蓮の呼び声

こま

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9章 傘を閉じて

9_⑤

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 魂は元の形を取り戻した。消えてしまう危機は去ったが、胸中は晴れ晴れとはいかない。雨空がふたりの心情を代弁しているかのようだ。これから、青士に別れを告げることになる。気を抜けば遅くなる蓮橋への歩みを前へ進める力は、ふたりで一緒に持つ傘だった。
 町に入って最初の橋を渡った時、添花は不意にその傘を奪い取ると、素早くたたんで握りしめた。
「兄さんの所まで、競走っ」
 言うや否や走り出し、後ろ姿が小さくなる。紅龍は頷き、あまり離れないうちに追いかけた。添花がこうしなければ、彼は自ら傘を閉じるつもりだった。本当に、落蕾の厄から前に進むために。ふたりは雨の中を駆ける。
 しとしと、この雨はいつまで続くだろうか。空を覆う雲は厚く、湿った空気は重い。小島で待つ青士は、一本だけ生えている木の下に立っていた。
「兄さん」
 息が切れる程の距離を走ったわけではないけれど、添花は大きく息を吸って呼びかけた。紅龍より一足早く、小島への橋を渡る。もう大丈夫だと示すように、青士と正面から向き合う。
 妹を迎える青士の微笑みは少し寂しげで、これが最後かと思う心の内がよく見えた。
「添花……」
 青士の掌は、添花の頭へ。一文字ずつを大切に発して、特別なその名を口にした。少し年の離れた、小さかった妹。今はこんなに大きく、強くなった。
「……紅龍」
 遅れて小島に着いた友も、ずいぶん逞しくなった。交わした約束は重荷だったのかもしれないが、これからも背負っていくと彼の目が語っていた。
「ごめんなさい……心配かけて」
 謝りながら、添花は笑ってみせた。青士のためのはなむけの笑顔。しかし、同時に頬を涙が伝う。その光景に紅龍は驚いた。こらえようともせず、流れるに任せているからだ。
「笑って、別れられればって、思ったんだけど……さ」
 無理だよ、と小さく言って拭っても、あとから溢れてくる。今なら、添花は押し殺してきた本音を出せた。
 妹の頭を撫でて、青士はその手を肩におろした。もう一方の手は紅龍の肩に置く。
「ありがとう」
 妹達に向けた言葉が、雨音の中に染み渡っていく。添花の魂が元に戻り、ふたりは落蕾を乗り越えて前を向いた。青士の心配事は既にない。真の別れが訪れると知りながら、添花も紅龍もここに来た。それが、青士にはとても嬉しい。
「僕は、とても幸せだよ」
 伝えたいことが沢山あるのに、安堵の気持ちが魂を光に変え始めていた。真っ白な蛍の群れのように、青士の姿が儚く散っていく。
 全てが空気になってしまうまで、添花はなんとか笑顔を保ち、紅龍は青士の姿を目に焼き付けていた。

 なかなか出てこなかった蓮の花芽が、ぽつりぽつりと姿を現した。青士が成仏した日に降り出した雨は、もう三日も続いている。
「なんだか久しぶりねえ、霖なんて」
 自宅でふと母親が漏らした一言に、紅龍は答えなかった。もともと独り言のようであったし、考え事が耳を塞いでいた。
(雨、早く止まないかな)
 外を眺める目線の先には、例の小島がある。
 あの日、青士の姿が消えた後、添花はずっとその場に立ち尽くして泣いていた。雨のため人通りは少なかったが、紅龍は町人の目から幼馴染みを隠すように傍にいた。木の下にいたとはいえ、暗くなってから帰ったふたりはずぶ濡れで、紅龍の両親は布巾を用意したり風呂を沸かしたりと大わらわ。傘を持っていたはずなのにどうして、とか、一体何をしていたのかなど、不思議と深く追求されない。すっきりした子供達の表情から、何かを汲み取ってくれたのだろう。
 屋根の端から落ちる雨だれを見て、回想から雨止みの先の自分へと、紅龍の考えが移る。たっぷりの雨を浴びて、蓮は花芽を付け始めた。晴れればすぐに、一つ目の花が開くだろう。そうしたら竜鱗に戻って、修行を続けよう。憂鬱な天気にも、希望を持つことが出来た。
 一方、添花は道場に出向いていた。応接室で大師範と向き合い、旅に出る旨を切り出したところだ。
「ふむ、また旅に。構わないが、今度は理由を聞くぞ。その顔だと、あのことは吹っ切れたようだな」
「ええ、もう突然いなくなったりしません。自分と向き合うために、これまでの足跡を辿るつもりです」
 正座し、背筋をぴんと伸ばして、添花は晴れやかに笑った。そして一瞬、迷いの色を見せながら話を続ける。
「旅の中で出会った……死者の魂は、そこに居ないけど」
 意外な言葉に、大師範は目を丸くする。
「霊と対話し、未練を晴らして……送り出してきました。小さな力ですが、意味があると思うんです。今度は、それを探す旅を」
 蓮橋では紅龍と青士だけが知っていた霊能を、添花は自ら明かした。心から前向きに、その力を捉えられるようになった証だ。
「と、いうことは……この町には、何と居辛かったことだろう」
 大師範は渋い顔で、顎に手を当てる。
「確かに、見えなければいいと思うこともあります。でも、見えてよかったこともあるんです」
「……そうか。かつては私も、霊などという形のない物を忌み嫌ったものだが。少し、考えが変わったよ」
 遠い目の先には、なぜか、あの日があると直感した。雨の中で、大師範も何か見たのだろうか。
「遺す者を、逝く者を、大切に思うがゆえに現れるのが、霊なのだとしたら……そんなに忌むものでもないよな」
 青の大師範とも思えないことを言い、にっと笑う。
「青士に、魂の在り方を教わったような気がするよ」
 今度は添花が目を丸くする番だった。蓮橋に現れた青士の霊は、大師範にも見えていたのだ。彼は、添花や紅龍だけでなく、町の皆を大切に思っていたから。
「さて、そろそろ稽古の時間だな。添花よ、旅に出ても修行を怠るな。今度は師範の昇級試験が待っている」
「はいっ」
 はぐらかすような大師範の態度に、添花は歯切れのいい返事をした。鈍色に染まり重たかった空が、明るんできた。

 湿った地面は靴底に鬱陶しいが、蓮の葉は生き生きと雫を躍らせている。雨止みは添花と紅龍の旅立ちを示し、蓮はようやく、花を開き始めた。岩龍地区と竜鱗を目指す道程、ふたりが別れるのは華浪地区の白扇だ。そこまでは一緒に歩いていく。
 特に口に出すことはなかったが、胸中には、青士が「幸せ」の一言に内包した想いがあった。

 確かに、僕は死んだ。そのことを否定しないで。
 でも、より強く覚えていて欲しいことがある。
 僕は、生きた。

(私も、生きたって胸張って言えるように……歩いていくよ)
 隣を見れば、紅龍も同じ想いを抱いているとわかった。ぬかるみに刻むふたりの足跡は力強く、前へ前へと続いていく。
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