妻に不倫され間男にクビ宣告された俺、宝くじ10億円当たって防音タワマンでバ美肉VTuberデビューしたら人生爆逆転

小林一咲

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第1章 人生の転換期

第9話 判子と数字と、笑い声と

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 弁護士事務所の応接室には、淡いコーヒーの香りが漂っていた。聖士は湯呑みに手を伸ばしたものの、結局ほとんど口をつけられなかった。

 向かいに座るスーツの弁護士が、書類を一枚ずつ整えながら口を開く。

「結論から申し上げます。慰謝料ですが……“そこまで”は、取れません」

 淡々とした声。
 感情を抑えたプロの声音。

「……不倫の証拠は揃えていただきました。ホテルの出入り、メールの内容、時系列。こちらは十分です。ただ――」

 弁護士は視線を上げた。

「相手方の収入が多くない。ここが大きいです」

 静かに言葉が落ちてくる。

「慰謝料というのは“懲罰金”ではなく“損害に対する補償”です。そして、支払い能力の範囲が強く考慮されます」

 数字が書かれた紙が、こちらへ滑らせて差し出される。

 その額は、想像よりもずっと現実的で、ずっと軽かった。

「……これが、最大?」

「現実的な上限です。裁判になれば時間も費用もかかりますし、回収不能のリスクもある。任意でまとめる方が得策と言えるでしょう」

 聖士は小さく息を吐いた。

 怒りでも、失望でもない。
 ただ、「現実とはこういうものか」という感覚だけが残る。

 弁護士はさらに続けた。

「親権についてですが、お子さんは現在奥様と同居されていますね」

「……はい」

「年齢、生活環境、学校、生活基盤。総合的に判断すると、現時点では母親側の親権が認められる可能性が極めて高いです」

 わかっていた。
 頭では、ずっと前から理解していた。

 それでも、胸の奥の奥に、冷たい風が吹いた。

「ただし、面会交流権は当然あります。定期的な接触、連絡、成長を見守る権利は守られます」

 守られる、という言葉がやけに遠く感じた。

 静かな沈黙が落ちる。

 弁護士が書類を揃える音だけが部屋に響いた。

「ここに署名と押印をお願いします」

 ボールペンを持つ指先に力が入る。
 用紙の上に自分の名前を書く。
 長年名乗ってきたその文字が、今日だけは別人のもののように見えた。

 判子を押す。
 朱肉の色が妙に鮮やかだった。

「これで……離婚は成立です」

 言葉は簡単だ。
 現実は簡単ではない。

 しかし――その瞬間、聖士の肩から何かが静かに落ちた気がした。

 帰り道、空は薄い雲に覆われていた。
 冬でもないのに、冷たい風が頬を撫でる。

(終わったんだな)

