と手術器具の手配、ありがとね。おかげで早く開腹できて、ミスミ、嬉しそうだったよ」
「エルは?」
「先に基地に移送した。きょうは帰せないだろうね」
「結局、あいつらが落っこちてきた以外の異変はなかったのか」
「あったって」
「どこだ」
 声を尖らせる。貸し竜屋はここから南東の、山のふもとにあった。町はずれだったからだろうか、そんな話は耳にしなかった。被害があるのなら、向かわなければならない。
 カラリナは大きく息を吐き、気の抜けた風船のように笑った。そうして、手に持っていた籠から二輪の花を取り出す。
「あちこちの町で、空からね、これが降ってきたらしいよ。黄色と黒の」
 受け取る。金懐花ではない、そこらへんの野山に咲いていそうな素朴な花だ。親指の爪くらいの花弁が数枚、並んで開いた二輪の花は、長めに切った茎同士を麻ひもで結ばれている。
「なんかの祭があったのか?」
「ううん。あの子たちが降らせたんだって。自分たちで花を育てて、お金貯めて竜も借りて」
「なんのために」
「生きるために」
 話が見えなくて、ジーグエはとなりの同僚をまじまじ見る。土ぼこりで汚れた頬に、金の髪が数本、はりついている。
「生きるって、どういうことだよ」
「花はぜんぶ、二本で一束だったんだって。黄色の花と黒の花」
 それが何を意味するかなんて、子どもでもわかる。
「ここだけじゃないよ。中央でも、南でも、大きな街では同じことがあったみたい」
「……全土で?」
 背筋が冷たくなる。空を埋め尽くすほどの花。それも全土で。いったい、どれほどの人数が関わっているのだろう。
「目的は?」
「そんなもの、考えればわかるでしょう」
「給金よこせ、とか?」
 カラリナは首を振った。
「ちがうよ。もっと手前。『私たちはここにいる』そう伝えたかったんだって」
 そんないまさらのこと、と反論しようとして、できなかった。
 羊皮紙に落としたインクみたいに目立つ黒髪。フードを目深にかぶり、決して表情を見せない後ろ姿。自由に買い物ひとつできず、そんなことを「当然」として受け入れている街のどこに、彼らの居場所があるというのだろう。
 空から可憐な花が降った。それは美しく、笑顔こぼれる光景だろう。きれいだった。楽しかった。それでよいのか。それだけの花をいっぺんに用意するのは、どれだけの手間と人手が必要だろうか。たとえ飛竜に乗って花を撒いたのが数人でも、その背後に、一体どれだけの思いがあるのか。
「そんなことしようとしてたなんて、あたし、全然知らなかった」
 どこか自嘲を含んだ声で、カラリナは笑った。「ちがうな、知ろうともしなかった」
 ぱち、と火が爆ぜる。東の山の端がぼんやりと白く光り出し、その影となった庭園は、闇が濃くなる。
「信じられなかったの、さっき、あの子のこと」
 疑ってしまったの、と彼女はうつむいた。
「あの子が、彼らに情報を売ったんだって。それで一緒に、復讐に来たんだって、まずそう思っちゃって、そう思っちゃったことにもっと動揺した。情けないね。あんな大事に思ってたはずなのに」
 揺れる炎を反射して、カラリナの金髪が明滅する。彼女の、あるいは竜の足先や口元を押さえる兵の、またあるいは油断なく周囲を警戒する衛兵の、そのすべての視線の先で、ミスミは、竜の命を縫い留めようといまだ手を動かし続けていた。
 大股で十歩も歩けば手が届く距離。額に浮かぶ汗が見える距離。
 こんなにも近くにいるのに、横たわる断絶が、そのとき果てしなく広く、深く、思えた。
「すごいな」
 気づけば口に出していた。本当に、すごいと思った。こんな断絶をぴょいと越えて雲の男と一緒になり、その子どもも産んで、手放すことなく生きていこうとしている彼女が。自分にそんなことができるだろうか。立場に甘えて、関係の上澄みだけをすすっている自分にはきっと、永遠に向こう側の彼の深い部分など知ることはできない。そのことを突きつけられた気分だった。
「なによ、バカにしてんの?」
「違うって。本気で」
 どうだか、と目を眇めた彼女は、それでも何か思うところがあったのか、ジーグエの顔を見て表情を和らげた。
「あんたも、知りたい誰かがいるんだね」
 断定の形で言われ、必死に否定するのも大人げないように思えて「まあな」と答える。
 ふ、と周囲が明るくなった。山の端から日差しがぐんぐん広がってくる。朝だ。思いがけず寝顔を晒し合ってしまったような気まずさも、まあいいか、と思えるほど美しい朝日だった。
「それにしても、あんたがあの子のために動くなんて思わなかったよ」
