生贄は、神殺しの野獣に神官を騙る

空木葉

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黄泉の国から

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その狼を治すのは変な感じだった。
あの人を殺したときに、癒術師だった自分は遥か昔の故人になってしまったような気がしていた。
でもいざやってみると、職務として毎日何かを治していた時と何も変わらない。
ただの日常の延長だ。
といっても私の担当は人だったし、神と一緒に治したことは一回もないけれど。
「とりあえず、表面だけ治しましたけど」
毛も生えていない、薄ピンクの表皮が大きく露出した狼の腹を眺める。
残っていた骨と肉を皮膚で覆っただけの、右脚に比べて短い左脚を手でなぞった。
骨の回復には時間がかかるが、治療を続ければいずれ完治するだろう。
「ありがとう、じゃあ鼻と口と、そっち側の耳の穴塞いでね」
こんな指示を受けたことも初めてだ。
「…はい」
私は不承不承頷いた。
そもそもこの獣を治すことには、どちらかというと反対だ。
しかしこの国でこの神を物心つく前から信仰している国民としては、玲泉に対して異を唱える気にはならなかった。
「では、吹き込むね」
「はい」
私は頷いた。
不安とそれ以上の期待を感じながら。
左腕で狼の顎を嚙合わせる様に固定し、掌でその鼻を塞ぐ。
右手でふさふさの毛に包まれた左耳を覆った。
玲泉が狼の大きな耳にそっと口を寄せる。
そうすると玲泉の姿が、狼の頭部に隠れて見えなくなった。
そして静かな時間が流れた。
すっかり平穏を取り戻した湖に、生き物が戻ってくる。
空から舞い降りた鴨を見た後、私は空を見上げた。
そこに見えるのは白い雲と青い空のみ。
この幸運な獣はなぜ、どのように空から降ってきたのだろうか。
鼻と耳を抑えていた掌に温かさを感じて、私は頭を下げた。
しかし脱力しきった狼の体に変わりはない。
玲泉の姿も見えないので、何が起こっているのか全く分からない。
私を温めた時と同じ要領で、息を吹き込んでいるのだろうか。
しかし掌に感じる熱は、私の時のものより熱い。
これ以上の温度になれば、脳や臓器が痛むのではないのだろうか。
「こんなに熱くして大丈夫ですか?脳とかー」
見えない玲泉に呼びかけるが、返答はない。
口から吹き込ませているのなら、それも当然だ。
しかし掌にあたる熱が汗をかくほどに上がっている。
体の端でこうなら、中心はどんな熱さになっているのだろうか。
今の狼の死体は毛の先まですっかり乾いている。
ここまま熱が上がりつつければ、発火してしまうかもしれない。
いやいっそのこと、膨張して破裂してしまうのでは。
そんなことを考えていると、狼の顎がピクリと動いた。
私はその顎を開かせまいと、抑える左腕に力を入れた。
しかしそれをものともせず、ガバリと大きく口が開いた。
その奥から何かが勢いよく飛び出てきた。
茶色の、小さい何かが。
それに視界が完全に定まるまえに、それを見失った。
狼の顎が更に大きく、人間を丸呑みにできるくらい開いて、それを抑えていた私は体勢を崩した。
膝をついて狼の方を見上げる。
狼は大きくあくびをしていた。
静かな湖に喉から出る狼の唸り声が響く。
口を閉じて下を向いた狼は、また大きくあくびをした。
反射的に玲泉の姿を見ると、玲泉は私にほほ笑んだ。
「大丈夫、上手くいったみたいだよ」
その声に狼の耳がピクリと動いた。
濁っていた金の瞳に、光が指す。
その瞳が玲泉を映すと、一気に鋭さが増した。
グルグルと唸りながら、獰猛な牙をむきだしする。
「あはは、気が立ってるなあ」
玲泉は狼を見て困ったように笑うと、私を一瞥した。
「ちょっと距離を取った方がいいかも」
私は僅かに頷いて、静かに後退した。
「私は敵じゃないよ、ここに君が落ちてきたんだ」
玲泉も下がりながら、狼に優しく語りかける。
「ここは安全だよ。私の庭だからね」
狼は大きな耳をピンとたてて、油断なく玲泉を見つめる。
「私は玲泉」
その声に狼はピタリと唸ることを止めると、瞬きの間に人間の姿になった。
闇より黒い髪は明るい日差しを受けてなおいっそう暗くくすみ、金の瞳は冷たく光った。
「玲泉、お前が?」
唸るような低い声で、彼が問う。
「国を守ってる、泉の神の?」
その心底馬鹿にしたような響きに、私は眉をひそめた。
確かに威厳は無いが、だからといって一方的に軽んじられる筋合いはない。
「そうだけど」
玲泉が不思議そうに目を丸くすると、狼は喉の奥で笑った。
小さい笑い声に関わらず、湖にいた鳥が一斉に飛び立った。
ザリザリと遺跡を鳴らして狼は歩いた。
彼が右脚だけで進む度に、途中から欠損している左足が力なくブラブラと揺れる。
近づく狼の瞳に合わせて、玲泉の瞳が段々と上を向く。
「お腹が空いただろう、何か食べる?」
狼は玲泉を近くから見下ろした。
大きな口を開ける。
「俺はな、嘘つきが嫌いだ」
そして玲泉の首元に噛みついた。
音もないまま、血が飛び散った。
少し遅れて、玲泉の体がどさりと落ちた。
狼は血だらけの口から、玲泉の肉を吐き出した。
白い遺跡の上に、赤い血が広がる。
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