凡夫転生〜異世界行ったらあまりにも普通すぎた件〜

小林一咲

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第3章 凡人は牙を研ぐ

第92話 逃亡劇

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 夜明けの空が赤黒く染まる中、僕はエリク大尉に馬を引かれ、城門を抜けた。

 背後にはまだ火の粉が舞い、剣戟の音が響いていた。振り返りたい衝動を必死で押さえ、ただ前を向いて走る。

「しっかり掴まれ!」

 エリクの声が耳を裂く。
 馬は必死に蹄を打ち鳴らし、闇に沈む街道を駆け抜ける。風が頬を切り、涙がにじんだ。

 だが、すぐに追っ手の蹄音が迫った。
 甲冑が月光を反射し、数十の騎兵が道を塞ぐ。矢が飛び、土煙の中で火花が散る。
 
「ちっ……! 俺が囮になるしか――」

 エリクが呟いたその瞬間だった。

「おおぉぉぉッ!」

 闇を裂くように現れた巨体。両腕に抱えた大盾を地に叩きつけ、追っ手の槍を弾き返す。

 「ザンジリさん!?」

 城門の古参の門番――ザンジリが立っていた。血に濡れた額を拭いもせず、ただ笑っていた。
 
「オレの役目はな……この街の最後の砦になることさ」

 その背中は岩のように揺るぎなかった。矢が降り注いでも、一歩も退かずに盾を構え続ける。
 
「走れ! バルトを連れて行け!」

 僕は叫んだ。「一緒に来てください!」
 だが、ザンジリは振り向かなかった。ただ肩越しに片手を上げ、吠えるように笑った。
 
「お前が生きるなら、オレの命も報われる!」

 その声を背に、僕は振り返ることもできず、ただ馬の背で歯を食いしばった。

 ◇

 幾度も矢を避け、必死に走り抜ける。
 やがて、海の匂いが鼻を突いた。岸辺に一隻の船が待っていた。帆は畳まれ、漕ぎ手たちが必死に合図を送っている。
 
「乗れ!」

 エリクの怒号に、僕は転がるように船へ飛び乗った。

 その瞬間――

「バルト・クラストおおぉ!!!」

 地を震わせる怒声が背後から響いた。
 岸辺に迫る黒馬の影。月光を浴びて輝く銀鎧。ユーア王子が、自ら剣を掲げ突進してきていた。

 目が合った。冷たい光を宿した瞳。その執念が胸を貫いた。

「出せぇッ!」

 魔導エンジンが唸り、船は波を割って離岸した。矢が海に突き刺さり、跳ねた水しぶきが頬を濡らす。

 王子の叫びは、次第に波音にかき消されていった。

 ◇

 どれほど波を貫いただろう。
 ようやく息をついたとき、月明かりの先に巨大な影が現れた。海を塞ぐように停泊する艦――隣国、シャイン大帝国の軍船だった。
 
「……来たか」

 エリクが小さく息を吐いた。
 
「俺はここまでだ。バルト、元気でな。死ぬなよ」

「エリク大尉……!」

 言葉が詰まる。喉が焼けるように熱い。
 彼はもう戻れないのだ。これ以上僕に肩入れすれば、完全に裏切り者として処刑されるだろう。それでもここまで導いてくれた。

 船を見上げたその時、甲板に立つ人影が目に入った。
 月光に銀髪を揺らし、星を宿したような瞳でこちらを見下ろす女。
 
「……エリシア?」

 胸が熱くなる。かつて騎士学校で共に学んだ、“星の預言者”エリシア・ウィンドスピア。
 その隣に、背の高い青年が腕を組んで立っていた。

 リューク・ウィンドスピア――エリシアの兄である。

「やぁバルトくん。まさか、こんな形で再会するとはね」

 リュークの低い声が波間に響く。
 僕は息を呑んだ。

 ――運命が、大きく動き出そうとしていた。
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