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トラウマ編

慣れた手つきで脱がせる 1

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「あの、桜井さ……」

「話しかけんな」


 ドアが閉まった途端、雛子から離れて壁にもたれかかる恭平。困惑の表情で声をかけた雛子を制し、口元に手をやりながら顔を背けてしまう。


「あの……ごめんなさい……」


 これは、確実に怒っている。そう思った雛子は、戸惑いながらも謝罪の言葉を口にした。


「……、んだよ」


「え……?」


 チン、と再び軽やかなベルの音を響かせ、エレベーターが一階への到着を知らせる。

 その途端、恭平はよろめきながら、しかし物凄いスピードでエレベーターから飛び出す。


「吐きそうなんだよ! 話はあとだ! あの蛇野郎ウォッカ入りの水なんか飲ませやがって……!」


 珍しく恨み言の捨て台詞を残し、彼はレストルームへと駆け込んでいった。

(蛇野郎……って、鷹峯先生?)

 一人取り残された雛子は、この状況が理解出来ずに呆然とロビーのソファに沈み込んでいた。


 何故、恭平は来てくれたのか。

 何故、攫うように強引に引き寄せたりしたのか。



『俺の女だから』



 それは感情の籠らない、冷たい声音であったはずなのに、思い出すと雛子の身体が熱くなるのは何故なのか。





「良かった、まだ帰っていなかったんだね」


 このままふかふかのソファに埋もれて消えそうになっていた雛子だが、その声に突如として意識を引き上げられた。

「塔山さんっ!」

 そこには、先程最上階で分かれたはずの塔山の姿があった。わざわざ追いかけてきてくれたのだろう。雛子の姿を見つけたことに、彼はほっとした様子を見せる。

「す、すみませんっ! あの、私にもよく状況が分からないのですがっ、えっと……とにかく、申し訳ありません……!」

 勢い良く立ち上がりそのまま深々と頭を下げる雛子。それに対し、やはり塔山は余裕のある笑みで顔を上げるよう告げた。

「いやいや、まさか雛子さんと彼がそんな関係だとは、気付かずにすまない」

「あ、いや……別にそんな関係なわけでは……」
 
 塔山の指摘に雛子が否定する。塔山はそんな雛子の様子に一瞬驚いた顔をしたあと、また少しだけ笑った。

「ああ、だろうね。彼は相当酔っていたようだから。『俺の女』は言葉のアヤかな?」
 
 そう言って塔山は雛子の後ろに視線を移す。そこにはげっそりとした顔で、しかし塔山をしっかりと睨み付ける恭平の姿があった。

「これはまた……酷い顔だね。決まらないなぁ、二枚目君」

「……女掻っ攫われてスカしてんじゃねぇぞ御曹司」

 その後暫く無言で見つめ合う二人。雛子はその様子をハラハラと見守る事しか出来ない。やがて塔山がふと表情を緩め、手にしていたルームキーを恭平に渡す。

「この鍵、君達に譲るよ」

 それだけ言うと、塔山は踵を返して片手をあげる。

「そんな、困ります!」

 慌てて追いかける雛子に塔山はにこりと笑って立ち止まると、雛子の目線まで屈んで頬に手を添える。

「ふふ、困った顔もとってもキュートだね。でもね、こんな聖なる夜にスイートルームをキャンセルされたんじゃホテル側も困るだろう。それにキャンセル料は部屋を取る三倍かかるんだ。僕を助けると思って今夜は泊まりなよ、ね?」

 まるで小さな子に語りかけるように頬に触れながら告げる塔山。その手を容赦なく振り払ったのは、他でもない恭平だ。

「ははは。雛子さんのナイトは余裕が無さそうだ。まぁ、貸一にしておくよ。すぐに返してもらうけどね。……メリークリスマス」

 「ええっ、あの、ちょっと……!?」

 戸惑う雛子に今度は構う事なく、塔山は颯爽とエントランスから新宿の街へと去っていった。

「どうしましょう、桜井さん……」

 雛子は困惑して恭平を見上げる。その顔は確かにかなり体調が悪そうで、とてもすぐには帰れそうにないのも事実だ。

「……雨宮、部屋行くぞ」

 ずっとエントランスの方を睨み付けていた恭平だが、やがてくるりと背を向けてエレベーターへと向かった。雛子も言われるがまま着いていき、やがて到着したエレベーターに乗り再び高層階へと急上昇する。



 ルームキーに書かれた番号を頼りに部屋へと辿り着くと、雛子は恐る恐る室内に足を踏み入れた。

 

「うわ……」




 目の前には広々とした室内が拡がっていた。
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