3 / 3
最終章:空虚な静寂(バッドエンド・ルート)
しおりを挟む
空を突き刺すようにそびえ立つ、政府直轄の医療要塞「聖域」。
その最上階、一般市民の立ち入りが厳重に禁じられた『特別供出区画』を、カレンは歩いていた。
彼女の足取りは軽く、腹部はモデルのように完璧に平らだ。彼女は、希少資源である「鎮静者」から最も多くの直接処置を受け、奇跡的に「完治」した個体として、国のプロパガンダに利用される象徴(アイコン)となっていた。
だが、彼女が毎日欠かさず訪れるその部屋には、希望など微塵も存在しなかった。
「……レン。今日も来たよ。今日の私は、少しだけ肌の調子が良いみたい」
カレンが語りかける先――部屋の中央には、巨大な円筒形の培養槽が鎮座している。
青白く光る薬液の中に浮かんでいるのは、かつて彼女を抱きしめた青年、レンの「残骸」だった。
全身の皮膚には、血管の代わりに数千本の極細カテーテルが刺し込まれている。脳死判定が下されてから、今日でちょうど180日。本来なら土に還るべきその肉体は、2026年に施行された『男性資源永久保存法』に基づき、無理やり「生」の檻に繋ぎ止められていた。
『――警告。個体識別番号:JP-009。心拍数低下を検知。アドレナリン及びマナ・ブースターを強制注入します――』
無機質なシステム音声が室内に響く。
水槽の中で、レンの指先がビクンと跳ねた。それは意志による動きではなく、機械的な電気刺激に対する単なる肉体の反射に過ぎない。
「……っ。やめて、痛がってる……!」
カレンがガラスを叩くが、背後に立つ白衣の管理官は、手元のタブレットに目を落としたまま冷淡に告げた。
「痛覚は既に遮断されています。彼は今、一人で一日1,200人分の鎮静因子を精製する、我が国で最も優れた『中和剤タンク』です。彼の細胞一つひとつが、国を救っているのですよ。カレンさん、あなたもその恩恵を受けた一人だということをお忘れなく」
カレンは、ガラス越しにレンの顔を見つめた。
かつて自分を見つめてくれた穏やかな瞳は、白濁し、焦点も合わないまま虚空を彷徨っている。彼の口元には、肺に酸素を送り込むための無骨な管が食い込み、喉からは常に「ゴボッ、ゴボッ」という、命を吸い上げる不気味な排液音が漏れていた。
カレンが愛した「レン」という魂は、もうここにはいない。
そこにあるのは、国が最も効率的に女性たちの「膨らんだ絶望」を溶かすために作り上げた、生ける装置。
「私……救われたんだよね? お腹も痛くない、明日も死なない。……でも、レン。どうしてかな。あんなに苦しかった時よりも、今の方が、ずっと息が苦しいの……」
カレンが水槽のガラスに額を押し当てる。伝わってくるのは、レンの体温ではなく、機械が発する冷徹な振動だけだ。
階下では、今日も何千人もの女性が、平らな腹を手に入れるために列を作っている。
レンの肉体から絞り取られた「因子」を、自らの体内に流し込み、一時的な安らぎを買い求めるために。
2026年、世界は「死」を克服したかのように見えた。
しかし、その代償として失ったのは、個人の尊厳であり、愛という名の不確かな情動だった。
「ねえ、レン。……いっそ、二人で弾けてしまえばよかったね」
カレンの呟きは、機械の駆動音にかき消される。
窓の外では、灰色の雪が、生命の輝きを失った世界をどこまでも白く塗り潰していった。
その最上階、一般市民の立ち入りが厳重に禁じられた『特別供出区画』を、カレンは歩いていた。
彼女の足取りは軽く、腹部はモデルのように完璧に平らだ。彼女は、希少資源である「鎮静者」から最も多くの直接処置を受け、奇跡的に「完治」した個体として、国のプロパガンダに利用される象徴(アイコン)となっていた。
だが、彼女が毎日欠かさず訪れるその部屋には、希望など微塵も存在しなかった。
「……レン。今日も来たよ。今日の私は、少しだけ肌の調子が良いみたい」
カレンが語りかける先――部屋の中央には、巨大な円筒形の培養槽が鎮座している。
青白く光る薬液の中に浮かんでいるのは、かつて彼女を抱きしめた青年、レンの「残骸」だった。
