はるいろ恋愛工房

藤谷 郁

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1巻

1-3

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 そうして作業台のほうへ向くと、梨乃にも座るように言った。
 梨乃は、彼が裏に住んでいるというのが気になったが、奈良はもうその話題は終わりとでも言いたげだ。
 作業を始めようとする彼に、園子は腰に手を当てると不満そうに言った。

「それにしても、きちんと教室の説明をしてから体験に入ってもらうべきなのに、いきなり荒練あらねりをさせるなんて。いくら哲美君の紹介だからって、ここの責任者は私なんですからね」
「わかってますよ」

 奈良はそう返事しながらも彼女を見ない。梨乃はその不穏な雰囲気にもぞもぞとした。

「ごめんね、尾崎さん。何かあったらすぐに私に言って。陶芸のことになると、ほんと頑固なんだから」
「は、はあ」

 園子は最後のほうで声を潜めたが、彼には聞こえただろう。知らん顔をしているのは、いつものことだから? などと思いつつ、間に挟まれた梨乃は曖昧にうなずくしかなかった。

「さ、梨乃さん。まずはこうしてね、『ひも』を作ってみよう。底になる土台を作って、その上にこの粘土で作った輪っか、これを『ひも』と言うんだけど、これをいくつも重ねていって湯呑みの形にするんだよ」

 園子は指導を始めた奈良に肩をすくめると、奥のほうに行ってしまった。そのうち一人二人と会員が入ってきて、教室はわいわいと賑わい始める。
 そんな中、梨乃も初めての『ひも』作りの練習に取りかかった。


 練習が済むと本番である。
 奈良は手本として湯呑みの底になる部分を器用な手つきでこしらえると、「君もやってみて」と粘土を適量とって梨乃に渡した。

「ええと」

 彼が簡単そうにやったのを真似て厚みの均一な円盤を作ろうと試みるが、やはり彼女には困難な作業だった。

(あああ、できないよう)

 そばで奈良が見ているから余計に焦りまくり、粘土も梨乃も、ますます不恰好になっていく。

「大丈夫、土はきちんと応えてくれる生き物だから」
「いきもの?」

 奈良はでこぼこと固さの偏った梨乃の粘土を取り上げると大事そうに手で包み、頬をすり寄せた。ハムスターか小鳥でもでるような、なんとも優しい仕草である。

「あの……」

 ぽかんとする梨乃に構わず、彼はごく普通の調子でそれに話しかけたのだ。

「さあ、彼女の言うことを聞いてあげてくださいよ。何しろ初めての体験なんですから、手加減してやってください」

 一体何が起こったのか把握できなかった。手の中の粘土を叩きつつ、締めつつしながら、ずっと話しかけている彼を、梨乃はただ見つめることしかできない。

「お願いしますね。そうそう、頑固にならず、柔らかく素直に。そうですか、わかっていただけましたか。はい、梨乃さん」
「えっ?」

 ポンとかたまりを手渡されて、びっくりする。だがそれは、さっきよりもずっと扱いやすそうな感触になっていた。

「〝彼〟がご機嫌なうちに、早く」
「は、はいっ」

 気がつくと、周りで作業している生徒達がこちらを見て、クスクスと楽しそうに笑っている。しかし奈良は大真面目だ。梨乃もそれに応えねばととにかく懸命に円盤を作っていった。
 粘土がご機嫌になった――
 そう思えるほど、手の中の塊は素直に言うことを聞いてくれた。
 奈良は今、パフォーマンスをしたわけではなく、多分、本気で土に話しかけていたのだ。あまりにも真面目でちょっぴり気恥ずかしく思ったけれど、その後は不思議なくらいスムーズに作業は進んだ。

「次はひもです。さあ、梨乃さんも〝彼〟にお願いしましょう」
「うっ、はい」

 奈良は本気である。
 戸惑う梨乃だったが、こんな自分が強情な〝彼〟を思うように扱おうとするならば、お願いするしかないのかもしれない。
 そう考え、土のかたまりを手の平で揉み、空気を抜きながら声に出して言った。

