「君なら平気だろう」と私を後回しにし続けた婚約者はもう捨てます

茶2

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実家へ帰らせていただきます

 翌朝の目覚めは、驚くほど爽快だった。

 窓から差し込む光が、部屋の空気を真新しいものに変えているようにさえ感じる。
 昨夜の夜会での出来事が嘘のように、私の心はどこまでも静かで、澄み切っていた。

 アンナの手を借りて身支度を整え、一階の食堂へと向かう。
 アッシュフォード家の広い食堂には、すでに朝食の準備が整っていた。
 焼きたてのパンと温かいスープの香りが、微かに漂っている。
 長いテーブルの端に設けられた自分の席につき、静かに紅茶を口にしていると、ほどなくして彼が食堂に姿を現した。

「おはよう、クレア。昨日はよく眠れたかい?」

 彼は、まるで昨夜の夜会で何事もなかったかのような、驚くほど明るい声で話しかけてきた。
 金髪を揺らしながら席につく彼の顔には、大勢の貴族の前で恥をかいたという気まずさすら見当たらない。
 あるいは、気まずさを隠すためにわざと明るく振る舞っているのかもしれない。

「ええ、おかげさまで」

 私は手元のナプキンを膝に広げながら、平坦な声で返した。

「それは良かった。昨日は途中で気分が悪くなってしまったようだから、少し心配していたんだ」

 彼は白身魚のソテーに手を伸ばし、私に甘い微笑みを向けてくる。

「実は来週末、王立劇場の新しい演目が始まるそうなんだ。最近ずっと屋敷に籠りきりだったから、気分転換に二人で観に行かないか」

 彼なりの精一杯の機嫌取りなのだろう。
 私の好きな観劇に誘えば、昨夜の失態も、これまでの数々の不義理も、すべて帳消しになると信じている。

「お気遣いありがとうございます。ですが、来週は少し予定が入っておりますので」

 私はナイフとフォークを動かしながら、淡々と答えた。

「予定? 誰かとお茶会の約束でもしているのかい?」

「いいえ」

 私は手を止め、静かに彼を見据えた。

「明日よりしばらくの間、実家へ帰らせていただきます」

 彼の手からフォークが滑り落ち、皿に当たって小さな音を立てた。

「じ、実家に? どうして急に」

「父の仕事を手伝うことになりましたので。領地の経営に関わる案件ですので、こちらの屋敷から通うのでは不便ですから」

 事実だけを端的に告げる。
 すると、驚きで目を見張っていた彼の表情が、みるみるうちに緩んでいった。

「なんだ、そういうことか」

 彼は心底ホッとしたように息を吐き出した。
 私の言葉を、「実家で羽を伸ばして、頭を冷やしたい」と都合よく変換したらしい。

「きっと、俺の仕事が立て込んでいて相手にできないから、気を遣ってくれたんだね。いい気分転換になるだろう。実家でゆっくり休んでおいで」

 彼は完全に安心しきっていた。

「君がいないと、あの執務室の書類がちっとも減らなくて本当に困っていたんだ。戻ってきたら、また手伝っておくれよ」

「……」

 彼にとっては、私が実家に帰ることすら「一時的な休息」でしかないのだ。
 昨日の一件で少しはマシになるかと思ったけれど、効果はなかったらしい。
 いや、もしかしたらこれでもマシにはなっているのかもしれない。彼の中では、という前提に立つならの話だけれど。

「すぐに戻ってくるんだろう?」

「……ええ、が整えばすぐにでも」

「? まあ、それならいいんだ」

「それでは、私はこれで失礼いたします。明日の出発に向けて、荷物の整理がございますので」

 私は食事を終え、静かに立ち上がった。

「ああ。気をつけてね、クレア」

 背後からかけられる能天気な声を背中で受け流し、私は振り返ることなく一礼して食堂を後にした。

 自室に戻ると、アンナがすでにいくつかのトランクを準備していた。

「クレア様、お話は済みましたか?」

「ええ。とてもスムーズに」

 私が小さく笑うと、アンナも安心したように目元を和ませた。

「アンナ、明日の荷造りを進める前に、一つ頼まれてくれないかしら」

 私は机に向かい、引き出しから上質な便箋とペンを取り出した。
 実家の両親宛に、ペンを手早く滑らせていく。

 手紙の内容は簡潔なものにとどめた。
 明日、実家へ戻ること。ランカスター公爵からの打診の話もあり、父の仕事を手伝うという名目でしばらく滞在したいこと。
 深い事情や細かい経緯については、屋敷に到着してから自分の口で直接説明するつもりだ。

 書き終えた手紙を折りたたみ、封をする。

「この手紙を実家の両親へ届けてちょうだい」

「かしこまりました。すぐに手配いたします」

 手紙を受け取ったアンナが足早に部屋を出ていく。
 扉が閉まる音を聞き届け、私は窓辺へと歩み寄った。

 開け放たれた窓からは、春の柔らかな風が吹き込んでいる。
 庭の木々が風に揺れ、葉擦れの音が鼓膜を優しく打った。

 明朝には、この屋敷を出る。
 新たな一歩を踏み出すということに、胸中は確かな高揚感で埋め尽くされていく。
 これまでのように彼の顔色を窺う日々はもう戻ってはこないだろう。
 ランカスター公爵からの仕事をこなし、確かな実績を作ること。
 決して容易なことではないというのに、私に芽生えた、この前向きな気持ちは揺らがない。
 
 私はそっと目を閉じ、頬を撫でる風を感じながら、明日の出発に思いを馳せた。

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