全身の皮膚には、血管の代わりに数千本の極細カテーテルが刺し込まれている。脳死判定が下されてから、今日でちょうど180日。本来なら土に還るべきその肉体は、2026年に施行された『男性資源永久保存法』に基づき、無理やり「生」の檻に繋ぎ止められていた。
『――警告。個体識別番号:JP-009。心拍数低下を検知。アドレナリン及びマナ・ブースターを強制注入します――』
無機質なシステム音声が室内に響く。
水槽の中で、レンの指先がビクンと跳ねた。それは意志による動きではなく、機械的な電気刺激に対する単なる肉体の反射に過ぎない。
「……っ。やめて、痛がってる……!」
カレンがガラスを叩くが、背後に立つ白衣の管理官は、手元のタブレットに目を落としたまま冷淡に告げた。
「痛覚は既に遮断されています。彼は今、一人で一日1,200人分の鎮静因子を精製する、我が国で最も優れた『中和剤タンク』です。彼の細胞一つひとつが、国を救っているのですよ。カレンさん、あなたもその恩恵を受けた一人だということをお忘れなく」
カレンは、ガラス越しにレンの顔を見つめた。
かつて自分を見つめてくれた穏やかな瞳は、白濁し、焦点も合わないまま虚空を彷徨っている。彼の口元には、肺に酸素を送り込むための無骨な管が食い込み、喉からは常に「ゴボッ、ゴボッ」という、命を吸い上げる不気味な排液音が漏れていた。
カレンが愛した「レン」という魂は、もうここにはいない。
そこにあるのは、国が最も効率的に女性たちの「膨らんだ絶望」を溶かすために作り上げた、生ける装置。
「私……救われたんだよね? お腹も痛くない、明日も死なない。……でも、レン。どうしてかな。あんなに苦しかった時よりも、今の方が、ずっと息が苦しいの……」
カレンが水槽のガラスに額を押し当てる。伝わってくるのは、レンの体温ではなく、機械が発する冷徹な振動だけだ。
階下では、今日も何千人もの女性が、平らな腹を手に入れるために列を作っている。
レンの肉体から絞り取られた「因子」を、自らの体内に流し込み、一時的な安らぎを買い求めるために。
2026年、世界は「死」を克服したかのように見えた。
しかし、その代償として失ったのは、個人の尊厳であり、愛という名の不確かな情動だった。
「ねえ、レン。……いっそ、二人で弾けてしまえばよかったね」
カレンの呟きは、機械の駆動音にかき消される。
窓の外では、灰色の雪が、生命の輝きを失った世界をどこまでも白く塗り潰していった。
0
この作品は感想を受け付けておりません。
あなたにおすすめの小説
聖女を追放した国は、私が祈らなくなった理由を最後まで知りませんでした
藤原遊
ファンタジー
この国では、人の悪意や欲望、嘘が積み重なると
土地を蝕む邪気となって現れる。
それを祈りによって浄化してきたのが、聖女である私だった。
派手な奇跡は起こらない。
けれど、私が祈るたびに国は荒廃を免れてきた。
――その役目を、誰一人として理解しないまま。
奇跡が少なくなった。
役に立たない聖女はいらない。
そう言われ、私は静かに国を追放された。
もう、祈る理由はない。
邪気を生み出す原因に目を向けず、
後始末だけを押し付ける国を守る理由も。
聖女がいなくなった国で、
少しずつ異変が起こり始める。
けれど彼らは、最後まで気づかなかった。
私がなぜ祈らなくなったのかを。
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
悪役令嬢は処刑されました
菜花
ファンタジー
王家の命で王太子と婚約したペネロペ。しかしそれは不幸な婚約と言う他なく、最終的にペネロペは冤罪で処刑される。彼女の処刑後の話と、転生後の話。カクヨム様でも投稿しています。
魔王を倒した手柄を横取りされたけど、俺を処刑するのは無理じゃないかな
七辻ゆゆ
ファンタジー
「では罪人よ。おまえはあくまで自分が勇者であり、魔王を倒したと言うのだな?」
「そうそう」
茶番にも飽きてきた。処刑できるというのなら、ぜひやってみてほしい。
無理だと思うけど。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる