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美男と野獣
大人の助言
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ムトの目の前には、まさしく天国が広がっていた。
正確に言えば――白い湯気を立てて、眼前いっぱいに張り巡らされた“お湯”である。
「……久しぶりの、風呂」
呟く声は、思ったよりもかすれていた。
ムトは体を洗い流し、慎重に湯舟へと足を差し入れる。
「あっつ!」
反射的に声が漏れる。
熱が一気に皮膚を刺し、体が驚いて跳ねるのがわかった。
「そりゃそうか……」
苦笑しながら、ムトは息を整える。
森と平野で過ごした日々が、自然と思い出された。
最初は、冷たい川の水を風呂代わりにするなんて、正気の沙汰じゃないと思っていた。
だが、住めば都。
人の体は、驚くほど環境に順応する。
今では逆に、こうして湯に浸かると「熱い」と感じるほどになってしまった。
それでも、しばらく我慢して体を沈めていくと、
強張っていた筋肉が、ゆっくりとほどけていく。
「あー……いい湯だ……」
思わず零れたその声は、心の底からのものだった。
そのとき。
「ムト殿、失礼しますぞ」
背後から、落ち着いた声がかかる。
振り向くと、ノイマンが湯気越しに立っていた。
「あ、すみません……」
咄嗟にそう言ってから、
自分が何に謝っているのか分からなくなり、ムトは口をつぐむ。
「ムト殿が詫びる必要はありません」
ノイマンは穏やかに首を振った。
「これは、いわば恩返しなのですから」
湯の音だけが、二人の間を満たす。
「……でも」
ムトは、胸の奥に溜まっていたものを、そっと掬い上げるように言った。
「どうして、記憶のない俺に……
こんなに構ってくれるんですか?」
一番、聞きたかったことだった。
ノイマンは少しだけ目を細める。
「正直に申しましょう。最初は、疑いましたよ」
その言葉に、ムトの表情がわずかに歪む。
「こんなにおっとりとされた方が、
あの“ムト殿”かどうか」
だが、ノイマンはそこで言葉を切り、続けた。
「――ですが、グレイス嬢が、あなたの隣にいた」
ムトは、はっとする。
「あれを見た瞬間、確信したのです。
ああ、この方は、信頼に値するあの英雄殿なのだ、と」
ノイマンの声には、迷いがなかった。
「いまの彼女は、あなたの身元を証明する存在。
いえ……存在そのものを証明する方ですな」
一呼吸置いて、少しだけ声を強める。
「言っておきますが、
“グレイス”の名は、あなたが思っている以上に重い」
その言葉が、湯よりも深く、ムトの胸に沈んだ。
無意識のうちに、ムトの表情は真剣なものへと変わっていた。
それを見て、ノイマンは再び柔らかな声に戻る。
「だから、どうか――
あの方を、大切になさってください」
その声には、港町を預かる者としてではない、
一人の大人としての、静かな哀愁が滲んでいた。
ムトは、しばらく何も言えなかった。
ただ、湯の中で拳を軽く握りしめる。
「……はい」
短く、しかし確かに、そう答えた。
湯から上がり、用意されていた上等な寝間着に袖を通す。
柔らかく、体に引っかからない布。
森では考えられなかった感触だ。
部屋射戻ると、明かりは落とされており、月明かりだけが床を照らしている。
ムトはベッドに腰をかけ、深くため息をつく。
「……英雄、か」
小さく呟いた声は、誰に聞かせるでもない。
英雄ムト。
怪物を討ち、町を救い、名を知られた存在。
人々が敬意と期待を込めて呼ぶ名前。
「……俺は、そんな立派なやつだったのか」
頭の中を探っても、答えはない。
剣を振るった記憶も、誰かを守った実感も、
そこには、何も残っていなかった。
覚えているのは――
転び、砂に埋もれ、情けない声を上げた自分。
歩くだけで息を切らし、
誰かに助けられてばかりの今の自分。
この前のクマとの攻防では、自分ではない何かが体を動かしている感覚があった。
