「君なら平気だろう」と私を後回しにし続けた婚約者はもう捨てます

茶2

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公爵からの書状

 馬車がバークレー伯爵邸の重厚な鉄門をくぐったのは、太陽がすっかり高く昇った昼下がりのことだった。

 綺麗に刈り込まれた生垣と、季節の花々が咲き誇る見慣れた庭園。車窓からその景色が見えた瞬間、肺の底から深い安堵の息が漏れ、こわばっていた肩の力がすっと抜けていくのを感じた。

 玄関前で馬車が止まると、すぐに見知った老執事が出迎えに現れた。
 私が馬車を降りるのを手助けし、深く頭を下げる。その後ろには、数人の使用人たちが控えめな笑みを浮かべて整列していた。

「お嬢様。お帰りなさいませ」

「急な知らせで手間をかけさせたわね。ごめんなさい」

「とんでもございません。お部屋の準備はすでに万端に整えてございます。すぐにお休みになられますか?」

「いいえ。お父様とお母様は?」

「旦那様と奥様は、執務室にてお待ちでございます。昨夜から、お嬢様のご帰還をひどく心待ちにしておいででした」

「そう。すぐに向かうわ」

 短く告げ、私は迷いなく屋敷の奥へと足を進めた。侍女のアンナが、バークレー邸に少し緊張した面持ちでついてきている。
 廊下の絨毯を踏みしめるたび、自分が生まれ育った場所に戻ってきたのだという実感が、じわじわと足元から湧き上がってきた。

 執務室の重厚な扉をノックし、中へ入る。
 書類仕事の手を止めた父と、ソファで落ち着かない様子だった母が、いっせいにこちらを振り返った。

「クレア!」

 母が小走りに駆け寄り、私をきつく抱きしめた。
 柔らかくて温かい、母の香り。アッシュフォードの屋敷では決して感じることのなかった温もりに、少しだけ鼻の奥がツンとした。手紙では細かい事情は省いていたからか、母の腕には強い心配がこもっていた。

「昨日手紙を読んで驚いたわ。しばらく帰ってくるって……しかもランカスター公爵閣下の件も。あちらで、一体何があったの?」

 母が私の体を離し、不安げに顔を覗き込む。執務机の奥に座る父も、厳しい眼差しで私を見据えていた。

「……フェリクス殿と、何かあったのだろう?」

 父の静かな問いかけに、私は隠すことなく頷いた。
 私は促されるままソファに腰を下ろし、感情を交えず、ただ事実だけを淡々と口にした。

 彼が次期当主としての実務を私に丸投げしていたこと。誕生日の約束をすっぽかし、幼馴染の我儘を優先したこと。
 そして二日前、王宮の夜会で私を放置した一件。エスコートを放棄して他家の令嬢の元へ駆けつけ、一時間以上も経ってから戻ってきて、さも主役のような顔で手を差し出してきたこと。

 話が進むにつれ、母は口元を手で覆い、父の眉間の皺はみるみるうちに深くなっていった。

「あの男は、お前をなんだと思っているんだ」

 父の低い声に、微かな怒気が混じる。温厚な父がこれほど露骨に不快感を示すのは珍しかった。

「お前をこき使い、あまつさえ大勢の貴族の前で恥をかかせるなど。クレアだけでなく、バークレー家への侮辱とも受け取ってしかるべきだ」

「もうよろしいのです、お父様」

 私は静かに首を振った。

「あの方にはもう、欠片ほどの情も残っておりませんから。腹を立てる労力すら惜しいのです」

 私が清々しいほど淡々と告げると、父は少し驚いたように瞬きをし、やがて深く息を吐き出した。
 怒りや悲しみに暮れているわけではない私の態度に、少しだけ安堵したようだった。

「そうか。お前がそう割り切っているのなら、私の口からこれ以上言うことはない。……それで、手紙にあった公爵閣下からの打診の件だが」

 父は姿勢を正し、机の引き出しから一通の封筒を取り出して私の前に置いた。
 重厚な封蝋には、ランカスター公爵家の紋章が押されている。

「昨日、早馬で届いたものだ。宛名には私の名とお前の名が連名で記されている」

「……本当に、送られてきたのですね」

「開けてみなさい」

 父に促され、封筒を開ける。
 中に入っていた上質な便箋を数枚取り出すと、私は無言のまま、そこに記された流麗な文字を目で追った。

 内容は、東部街道の整備計画に関する外部顧問としての正式な依頼。そして、それに伴う条件。

「……信じられません」

 私は思わず息を呑んだ。
 提示された報酬額は、一介の令嬢、ましてただの手伝いに支払われるようなものではなかった。熟練の財務官にも匹敵する、破格の待遇。
 さらに、整備計画の権限の大部分を、私個人の裁量に委ねると書かれている。予算の割り振りから資材の調達経路に至るまで、ランカスター家からの口出しは最小限に留めるというのだ。

「公爵閣下は、本気だ」

 私の手元を覗き込んだ父が、重々しい声で言った。

「これは単なる実家の手伝いという名目の打診ではない。彼は、お前自身を完全なビジネスパートナーとして扱うつもりだ」

 思わず、全身に力が入る。
 単なる裏方ではなく、全権を伴う責任者としての依頼。夜会のバルコニーで私に向けられた、ランカスター公爵の灰色の瞳を思い出す。

「それは……」

 父の表情は、手放しで喜んでいるものではなかった。

「お前がこの条件を呑み、表立ってランカスター家で辣腕を振るえばどうなるか」

 形式上、私はまだアッシュフォードの婚約者だ。
 その婚約者が他家で重用され、本家の実務が滞るとなれば、面子を潰されたアッシュフォード家は黙ってはいないだろう。「我が家の婚約者を勝手に使い倒すとは何事か」と、強引に連れ戻しにかかる可能性もあるかもしれない。

 私とて、その程度のしがらみは理解している。
 けれど視線を落とした便箋の最後、追伸として書き加えられたその一文。

『もし、現在のアッシュフォード家との関係がクレア殿の障害となるのであれば、我がランカスター家が全面的に盾となることを誓おう』

 これは、私がフェリクスを切り捨てるための、明確な「剣」の提示といえた。
 同時に、ランカスター公爵の底知れなさに、ある種の薄ら寒さを覚えた。
 
 ただの仕事の依頼にしては、あまりにもこちらにとって都合がいい。
 ただ優秀な人材が欲しいだけで、他家のしがらみに首を突っ込み、盾になるなどと言う。
 一体彼はどこまで見透かしているのだろうか。
 この破格の条件もそう。あの冷徹な公爵が、何の計算もなしにこんな一文を添えるとは考え難い。

 指先が微かに震える。けれど、もう決めたこと。迷いはなかった。

「……お父様」

 私は便箋を折りたたみ、ゆっくりと顔を上げた。

「私は、この依頼をお受けいたします」

 

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