「あのう、粘土さん。恐縮ですが、私は不器用者なので、その……いい感じに、ええと、ひもになっていただけると、ありがたいのですが……」

 肩を震わせる人、こらえきれずに噴き出す人、周りの反応に梨乃は顔から火が出る思いだったが、奈良は、「その調子、その調子」と真剣な態度で褒めてくれる。
 なんだか変。すごく変。だけど、なんだか楽しい。こんな感覚、初めて――
 終始なごやかな雰囲気の中、〝見学〟というよりも〝体験〟させられてしまった二時間は、あっという間に過ぎていった。


「今日はありがとうございました」

 どうにかこうにか筒型の湯呑みは形を成し、残りの粘土で作った丸皿も、いびつにはなってしまったが素焼き手前まで作業を終えることができた。奈良の指導は不思議で、ちょっぴり恥ずかしかったけれど、楽しかった。
 しかし梨乃は自分の製作過程を思い出し、小さくなっていた。あまりにも不器用なため、かなり手こずったのである。
 特に、湯呑みの成形はハイレベルな作業だった。コテで内側を滑らかに整えるなど梨乃にとっては神業であり、「絶対無理!」と叫びたくなったほど。手の平に収まるほど小さくて単純な形なのに、情けなくなってしまった。
 だがそんな彼女にも、奈良は粘り強く手本を示しながら教えてくれた。代わりにすっかりやってくれることはなく、「下手でもいいから、自分で」と基本的に見守る姿勢を崩さなかった。先生としては厳しいなと梨乃は意外に感じたが、とにかく頑張った。

「すみません、私、本当にこんなことで」

 小さく肩をすぼめる梨乃に、奈良はいつもの涼やかな笑みを向けてくる。

「大丈夫だよ。初めてなんだし、これで上等。焦らなくてもいい」

 気さくな物言いでの励ましは、まさに乾いた土にみいる慈雨のごとく、梨乃の心を潤した。周りにいつの間にか集まっていた教室の生徒達も、そうだそうだとうなずいている。
 今日は中高年の男女を中心に、十名の生徒が各々おのおのの作品に取り掛かっていた。皆、教室に入って五年以上のベテランばかりで、中にはかなりの腕前の人もいるが、最初は全くの初心者だったと励ましてくれた。皆、初めはそうだったのだ。


「皆さん、どうぞお座りになってくださーい」

 窓際に据えられた大きなテーブルに、園子がお茶を運んできた。見ると、テーブルにはすでに梨乃が手土産に持参した和菓子が並べられている。

「本日、体験に来られた尾崎梨乃さんからお土産をいただきました。尾崎さんは和菓子の会社にお勤めで、こちらは春の新作だそうです」

 席に着いた生徒達は、ほおーっと春をイメージしたその菓子を珍しそうに眺めた。桜の花をかたどった薄紫の羊羹ようかんを、透明の寒天が包んでいる。

「あらっ土川屋さんって、有名なお店じゃない」

 生徒の一人が包み紙に印刷された会社名を見て、嬉しそうに言った。

「そうそう、岬駅の近くに本店がある、老舗しにせの和菓子屋さんだよね」

 梨乃は笑顔でうなずいた。色合いもきれいな新作菓子を、皆気に入ってくれたようでほっとする。
 だがふと見ると、奈良だけは手を付けず、じーっと手元に置いたまま凝視している。
 甘いものは苦手だったのかなと梨乃は心配したが、やがて顔を上げた彼はまさしく春爛漫はるらんまんとでも言いたくなるような明るい笑みを広げていた。

「きれいだね、これは素晴らしい。なんという名のお菓子なんですか」

 あまりにも屈託くったくのない表情に、梨乃は思わずときめいてしまう。
 しかし皆が注目しているので何とか気持ちを静め、きちんと彼に向き合って答えた。

「『初花はつはな』といいます。春の陽光に、その年初めてほころんだ桜の花を表しています」
「はつはな」

 奈良の頬が、心なしか染まっている。純朴で素直な反応に、梨乃のときめきはさらに高まっていく。

「初めての花か」

 もう一度眺めてから、楊枝ようじを使い口に運んだ。無駄のない、滑らかな所作だった。
 梨乃の頭の中に、彼の和服姿が鮮やかに浮かんできた。穏やかで大人で、〝和〟の風情がぴたりと似合う、理想どおりの男性だった。
 教室の皆にも、季節の和菓子は好評だった。