「別にミスミのためじゃない」
 ただこの場所で竜が死んだら、基地長に何を言われるか。そう考えただけだ。
 カラリナはぱちくりと瞬きをし、首を傾げた。
「いや、あの子って、あの捻転起こした竜のことだったんだけど」
 紛らわしい。
 なんとかうまい切り替えしを考えている間に、丸太を転がすような音が近づいてくる。力自慢の隊員たちが荷台を引いて寄ってきて、竜をどこかへ運ぼうとしていた。処置が終わったらしい。彼らに二言三言指示を出し、血まみれの礼服のまま立ち上がった細い身体が、ふらっと傾ぐ。カラリナから自然に離れる絶好の機会だったので、ジーグエはいそいで駆け寄った。
「おい、大丈夫か?」
「……ジーグエ?」
 数拍遅れて聞こえてきた返事は弱々しい。「ああ、すみません。ずっと座って、処置をしていたので、立ちくらんだみたいです。もう治りましたから」とこの期に及んで強がることがなぜか癇に障って、ジーグエはその場に背を向けてしゃがみこむと、「乗れ」とあごをしゃくった。
「汚れますよ」
「どうせおまえの服も洗うんだろ。一枚くらい増えたってバレやしない」
 半ばひっぱりあげるようにして無理やり背中に誘導し、あらかじめ公爵夫人に手配してもらっていた洗い場へ急ぐ。
「貸し竜屋への連絡、ありがとうございました」
 背中で揺られながら、ミスミが言う。
「あのまま放置ってわけにもいかなかったからな」
 寝耳に水だったろう店主は、それでも即座に「治療をお願いします」と頭を下げた。客に貸している間の事故なので、商工会からそれなりに見舞金も出るようで、それを支払いのあてにするから、どうか助けてくれと。最悪、「治療費なんて支払えないから、谷に捨ててくれ」と言われることも覚悟していたジーグエは、情のある判断に胸をなで下ろした。
「いい店主さんでよかった」
 身体を転がすだけでは捻転を解除できず、その場で腹を切って用手で胃を整復したミスミの両手は、二の腕まで真っ赤に染まっていた。普通は、竜医やその見習いが数人がかりであたる手術だ。動きにくい礼服の袖をまくり上げて、夜が明けるまで水の一滴も飲まずひとりで作業していた彼の目は落ちくぼみ、明らかに水分が不足していた。
 館から少し離れた場所に、こじんまりとした離宮があった。遠くからの客の使用人たちを迎え入れるときに使っているというその離宮の浴室は石の壁で個室に別れていて、それぞれに小さな木の浴槽があり、川から引いた水と湧き出た温泉水を混ぜて溜めてある。その一室に入ると、ジーグエは湯あみ椅子にミスミを座らせた。
 気のまわる女主人は、湯浴み着から手ぬぐいから石鹸から、ひと通りのものを揃えていてくれた。まずは手を洗わせ、湯浴み着を渡して着替えるよう言い置き、その間に井戸から水を汲んで戻る。ミスミは着替えていたものの、座ったまま背を壁につけ、首が落ちんばかりにうなだれていたので焦った。
「おい、生きてるか?」
 肩に手を置き揺さぶる。すぐに目を覚ますも、深酒をしたように意識が覚束ない。
「水、飲めるか?」
 叩いても脅しても、ぐらぐらと頭を揺らして埒が明かない。深くため息をつくと、ジーグエは持ってきた水をぐいと口に含み、立ち上がって上からミスミに口づけた。
 舌先で乾燥した唇をこじあけ、少しずつ流しこむ。さすがに驚いたらしい彼がとっさに身を引こうとするのを押し留め、壁に押し付けるようにして無理やり水を飲ませた。
 くちびるのどこかに血がこびりついていたようで、鉄臭い味がする。気分のいいものではなかったけれど、ぐっと我慢して何度か繰り返し、すべての水を飲ませて身体を開放する。
 うまく呼吸ができなかったのか、ミスミは頬を染め、潤んだ目を伏せながら深く呼吸をした。まあ、そんな顔をされると、こっちも枯れてはいないので微妙な空気になるのだけれど、疲れ切った相手に無体をするほど青いわけでもない。目を逸らして気づかなかったふりをしながら、少しだけ、情もないのに身体を重ねたことを後悔する。
「ほら、身体、ぬぐえるか」
 服で隠れていた首から下はともかく、うでや目元、髪は血や砂ぼこりでひどい有様だ。手桶に湯を汲んで渡すと、頭からかぶろうとして慌てて止めた。
「豪快すぎるだろ」
「一刻も早く寝たいんですよ」
 む、と尖らせたくちびるは、先ほどの余韻で紅を引いたように赤い。
 もうもうと湯気がこもる密室にいるからいけない。雨季のような空気を深く吸って、ジーグエは精神を落ち着けた。こいつは病人みたいなもんだ。なら、それらしく扱わないと。
「手ぬぐい、貸せ」
