「君なら平気だろう」と私を後回しにし続けた婚約者はもう捨てます

茶2

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活きる知識

 深い眠りから覚めると、朝の光が部屋を明るく照らしていた。

 環境が変わったにもかかわらず、驚くほど熟睡できたらしい。
 アンナと共に身支度を整える。
 昨日の長旅の疲れはすっかり抜け落ちていた。頭の芯まで澄み渡っているのがわかる。

 家令に案内された一階の食堂には、すでにランカスター公爵の姿があった。
 彼はゆったりと椅子に腰掛け、コーヒーを飲んでいる。

「おはようございます、公爵閣下」

 私が声をかけると、彼は顔を上げ、静かに頷いた。

「おはよう、クレア殿。よく眠れたようだな。顔色が昨日よりずっといい」

「ええ、ご配慮のおかげです」

 私が向かいの席に座ると、すぐに温かいスープと焼きたてのパンが運ばれてきた。
 静かな朝食の時間。食器の触れ合う小さな音だけが心地よく響く。
 穏やかな朝の空気が流れていた。


「ところで、クレア殿」

 食後の紅茶が運ばれてきたタイミングで、彼がふと口を開いた。

「一つ、提案があるのだが」

「なんでしょうか」

「公爵閣下という呼び方を、やめてくれないか」

 唐突な言葉に、私はティーカップを持ち上げようとした手を止めた。

「と、おっしゃいますと……」

「私たちはこれから、対等なビジネスパートナーとして計画を進める」

 カップをソーサーに置き、彼が静かに続ける。

「対等な立場で働く以上、過度に肩書きを意識する必要はない。いつまでも閣下と呼ばれることで、畏まってしまう文官が現れても困る。それに私自身、堅苦しいのはあまり好きではない」

 合理的で、つけ入る隙のない正論だった。
 無駄な障壁は取り除きたいという彼の意図はよくわかる。

「……承知いたしました。では、クラウス様と」

「ああ。それで頼む」

 彼が軽く頷き、私たちは朝食を終える。
 アンナには、ランカスター家の侍女たちから屋敷の勝手を教わよう指示をしておく。

 その後、私はランカスター公爵改め、クラウス様の案内で屋敷内の視察へと向かった。
 まずは、一階の東側にある文官たちの執務エリアだ。
 廊下を進むにつれて、人の気配が濃くなっていく。
 
 広い部屋の扉を開けると、インクの匂いと、紙が擦れる乾いた音が押し寄せてきた。
 数人の文官たちが机に向かい、忙しそうにペンを走らせている。
 話し声は最小限だが、部屋全体にピンと張り詰めたような活気がある。

「ここは領内の税収や、各事業の物流を管理する部署だ」

 彼が歩きながら説明をしてくれる。

「君の仕事場ではないが、連携を取る機会は多いだろう」

「ええ。とても働きやすそうな環境です」

 私は感心して部屋を見渡した。
 無駄口を叩く者はいない。誰もが自分の役割を理解し、効率的に動いている。

 部屋の奥へ進むと、一人の若い文官が、山積みの書類の前で頭を抱えるようにして長いため息をついていた。

「進捗はどうだ」

 彼が声をかけると、文官は素早く立ち上がった。

「あ、クラウス様。申し訳ありません。北部の採石場から東部街道への、石材の輸送費用の割り出しに手間取っておりまして……」

「問題があるのか?」

「はい。想定以上に馬車の数が足りず、他領から高額な費用で借り入れる予算の調整が難航しています」

 文官は申し訳なさそうに、机に広げた地図と予算表を示した。
 彼が眉を寄せて書類を覗き込む。
 私もその後ろから、少しだけ地図と数字の列に視線を落とした。

 採石場から街道の建設予定地まで、直通のルートに赤い線が引かれている。
 最短距離ではあるが、山を越えるため道が険しく、積載量を減らさざるを得ないため、結果として馬車の台数が必要になるのだろう。
 そして、予算表の端に書かれた、高額な馬車の借り入れ費用。

「……あの、少しよろしいでしょうか」

 私は自然と口を開いていた。
 クラウス様と文官が、同時にこちらを振り返る。

「なんだ?」

「採石場からの直通ルートにこだわっていらっしゃるようですが」

 私は地図の一点を指差した。

「中継地点として、こちらの川沿いの古い倉庫を通せばどうでしょう」

 文官が戸惑ったように首を傾げる。

「しかし、そこは数年前から使われていないはずです。屋根も傷んでいたような……」

「三年前の記録では、雨漏りの修繕が済んでいます」

「えっ」

「それに、ここに一度資材を集約すれば、川沿いの平坦な道を使えます」

 文官が地図の上の川沿いのルートを目で追う。

「川沿いの道、ですか」

「ええ。大型の荷馬車で一気に運べるため、往復の回数は半分ほどで済むかと」

「なるほど……」

「他領から馬車を借りる必要もありません」

 淡々と告げると、文官は目を丸くして地図と予算表を交互に見比べた。
 そして、傍らにあった計算紙に素早くペンを走らせる。

「……っ! たしかに、これなら予算内に十分に収まります。荷馬車の数を減らしても、一度に運べる量が増えるなら採算が合います」

「日程にも余裕が生まれるな」

 クラウス様が文官の計算を見下ろして言うと、文官が顔を輝かせる。
 私は小さく頷き、一歩下がった。

「どうして、あそこの修繕記録を知っていた?」

 クラウス様が、興味深そうな目で私を見下ろしていた。

「アッシュフォード家の書類を整理した際、近隣領の治水記録には一通り目を通しましたので」

「……ただ目を通しただけで、そこまで記憶しているのか」

「数字と地形を関連づけて覚えるのは、それほど難しいことではありませんから」

 私が事もなげに答えると、彼は満足げに頷く。

「私の見立ては正しかったようだな」

 その言葉には、確かな熱が込められていた。
 私は静かに微笑み返す。
 誰かの影で尻拭いをするのではなく、自分の知識が正当に評価され、目の前で事態が好転していく。
 それは、想像していた以上に喜ばしい瞬間だった。

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