「きれいだねえ、日本人の心だねえ」
「四季それぞれの美しさを表現するのは、我々の作陶さくとうにも言えますが、日本人ならではの感性ですよね」

 ほのぼのとしたお茶の時間が過ぎていく。
 この場所は、おそらく自分にとって大切な空間になるだろう。
 強くそう予感しながら、今まで以上に好きになった目の前の人のいる、この幸せな世界に飛び込むべく梨乃は口を開いていた。

「私、今日から入会します。どうぞよろしくお願いします」

 お茶の時間の後、署名捺印を済ませてある入会申込書に、入会金と月四回コースの受講料を添えて、園子に提出した。これで、梨乃は玉虫陶芸教室の正式な会員だ。

「この他に粘土代や焼成しょうせい費を、その都度いただきますので。こちらは料金表になりますね」
「はい、わかりました」
「それと以前お伝えしたとおり、平日は月、木の午後七時半から九時半まで、日曜日は午前十時から正午まで教室を開いていますが、尾崎さんは日曜日のこの時間をメインにしますか?」
「はい、そうします。平日は難しいので」

 奈良がそばで聞いている。紹介した責任があるからだということはわかっているが、それでも、そこにいてくれることが嬉しかった。

「もし休まれる場合は他の曜日に振り替えもできますから、電話でお知らせください。他に何かわからないことはありますか?」

 今回の体験で教室の概要は把握できた。わからないことは、言ってみれば陶芸に関する全てであるが、今くことではないのでとりあえず首を振った。

「いえ、大丈夫です。ありがとうございました」
「そうですか。いつでも何でも訊いてくださいね。私はもちろん、他の講師でも全然構いませんから」

 他の講師の名前とプロフィールが書かれた用紙ももらっている。園子のほかに男性講師が三名いる。いずれもプロの陶芸家であるようだ。梨乃は「そういえば」と口を開いた。

「あのう、奈良さんは先生ではないんですか」

 園子と奈良は顔を見合わせた。

「いや、僕はただの会員だよ」
「そうそう。講師になったらって誘ってるのに、かたくなに断ってるのよ。師匠である私の祖父が言っても聞かなくて」
「ししょう、ですか?」
「うん、それはね」

 園子が答えようとすると、奈良は「ちょっと」と言って止めた。

「そのあたりは僕から話すよ。園子さん、もう一時になるよ。午後からグループ展の受付当番だろ」
「えっ? あっ、いけない。ごめん哲美君、戸締まりしておいて。じゃあ尾崎さん、来週からよろしくお願いしますね。頑張ってね」

 束ねていた髪を解いてかたわらのバッグを取ると、園子は来た時と同じあわただしさで出ていってしまう。そんな元気の良い後姿を、梨乃はぼうっと見送っていた。

「僕達も行こうか」

 戸締まりをして火の元などを確かめた奈良は、教室の鍵を梨乃の前に掲げた。


 奈良が施錠するのを待って、梨乃は深々とお辞儀をした。

「ん? どうしたの」

 急にかしこまる彼女に少し緊張の面持ちになった奈良は、鍵をポケットに入れ前髪を無造作にかき上げた。意志的な形の眉が強調され、優しさを残しつつも凛々りりしさの勝る顔つきになった。

「今日は本当にありがとうございました。あ、今日だけじゃなくて、『まほろば』でのことも、哲美さ……奈良さんにはお世話になってばかりで」

 まぶしそうに見上げながら言う梨乃に奈良は緊張が解けたようだ。

「はは、なんだ、そんなことか。全然世話なんてしてないよ。むしろお礼を言うのは僕のほうで」
「え……」
「いや、結果的に恩を売る形になったんじゃないかって、心配してたんだ。でも、君はそれとは関係なく、純粋に陶芸に興味を持って積極的にここに来てくれた。そうだね」