きっとあれが、英雄ムトの残渣なのだろう。
皆が期待するのはムトではなく、英雄ムトである。
その事実に胸がすごく痛くなる。
――それでも。
「……行くしか、ないよな」
誰にともなく、そう呟く。
森へ。
船長を探しに。
そして、
この“ずれたままの自分”が、
どこまで行けるのかを確かめるために。
――――――――――――――
屋敷の灯りがすべて落ちたころ。
リエルは、まだ眠れていなかった。
理由は、はっきりしている。
何者かの気配がした。
誰かはわからないが、確かにこの屋敷の中に寄ってきている。
リエルは、そっとベッドを抜け出した。
裸足で床を踏む。冷たい感触が、ぼんやりしかけていた意識を引き戻す。。
廊下に出た瞬間、
不思議なにおいが鼻をかすめる。
お屋敷の中じゃあり得ないにおい。
(……これは)
港の匂いでもない。
屋敷の木や石の匂いでもない。
もっと、古い。
塩と鉄と、そして――森の気配。
胸の奥が、かすかにざわめく。
まるで、誰かが呼吸しているような感覚。
「……船の匂い」
ぽつりと漏れた声。
それと同時に、
頭の中に、はっきりしない輪郭が浮かび上がる。
甲板。
夜明け前の霧。
軋むロープの音。
――人の、記憶だ。
リエルは、息を止める。
(生きている?)
違う。
これは“人”そのものではない。
誰かが、強く何かを思い残したまま、
境界を越えきれずに残したもの。
それが、今、
リエルの感覚に触れている。
(……あの船長だ)
あったことはない、だが流れ込んでくるものが、それを船長だといっている。
人としての形は失っているように感じる。
だが、意志だけが、まだ消えていない。
「……森へ、行ったんだな」
言葉にした途端、
どこか遠くで、風が鳴った。
屋敷の外。
――森の方角から。
ルーンベリーの森。
記憶を食らう狼の伝承。
そして――
“境界を渡る代価を、正しく支払った者”
その言葉が脳をよぎった次の瞬間、ふっと気配消えた
リエルは、ベッドに戻り、ゆっくりと目を閉じた。
夜の屋敷は、
何事もなかったかのように、静まり返っていた。
正確に言えば――白い湯気を立てて、眼前いっぱいに張り巡らされた“お湯”である。
「……久しぶりの、風呂」
呟く声は、思ったよりもかすれていた。
ムトは体を洗い流し、慎重に湯舟へと足を差し入れる。
「あっつ!」
反射的に声が漏れる。
熱が一気に皮膚を刺し、体が驚いて跳ねるのがわかった。
「そりゃそうか……」
苦笑しながら、ムトは息を整える。
森と平野で過ごした日々が、自然と思い出された。
最初は、冷たい川の水を風呂代わりにするなんて、正気の沙汰じゃないと思っていた。
だが、住めば都。
人の体は、驚くほど環境に順応する。
今では逆に、こうして湯に浸かると「熱い」と感じるほどになってしまった。
それでも、しばらく我慢して体を沈めていくと、
強張っていた筋肉が、ゆっくりとほどけていく。
「あー……いい湯だ……」
思わず零れたその声は、心の底からのものだった。
そのとき。
「ムト殿、失礼しますぞ」
背後から、落ち着いた声がかかる。
振り向くと、ノイマンが湯気越しに立っていた。
「あ、すみません……」
咄嗟にそう言ってから、
自分が何に謝っているのか分からなくなり、ムトは口をつぐむ。
「ムト殿が詫びる必要はありません」
ノイマンは穏やかに首を振った。
「これは、いわば恩返しなのですから」
湯の音だけが、二人の間を満たす。
「……でも」
ムトは、胸の奥に溜まっていたものを、そっと掬い上げるように言った。
「どうして、記憶のない俺に……
こんなに構ってくれるんですか?」
一番、聞きたかったことだった。
ノイマンは少しだけ目を細める。
「正直に申しましょう。最初は、疑いましたよ」
その言葉に、ムトの表情がわずかに歪む。
「こんなにおっとりとされた方が、
あの“ムト殿”かどうか」
だが、ノイマンはそこで言葉を切り、続けた。
「――ですが、グレイス嬢が、あなたの隣にいた」