 長かったわけではない。
 潔くもなかった。
 綺麗でもない。

 ただ、ひとつの物語が区切られた。

 ◇

 夜。
 配信を始める直前、聖士は深く息を吸い込んだ。

「……よし」

 ボタンを押す。
 画面が切り替わり、姫宮みことが微笑む。

「こんばんは。姫宮みことです。今日はね……ちょっと真面目な話をするよ」

 コメントが流れる。

〈どうした?〉
〈声のトーン違う〉
〈相談枠?〉

 聖士は軽く笑った。

「今日ね、離婚届出してきました。はい、バッチリ成立しました」

 一瞬、コメントが止まり――
 次の瞬間、爆発する。

〈え!?〉
〈マジで?〉
〈おつら……〉
〈よく言ってくれた〉

「慰謝料はね、思ったより取れませんでした。なんでかって?この世には“支払い能力”っていう現実があるんだって。ハイ現実、拍手」

 パチパチというSEが入る。
 コメント欄が一斉に草原になる。

〈現実は非情〉
〈拍手すなw〉
〈テンポ良く刺さる〉

「親権は向こう。まあ妥当だろうね。私は会う権利だけ持ってます。なんか、ゲームで言うと“DLCだけ買った人”みたいな感じ」

〈例えww〉
〈悲しいのに笑わせるな〉
〈言い方天才か〉

 聖士はほんの少しだけ、喉の奥を震わせた。

「でもね、不思議なことに、泣けなかったんだ。紙に名前書いて、判子押して、“はい成立です”って言われて……ああ、こうやって人は解放されるんだなって」

〈解放って言えたのすごい〉
〈強い〉
〈泣いても笑ってもいい〉

「だから今日の配信テーマはこれ」

 アバターが胸を張る。

「“離婚成立したVTuberが今夜も元気に笑います”」

 一拍置いて、聖士はわざと明るく言う。

「でも慰謝料はガチャ十連より軽いです!以上!」

〈やめろwww〉
〈笑っちゃいけないのに笑う〉
〈語彙の刃物〉

 コメントの勢いがとんでもない速度で流れ始めた。

 その右上で、数字が跳ね上がっていく。

 15000
 18000
 ――20000

 同時接続、二万人。

「……マジか」

 聖士は少しだけ言葉を失った。

 コメント欄は、一面の「おめでとう」と「草」と「大丈夫?」で埋め尽くされている。

「ありがとう。
 正直、今日は一人でいるのがちょっとだけ怖かったんだ。だから配信ボタン押した。……来てくれてありがとう」

 画面の向こうから、無数の視線がこちらに届くような気がした。

 聖士は静かに微笑む。

「じゃあ、離婚記念に歌でも歌おっか」

〈記念って言うなw〉
〈強すぎるメンタル〉
〈一生ついていく〉

 それは悲劇でも喜劇でもなく、
 ただ――前に進むための夜だった。

 そして彼の人生は、確実に「物語」になり始めていた。

 ◇◇◇

 同時接続二万人を超えた離婚回の配信から一夜。
 朝になってもスマホの通知は止まらなかった。振動音が机の上を小刻みに叩き、画面が光るたびに新着のメンションや引用、まとめ記事が積み上がっていく。

「またニュースかよ……」

 タイトルに自分の名前とチャンネル名が並んでいるのが目に入る。
〈どん底社畜VTuber、離婚を語る〉
〈“笑っていいのか泣くべきか”配信が大反響〉
 文章の端々には、俺の言葉が切り取られ、火に油を注ぐように拡散されていた。

 登録者数を確認すると、数字はぐんぐん跳ね上がっている。
 十二万七千……八千……そして、あっという間に十三万を突破していた。

「本当に、人生ってどこで転がるかわかんねえな……」

 嬉しさよりも、怖さに近い感情が胸の奥で静かに鳴る。
 あぐらをかいてはいけない――あの言葉を思い出し、深く息を吐いた。

 通知欄に、見覚えのある名前を見つけた。
 最初期から配信に来てくれていた、あの若いイラストレーターだ。

〈お疲れさまです。昨日の配信、見てました。
 無理だけはしないでくださいね。〉

 思わず口元が緩む。

「……ほんと、支えられてるのは俺のほうだよ」

 短く感謝の返信を打ち、スタンプを一つ添える。
 するとすぐ既読がつき、向こうからも少し照れたような顔文字が返ってきた。

 その直後、見慣れない差出人からメールが届く。件名には、大手新聞社の名前。
 本文には、取材依頼の丁寧な文章が並んでいた。

〈現在の活動と半生について、記事として紹介したいと思い、ご連絡した次第です。読者の共感を得られるテーマだと確信しております〉

 口の中がきゅっと乾く。

「俺の……人生を、記事に?」

 胸の奥で何かがざわついた。
 逃げたくなる気持ちと、踏み出したい気持ち。
 しばらく迷った末、取材そのものは前向きに検討する、と無難な返答を送る。

 夜が近づく。
 今日は、以前から告知していた――十万人登録記念の深夜配信の日だ。

 椅子に座り、スタジオライトを整え、マイクを手前に寄せる。
 OBSのプレビューに、見慣れた“待機画面”を出そうとして、指が止まった。

 そこに映っていたのは、見たことのないイラストだった。

「……え?」

 柔らかな光に包まれた姫宮みこと。
 配信開始を待つ視聴者へ手を振り、微笑んでいる――
 端に、小さく描かれたサイン。あの子の名前。

 思わず息をのんだ瞬間、DMが届く。

〈10万人、本当におめでとうございます。
 驚かせたくて、今日まで黙ってました〉

 胸の奥が熱くなる。

「……やられたなあ……」

 配信開始ボタンを押す。
 コメント欄が一瞬で光に満たされる。

「こんばんは、姫宮みことです――」

 開始五分で同時接続は三万人、
 二十分で四万人を超え、
 スパチャはまさに滝のように流れ続けた。

〈おめでとう!〉
〈泣くなよ!〉
〈ここまで来たな〉
〈最初から見てた勢、胸熱〉

 笑おうとした。冗談を言おうとした。
 なのに、声が震えて、言葉が出てこない。

 視界が滲む。
 頬を伝ったものが、マイクに落ちそうになる。

「……ありがとう。
 ほんとに……ありがとう……」

 コメントが一斉に優しく揺れる。
〈泣いていいんだ〉
〈ここが、あなたの居場所だよ〉

 深夜のスタジオに、静かで温かい熱が満ちていく。

 俺は初めて、配信の中で声を上げて泣いた。

 そしてその涙は、
 過去への悔しさでも、敗北でもなく――

 確かに今ここにある“第二の人生”を、
 やっと抱きしめられた証のように思えた。

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