 澄んだ瞳に、梨乃は気圧けおされた。本当は彼への恋心が主な動機なのに、こんなにきれいな眼差しを向けられると、後ろめたさすら抱いてしまう。

「そんな、奈良さん。私は」
「哲美でいいよ。それよりも」

 梨乃が何か言おうとするのを照れたようにさえぎると、彼は話を変えた。

「君に、渡したいものがあるんだけど」
「私に、ですか?」

 思わぬことを口にした奈良――哲美に、梨乃はぽかんとする。

「うん、ちょっと来てくれないかな。僕の家に」


 園子が言ったとおり、哲美の家は玉虫陶芸教室のすぐ裏手にあり、庭の周囲に設置された低い柵が境になっていた。平屋の木造一戸建てで、建坪たてつぼは三十ほどだろうか。煙突が伸びた小屋が、家屋に付け足されたように建っている。しんと静かで、他に誰かいるような気配はない。
 縁側に腰かけた梨乃は、「少し待ってて」と言い置いて中に入った哲美が出てくるのを待ちながら、ここが彼の住まいなのかと、しげしげと観察してしまった。
 庭といっても花が植えられているわけでもなく、草がぼうぼうと生えているだけだ。数本の樹木も、長いこと剪定せんていされていないのか枝が方々に広がっている。
 縁側廊下にもちりや埃が溜まり、白っぽくなっている。あまり手入れがされていない印象だった。
 梨乃はあら探しをしているような気持ちになってきて、視線を手元に下げた。
 粘土を練ってだるくなった手首をこすっていると、背後でガラスの引き戸ががらりと開けられ、哲美が顔を出した。

「お待たせしました。はい、これです」

 縁側にしゃがんだ哲美が渡したのは、トレーシングペーパーでカバーされた一冊の本だった。

『陶芸入門 玉田あつし・著』
「玉田……」

 梨乃が問いかけるように顔を上げると、哲美はそうだよとうなずいた。

「玉田淳先生。虫賀焼むしがやきでは筆頭の陶芸家で、僕の師匠。園子さんのお祖父さんに当たる人で、玉虫陶芸教室をはじめた人でもある」

 梨乃は、この本の著者が園子の言っていた哲美の師匠なのだとわかり、興味深く表紙をめくった。トレーシングペーパーで保護されているが、中は破れや折り目がついて、かなりボロボロの状態である。
「はじめに」というページに、玉田淳師匠の写真が掲載されていた。単色の地味な写真だが、園子に似た面差しの、なかなかハンサムな壮年男性である。

「四十年も前の発行だから、その頃は先生もまだ若い」

 現在は八十近い老人だという。

「今でも精力的な人でね、最近は海外をあちこち旅して、ほとんど行方不明だって園子さんがぼやいてるよ」

 なんだかすごいお爺さんを想像しながら、梨乃は本文をめくった。
 縁が変色したページには、ごく基本的な皿や茶碗の作り方が写真付きで解説されている。教室で最初に行った荒練あらねりや、ひもを作って重ねていく『輪積み』についてもっている。それらは、哲美が教えてくれたのとほぼ同じ手順と技法だった。

「哲美さん、これって」

 梨乃は静かに本を閉じると、彼を見上げる。

「僕が初めて買った入門書で、常に肌身につけ参考にしてきた。君に貸したいと思って」

 あっさりと言われたものの、梨乃はとんでもないと首を振る。

「そんな大切な本をお借りするなんて」

 両手で持ち、うやうやしい仕草で哲美に戻した。

「いや、借りてくれ。ぜひ君に、読んでほしい」
「でも」

 哲美はぐいと本を手の平で押し返した。

「感覚を習得してくれ。虫賀焼むしがやきというもの、陶芸の基礎の基礎がそこにある。君にしっかりと吸収してほしいんだ」

 さらに押し戻そうとしていた梨乃は手を止めた。哲美の言葉は、ただの勧誘相手へのものではなく、特別な意味合いを含んでいるように感じられた。

「あの……」

 真剣な態度に再び梨乃は気圧けおされ、先ほどの後ろめたさがよみがえる。自分はそんな重い覚悟で陶芸を始めたわけではないのに。
 だが哲美は、見透かしたように言葉を継いだ。

「そんなに重く取らなくてもいい。ただ僕は、君という人に陶芸を理解して、楽しんで、ずっと続けてほしいから勧めているんだ」

 君という人に――
 梨乃の胸に、甘い予感が広がった。うっかり何かを期待しそうになってしまうほどの、彼の熱っぽい説得。

(まさかそんな、勘違いだよ、勘違い)

 と、梨乃は自分に言い聞かせる。
 だが、哲美はなおも迫った。目を逸らし逃げ腰でいる梨乃から本を取り上げると、今度は彼女自身の肩を掴んで揺さぶった。
 強い力だった。男の人の、あらがえないほどの強い力に、梨乃は彼が本気であるのをひしひしと感じた。