ムトは、はっとする。
「あれを見た瞬間、確信したのです。
ああ、この方は、信頼に値するあの英雄殿なのだ、と」
ノイマンの声には、迷いがなかった。
「いまの彼女は、あなたの身元を証明する存在。
いえ……存在そのものを証明する方ですな」
一呼吸置いて、少しだけ声を強める。
「言っておきますが、
“グレイス”の名は、あなたが思っている以上に重い」
その言葉が、湯よりも深く、ムトの胸に沈んだ。
無意識のうちに、ムトの表情は真剣なものへと変わっていた。
それを見て、ノイマンは再び柔らかな声に戻る。
「だから、どうか――
あの方を、大切になさってください」
その声には、港町を預かる者としてではない、
一人の大人としての、静かな哀愁が滲んでいた。
ムトは、しばらく何も言えなかった。
ただ、湯の中で拳を軽く握りしめる。
「……はい」
短く、しかし確かに、そう答えた。
湯から上がり、用意されていた上等な寝間着に袖を通す。
柔らかく、体に引っかからない布。
森では考えられなかった感触だ。
部屋射戻ると、明かりは落とされており、月明かりだけが床を照らしている。
ムトはベッドに腰をかけ、深くため息をつく。
「……英雄、か」
小さく呟いた声は、誰に聞かせるでもない。
英雄ムト。
怪物を討ち、町を救い、名を知られた存在。
人々が敬意と期待を込めて呼ぶ名前。
「……俺は、そんな立派なやつだったのか」
頭の中を探っても、答えはない。
剣を振るった記憶も、誰かを守った実感も、
そこには、何も残っていなかった。
覚えているのは――
転び、砂に埋もれ、情けない声を上げた自分。
歩くだけで息を切らし、
誰かに助けられてばかりの今の自分。
この前のクマとの攻防では、自分ではない何かが体を動かしている感覚があった。
きっとあれが、英雄ムトの残渣なのだろう。
皆が期待するのはムトではなく、英雄ムトである。
その事実に胸がすごく痛くなる。
――それでも。
「……行くしか、ないよな」
誰にともなく、そう呟く。
森へ。
船長を探しに。
そして、
この“ずれたままの自分”が、
どこまで行けるのかを確かめるために。
――――――――――――――
屋敷の灯りがすべて落ちたころ。
リエルは、まだ眠れていなかった。
理由は、はっきりしている。
何者かの気配がした。
誰かはわからないが、確かにこの屋敷の中に寄ってきている。
リエルは、そっとベッドを抜け出した。
裸足で床を踏む。冷たい感触が、ぼんやりしかけていた意識を引き戻す。。
廊下に出た瞬間、
不思議なにおいが鼻をかすめる。
お屋敷の中じゃあり得ないにおい。
(……これは)
港の匂いでもない。
屋敷の木や石の匂いでもない。
もっと、古い。
塩と鉄と、そして――森の気配。
胸の奥が、かすかにざわめく。
まるで、誰かが呼吸しているような感覚。
「……船の匂い」
ぽつりと漏れた声。
それと同時に、
頭の中に、はっきりしない輪郭が浮かび上がる。
甲板。
夜明け前の霧。
軋むロープの音。
――人の、記憶だ。
リエルは、息を止める。
(生きている?)
違う。
これは“人”そのものではない。
誰かが、強く何かを思い残したまま、
境界を越えきれずに残したもの。
それが、今、
リエルの感覚に触れている。
(……あの船長だ)
あったことはない、だが流れ込んでくるものが、それを船長だといっている。
人としての形は失っているように感じる。
だが、意志だけが、まだ消えていない。
「……森へ、行ったんだな」
言葉にした途端、
どこか遠くで、風が鳴った。
屋敷の外。
――森の方角から。
ルーンベリーの森。
記憶を食らう狼の伝承。
そして――
“境界を渡る代価を、正しく支払った者”
その言葉が脳をよぎった次の瞬間、ふっと気配消えた
リエルは、ベッドに戻り、ゆっくりと目を閉じた。
夜の屋敷は、
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