 一番小さい清潔な布を手桶のなかの湯に浸し、やわらかく絞ってからガラス窓を拭くようにミスミの顔についた汚れを落としていった。ちょっとでも力を込めると「痛い」とくぐもった抗議を受けるので、軽く、優しく、丁寧に。大まかな汚れが取れたところで、今度は身体に湯を掛けていく。薄い湯浴み着が水を吸って、肢体にぴたりと張り付いていく。おもわず目を逸らした。
「風呂入れ。頭はこっち」
 転ばないよう腰を支えて、ゆっくりと肩まで浸からせる。こちら側に後頭部を向けるよう、浴槽の枠に背をつけて、頭を湯の外に出させた。十分のけ反った額から、こめかみ、耳の裏、うなじにかけて、ゆっくりと湯を流していく。心地よかったのか、ミスミの胸が深く上下した。生え際を親指で揉むようにしながら湯を通し、汚れを落としていく。
 俺は何をやってるんだ。指で丁寧に髪を梳きながら、自問する。
 仕事とはいえ雲民であるミスミに近づいて、深入りしないつもりがリリとの関係を救ってもらって、過去について訊ねたりして、寝台ではないところで優しく触れて。
 これでは、まるで。
「……ジーク、あの、もう十分です」
 戸惑うような声に我に返った。湯につかって少し意識がはっきりしたのか、幾分マシになった顔色のミスミが肩越しに眉を下げている。
「ご迷惑をおかけしました。だいぶ起きてきたので、もうひとりで大丈夫です」
「あ、ああ」
 最後に滴る髪をまとめて軽く絞ると、赤くなったうなじが現れる。急にここに居ることへの違和感が膨らみ、まるで女湯に入ってしまったかのように焦る。
「溺れんなよ」
 最後にひと言、そう告げようとして、振り返ったのがいけなかった。湯のなかできゅうくつそうに身体を縮めるミスミの、その、腹のあたりにある欲望の形。
 ジーグエの視線に気づいたのか、恥じ入るようにミスミは腰をひねった。何度枕を共にしても照れた顔ひとつ見せなかったというのに、こういうときは恥じるのか、と新鮮に思った。
「早く行ってください」
「おい、それ」
「気づいても言わないのが心遣いってやつです」
「いや、でも」
「緊張が解けて疲れが出た、ただの生理現象ですから」
 そのうちおさまります。丸めた背中を水滴が一粒、舐めるようなじれったさですべり落ちていった。ぐっと来なかったといえば、ウソになる。
 大股で湯殿に近づくと、ミスミの両脇に手をいれ持ち上げる。うわ、と上がる悲鳴を無視して、身体を半回転させこちらを向かせると、浴槽の縁に座らせる。
「なにを」
 脚の間にひざまずくと、声を上げかけた口を口で塞ぐ。顔を傾け口づけを深めると、それだけで後ろに倒れそうになるので、慌てて左手で後頭部を支えた。もちろん空いた右手で熱をさぐるのも忘れない。
 松明の火のように熱の集まった先端を包むと、鼻から声が漏れた。なだめるようにくるくると撫でてから、手全体で包み込んでさすると腰がゆれる。快楽に逆らえない、動物的な反応に暗い悦びがひたひた満ちるのを感じる。
 もっと、もっと見たい。こいつの知らない顔を、もっと。
 口づけをほどき、目の前の胸が大きく息を吸って膨らむ。
「ジーク、もう、いいですから」
「いいなら、そのまま受け取っとけ」
そういう意味じゃない、という文句を無視して視線を下げ、いまや滴るように赤い先端を、ジーグエはためらいなく咥えた。
「ああっ」
 刺し貫かれたみたいな悲鳴があがり、すぐに彼自身の手で口が覆われた。ほかの個室に人がいないのは確認済みだけど、いつ誰が様子を見にくるかわからない。賢い竜医は当然そのことに気づいているはずで、なのに根本まで咥え込んだミスミの欲望は、萎びるどころか脈を強くする。
 普段、澄ましていたって所詮、こいつも男なんだな。
 愉快になって視線だけ上げると、真っ赤な顔でこちらを睨む男と目が合った。見せつけるようにくちびるをすぼめ、舌をぴったりくっつけてから上下すると、殺しきれなかった喘ぎが漏れる。目の前の腹がせわしなくひくつき、ジーグエを挟む両腿が懇願するように痙攣する。
 こんなことくらい、と思う。
 こんなことくらい、素直に受け取ってしまえばいい。あるもので満足、みたいな顔をしていないで、気持ちいいものを、心地いいものを、欲しいものを、素直に、強欲に、高慢に、求めればいい。
 いつの間にかジーグエの頭にまわされた男の手が、髪をかき混ぜる。ひと際つよく吸い上げ、放たれた熱は、彼の身体を這う水滴と同じ速度でジーグエの身体に入っていった。
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