蓮の呼び声

こま

文字の大きさ
49 / 84
9章 傘を閉じて

9_⑤

しおりを挟む
 魂は元の形を取り戻した。消えてしまう危機は去ったが、胸中は晴れ晴れとはいかない。雨空がふたりの心情を代弁しているかのようだ。これから、青士に別れを告げることになる。気を抜けば遅くなる蓮橋への歩みを前へ進める力は、ふたりで一緒に持つ傘だった。
 町に入って最初の橋を渡った時、添花は不意にその傘を奪い取ると、素早くたたんで握りしめた。
「兄さんの所まで、競走っ」
 言うや否や走り出し、後ろ姿が小さくなる。紅龍は頷き、あまり離れないうちに追いかけた。添花がこうしなければ、彼は自ら傘を閉じるつもりだった。本当に、落蕾の厄から前に進むために。ふたりは雨の中を駆ける。
 しとしと、この雨はいつまで続くだろうか。空を覆う雲は厚く、湿った空気は重い。小島で待つ青士は、一本だけ生えている木の下に立っていた。
「兄さん」
 息が切れる程の距離を走ったわけではないけれど、添花は大きく息を吸って呼びかけた。紅龍より一足早く、小島への橋を渡る。もう大丈夫だと示すように、青士と正面から向き合う。
 妹を迎える青士の微笑みは少し寂しげで、これが最後かと思う心の内がよく見えた。
「添花……」
 青士の掌は、添花の頭へ。一文字ずつを大切に発して、特別なその名を口にした。少し年の離れた、小さかった妹。今はこんなに大きく、強くなった。
「……紅龍」
 遅れて小島に着いた友も、ずいぶん逞しくなった。交わした約束は重荷だったのかもしれないが、これからも背負っていくと彼の目が語っていた。
「ごめんなさい……心配かけて」
 謝りながら、添花は笑ってみせた。青士のためのはなむけの笑顔。しかし、同時に頬を涙が伝う。その光景に紅龍は驚いた。こらえようともせず、流れるに任せているからだ。
「笑って、別れられればって、思ったんだけど……さ」
 無理だよ、と小さく言って拭っても、あとから溢れてくる。今なら、添花は押し殺してきた本音を出せた。
 妹の頭を撫でて、青士はその手を肩におろした。もう一方の手は紅龍の肩に置く。
「ありがとう」
 妹達に向けた言葉が、雨音の中に染み渡っていく。添花の魂が元に戻り、ふたりは落蕾を乗り越えて前を向いた。青士の心配事は既にない。真の別れが訪れると知りながら、添花も紅龍もここに来た。それが、青士にはとても嬉しい。
「僕は、とても幸せだよ」
 伝えたいことが沢山あるのに、安堵の気持ちが魂を光に変え始めていた。真っ白な蛍の群れのように、青士の姿が儚く散っていく。
 全てが空気になってしまうまで、添花はなんとか笑顔を保ち、紅龍は青士の姿を目に焼き付けていた。

 なかなか出てこなかった蓮の花芽が、ぽつりぽつりと姿を現した。青士が成仏した日に降り出した雨は、もう三日も続いている。
「なんだか久しぶりねえ、霖なんて」
 自宅でふと母親が漏らした一言に、紅龍は答えなかった。もともと独り言のようであったし、考え事が耳を塞いでいた。
(雨、早く止まないかな)
 外を眺める目線の先には、例の小島がある。
 あの日、青士の姿が消えた後、添花はずっとその場に立ち尽くして泣いていた。雨のため人通りは少なかったが、紅龍は町人の目から幼馴染みを隠すように傍にいた。木の下にいたとはいえ、暗くなってから帰ったふたりはずぶ濡れで、紅龍の両親は布巾を用意したり風呂を沸かしたりと大わらわ。傘を持っていたはずなのにどうして、とか、一体何をしていたのかなど、不思議と深く追求されない。すっきりした子供達の表情から、何かを汲み取ってくれたのだろう。
 屋根の端から落ちる雨だれを見て、回想から雨止みの先の自分へと、紅龍の考えが移る。たっぷりの雨を浴びて、蓮は花芽を付け始めた。晴れればすぐに、一つ目の花が開くだろう。そうしたら竜鱗に戻って、修行を続けよう。憂鬱な天気にも、希望を持つことが出来た。
 一方、添花は道場に出向いていた。応接室で大師範と向き合い、旅に出る旨を切り出したところだ。
「ふむ、また旅に。構わないが、今度は理由を聞くぞ。その顔だと、あのことは吹っ切れたようだな」
「ええ、もう突然いなくなったりしません。自分と向き合うために、これまでの足跡を辿るつもりです」
 正座し、背筋をぴんと伸ばして、添花は晴れやかに笑った。そして一瞬、迷いの色を見せながら話を続ける。
「旅の中で出会った……死者の魂は、そこに居ないけど」
 意外な言葉に、大師範は目を丸くする。
「霊と対話し、未練を晴らして……送り出してきました。小さな力ですが、意味があると思うんです。今度は、それを探す旅を」
 蓮橋では紅龍と青士だけが知っていた霊能を、添花は自ら明かした。心から前向きに、その力を捉えられるようになった証だ。
「と、いうことは……この町には、何と居辛かったことだろう」
 大師範は渋い顔で、顎に手を当てる。
「確かに、見えなければいいと思うこともあります。でも、見えてよかったこともあるんです」
「……そうか。かつては私も、霊などという形のない物を忌み嫌ったものだが。少し、考えが変わったよ」
 遠い目の先には、なぜか、あの日があると直感した。雨の中で、大師範も何か見たのだろうか。
「遺す者を、逝く者を、大切に思うがゆえに現れるのが、霊なのだとしたら……そんなに忌むものでもないよな」
 青の大師範とも思えないことを言い、にっと笑う。
「青士に、魂の在り方を教わったような気がするよ」
 今度は添花が目を丸くする番だった。蓮橋に現れた青士の霊は、大師範にも見えていたのだ。彼は、添花や紅龍だけでなく、町の皆を大切に思っていたから。
「さて、そろそろ稽古の時間だな。添花よ、旅に出ても修行を怠るな。今度は師範の昇級試験が待っている」
「はいっ」
 はぐらかすような大師範の態度に、添花は歯切れのいい返事をした。鈍色に染まり重たかった空が、明るんできた。

 湿った地面は靴底に鬱陶しいが、蓮の葉は生き生きと雫を躍らせている。雨止みは添花と紅龍の旅立ちを示し、蓮はようやく、花を開き始めた。岩龍地区と竜鱗を目指す道程、ふたりが別れるのは華浪地区の白扇だ。そこまでは一緒に歩いていく。
 特に口に出すことはなかったが、胸中には、青士が「幸せ」の一言に内包した想いがあった。

 確かに、僕は死んだ。そのことを否定しないで。
 でも、より強く覚えていて欲しいことがある。
 僕は、生きた。

(私も、生きたって胸張って言えるように……歩いていくよ)
 隣を見れば、紅龍も同じ想いを抱いているとわかった。ぬかるみに刻むふたりの足跡は力強く、前へ前へと続いていく。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

旧校舎の地下室

守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。

クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?

青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。 最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。 普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた? しかも弱いからと森に捨てられた。 いやちょっとまてよ? 皆さん勘違いしてません? これはあいの不思議な日常を書いた物語である。 本編完結しました! 相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです! 1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…

処理中です...