彼らはニアズ・マリアーノ・マティアスを英雄だと思っている 〜悪役貴族に転生したが、なぜか誰も見捨ててくれない〜

小林一咲

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 ニアズ・マリアーノ・マティアスは、逃げ場を探していた。

 それも物理的な意味で。

「……おかしいだろ」

 屋敷の中庭を横切りながら、ニアズは小声で呟く。

 使用人たちの視線が、明らかに増えている。
 しかも、避けられていない。
 むしろ――微妙に敬意が混じっている。

(昨日まで、もっと雑だったよな……?)

 以前のニアズは、典型的な嫌われ役だった。命令は聞かれるが、好かれてはいない。距離は常に一定。必要以上に近づかれない。

 それが今はどうだ。

「おはようございます、ニアズ様」

「……おはよう」

 挨拶が丁寧だ。
 目線が真っ直ぐだ。
 気配が、妙に柔らかい。

(何もしてないぞ、俺)

 昨日の能力測定で、弱いことは完全に露呈したはずだ。

 普通なら、噂はこう回る。

 ――マティアス家の御曹司、やはり大したことはない。

 だが現実は違った。

(どうして“安心した”みたいな顔をされてるんだ……)

 ニアズは足を止め、木陰で深く息を吐いた。

「……このままだと、マズい」

 何がマズいかと言えば、逃げにくくなる。

 没落ルートを辿るためには、嫌われるのが一番だ。孤立して、見捨てられて、静かに消える。それが理想だ。

 なのに。

「ニアズ様!」

 背後から、元気な声。

 振り返る前から嫌な予感がした。

「少し、お時間よろしいでしょうか!」

 立っていたのは、若い騎士見習いの少年だった。年は十五、六。制服はまだ新しく、剣帯の位置も少しぎこちない。

 名前は、確か。

(……レオンだったか)

 ゲームでは序盤でニアズに軽くこき使われ、それでもなぜか忠誠を誓い続ける不思議枠。

 ニアズは内心で呻いた。

(来た……)

「……何だ?」

 できるだけ素っ気なく答える。

 レオンは一瞬緊張したようだったが、すぐに姿勢を正した。

「本日、訓練場での自主訓練について、ご相談がありまして!」

「自主訓練?」

「はい! ニアズ様のお考えをお聞きしたく……」

(俺の考え?)

 ニアズは、心の中で即答した。

(何も考えてない)

 だが、それをそのまま言うのは、なぜか躊躇われた。

 昨日からの流れが、頭をよぎる。

 弱いと認めたら、評価が上がった。
 逃げたいと言ったら、覚悟と受け取られた。

(……下手なこと言うと、また変な解釈される)

 ニアズは、慎重に言葉を選んだ。

「……無理はするな」

「!」

 レオンの目が、ぱっと輝いた。

「はい!」

(いや、今のどこが刺さったんだ)

「基礎を疎かにするな。焦る必要はない」

 完全に無難なことを言ったつもりだった。

 だが。

「……やはり」

 レオンは、感動したように呟いた。

「やはり、目先の成果より積み重ね、ですか……!」

(違う)

 ニアズは心の中で否定する。

(単に、面倒だから無理するなって言っただけだ)

 だがレオンは、すでに自分の中で解釈を終えていた。

「わかりました! ニアズ様の教え、胸に刻みます!」

「……教え?」

「はい!」

 レオンは深々と頭を下げる。

「ご多忙の中、ありがとうございます!」

 そう言って、勢いよく走り去っていった。

 残されたニアズは、その場に立ち尽くす。

「……何も教えてない」

 なのに、何かを教えたことになっている。

 ニアズは、額を押さえた。

(マズい……これは、マズい)

 その日の午後。

 ニアズは、屋敷の一室で書類を整理していた。正確には、整理している“ふり”だ。実際は、文字を眺めているだけ。

「……適当に過ごして、目立たず、静かに……」

 ぶつぶつと呟いていると、扉がノックされた。

「ニアズ様。お時間よろしいでしょうか」

 執事だ。

(断れ……断れ……)

「……何だ?」

「数名の若い者が、ぜひ一度お話を伺いたいと」

「断ってくれ」

「既に、廊下で待機しております」

(くそ)

 逃げ道を塞がれた。

 数分後。

 部屋に入ってきたのは、三人の若者だった。騎士見習い二名、文官志望一名。

 全員、緊張している。

「……何の用だ?」

 ニアズが言うと、三人は一斉に背筋を伸ばした。

「ニアズ様のお考えを、お聞きしたく!」

「将来の方針について、ご意見を!」

「マティアス家の在り方を……!」

(重い)

 ニアズは、心の中で悲鳴を上げた。

(俺、そんな役目じゃない)

 だが、ここで黙ると、また変な解釈をされる気がした。

 ニアズは、深く考えた末、こう言った。

「……俺は、強くない」

 三人が、息を呑む。

「だから、過度な期待はするな」

 沈黙。

 そして。

「……やはり」

 誰かが、感極まったように言った。

「ご自身を戒めて……」

「己を過信しない、その姿勢……!」

「本物だ……」

(何がだ)

 ニアズは、もう何も言えなくなった。

 その夜。

 自室に戻ったニアズは、ベッドに倒れ込んだ。

「……誰も、見捨ててくれない……」

 小さく呟く。

 本来なら、能力が低ければ距離を置かれるはずだ。

 だが現実は違う。

 弱さを認める → 覚悟
 逃げたい発言 → 器の大きさ
 無難な忠告 → 深遠な教え

(最悪だ……)

 窓の外を見る。

 夜空に、淡い光。

 雲の切れ間から、ほんの一瞬だけ、色が滲んだ。

 虹の、前兆。

「……来るなよ……」

 ニアズは、そう願った。

 だが世界は、彼の願いを聞かない。

 翌日から。

 ニアズ・マリアーノ・マティアスの周囲には、人が集まり始める。

 彼が望まない形で。

◇◆◇◆

 ニアズ・マリアーノ・マティアスが気づいたときには、すでに手遅れだった。

「……なんで、人が増えてる?」

 屋敷の廊下を歩きながら、ニアズは明確な違和感を覚えていた。

 人の“気配”が多い。

 しかも、ただ行き交っているだけではない。明らかにこちらを意識している。視線が合えば、軽く会釈される。急に姿勢を正される。

(昨日まで、ここまでじゃなかったよな……)

 昨夜、ニアズは確かに「終わった」と思った。
 だが翌朝になってみると、事態は終わるどころか、静かに加速していた。

「ニアズ様、おはようございます」

「……おはよう」

 声をかけてきたのは、昨日話しかけてきた騎士見習いたちの一人だった。名を呼ぶほど親しくなった覚えはない。

 だが彼は、どこか誇らしげですらあった。

(なんで、そっちが誇らしげなんだ)

 ニアズは、何も言えずに通り過ぎる。

 すると、背後で小さな声が聞こえた。

「今朝も落ち着いておられる……」

「余裕がある証拠だ」

「やっぱり、只者じゃない」

(聞こえてるぞ)

 ニアズは、内心で頭を抱えた。

 執務棟に入ると、さらに状況は悪化する。

 書類の量が、明らかに増えていた。

「……何これ」

 机の上には、昨日までなかったはずの書類束。

 執事が、何でもないことのように説明する。

「若い者たちが自主的にまとめた提案書です」

「提案……?」

「今後の訓練方針、警備体制、街との関係改善案など」

(勝手に!?)

 ニアズは、思わず声を上げそうになるのを必死で抑えた。

「……俺は、何も指示していない」

「承知しております」

 執事は、穏やかに微笑んだ。

「ですから、“考えを汲もう”と」

(汲むな)

 ニアズは、机に置かれた書類を一枚めくる。

 そこには、こう書かれていた。

 ――ニアズ様の『無理をするな』というお言葉を基軸に。

「……」

 閉じた。

(ダメだ、もう読むだけで疲れる)

 その日の昼。

 ニアズは、逃げるように屋敷の外へ出た。

「……少し、静かになりたい……」

 街道沿いを歩く。
 屋敷から少し離れただけで、空気が変わる。

 だが。

「……あれ?」

 前方に、人だかり。

 何かと思えば、見覚えのある顔が混じっていた。

(……レオン?)

 例の騎士見習いが、街の若者たちに囲まれている。

「だからさ! ニアズ様はな!」

(やめろ)

 ニアズは、反射的に物陰に隠れた。

「強いとか弱いとか、そういう次元じゃないんだ!」

(どの次元だ)

「自分が弱いことを、ちゃんと理解した上で、俺たちに任せてくれる!」

(任せてない)

「余計なことを言わない! 指示もしない! でも、道は示してくれる!」

(示してない)

 若者たちが、感心したように頷いている。

「すげぇ……」

「そんな貴族、聞いたことない……」

「英雄候補じゃね?」

(やめろ)

 ニアズは、そっとその場を離れた。

 心臓が、嫌な音を立てている。

(外にまで広がってる……)

 屋敷の中だけなら、まだ誤魔化せた。

 だが街に出た噂は、止まらない。

 しかも内容が、どんどん方向に歪んでいる。

 その夜。

 ニアズは、再び窓辺に立っていた。

 空を見上げる。

 雲は多い。
 光は差している。
 だが、虹は――まだない。

「……まだ、だよな……」

 彼は小さく呟いた。

 もし虹が出れば、成長は一気に進む。
 それは、この勘違いの流れを“事実”に変えてしまう。

(頼むから、出るな)

 だが同時に。

 彼は、うっすらと理解し始めていた。

 問題は虹ではない。

「……俺、もう逃げ場なくなってないか?」

 弱い。
 だから、逃げたい。
 目立ちたくない。

 その全部を口にしているのに。

 世界は、彼を“準備中の英雄”として扱い始めている。

 静かに。
 着実に。
 本人の知らぬところで。

 こうして。

 事件が起きるための下地は、すでに整っていた。
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