「梨乃さん、聞いてください」
「は、はい」

 勢いに押され、返事した。

「『まほろば』で君に出会ったのは運命だと思ってる。あのご縁がなかったら、僕らは今、こうしていなかった。そうでしょう?」

 運命――

「あの日、僕は迷っていた。話しかけた時は、君を誘うか誘うまいか半々の気持ちだったよ。でも、君があの時、あのタイミングに虫賀焼むしがやきを割ったことで、目が覚めた。これは運命。君しかいない、君しかいないのだと」

 必死で抑えようとしてもどうにもならない期待の膨らみ。

「割った皿のこと、きちんと請求するからって言いましたよね」
「え……」
「あれはね、皿の代金じゃない。このことを請求するつもりだった」

 熱く迫る彼に、梨乃はいよいよ勘違いしそうになり、小刻みに首を振った。

「僕は今日、二時間ばかり一緒に過ごしただけで、君の素晴らしさをいくつも発見している。もう間違いない、言ってしまうよ」

 言ってしまう――
 えっ、ちょっと待ってください! 
 喉の奥で留まって、声にならない。
 肩を掴む男の手指は、梨乃を逃すまいとするかのように、ますます食い込んでくる。
 膨らみ切った期待がもう、破裂しそうで、どうにかなりそうで。

「梨乃さん」
「はいっ」
「お願いだ、今日から僕の」


 今日から? 
 今日から僕の? 
 僕の何? 
 早く言ってください。
 そうでないと、もう――


「僕の、弟子になってくれませんか!」


(はい――?)

 梨乃は失神寸前。かろうじて立っていられるのは、他でもない、哲美の支えのおかげだった。
 膨らんだ期待でいっぱいいっぱいだった梨乃は、ようやく思い出した。哲美をよく知る兄の友章が、彼を評して言ったことを。

『哲美はな、茶碗や皿にしか興味のない陶芸バカだよ。彼女なんていないいない。もてることはもてるけど、あれは女いらずの変わり者。一生独身だね』

 喉がカラカラだと訴えた梨乃に、ペットボトルのお茶を注いだグラスを手渡した哲美は、心配そうに顔を覗き込んでくる。

「大丈夫?」

 飲み干すと、梨乃は紅い顔でうなずいた。
 恥ずかしくて、情けなくて、そしてほんの少しだけ、恨めしかった。

「ごめん、いきなり。びっくりするよね」
「いえ、そんなこと」

 だが、梨乃は恨み切れない。彼が純粋な気持ちで言っているのは、兄の言葉からもわかっているから。自分を弟子にという理由が、理解できないだけ。
 梨乃の隣に腰かけると、その疑問に答えるように彼は説明した。

「弟子っていうのは、大袈裟おおげさだった。その、つまり、僕は君に、助手を頼みたかったんだ」
「助手?」

 梨乃は、やはりわからなかった。

「それは、陶芸のですか?」

 まさかと思っていたが、哲美は「そうだ」と即答した。

「来年の二月に全国のアマチュア作家を対象にした陶芸コンテストがあるんだけど、僕はそれに出品するつもりでいる。その作品づくりの手伝いをしてほしいんだ」

 梨乃はぎょっとした。

「哲美さん。私、今日初めて土をこねた素人ですよ。そんな大変な役目、とても務まりません」

 しかし哲美は膝を詰めると傍らの入門書を取り、梨乃の手に持たせた。触れる指先に、なんら他意は感じられない。

「まっさらだからいいんだ。僕の原点と、そこから生まれた僕だけの感性を、君という純白な人に覚えてほしい。そして、手伝ってほしい」

 梨乃は、彼の一点の曇りもない瞳を見つめ返した。

「……知りませんよ。私、究極の不器用なんですから」

 何も考えず、口にしていた。男とか女などは関係ない、心からの言葉だ。

「梨乃さん」

 哲美は本を置き、直接手を握った。喜びのせいか若干熱くなった手の温もりは、梨乃の心ごと包みこむ。

「あっ、あの」
「ありがとう。君がいてくれたら僕は頑張れる。そんな気がするんだ。ああ、良かった。本当に良かった」

 心から嬉しそうな様子に、梨乃は複雑な気持ちになりながらも一緒に笑った。
 しかし、これだけは訊いておきたかった。

「哲美さん、ひとつ質問してもいいですか」
「え? ああ、もちろん」
「どうして、『まほろば』で私に話しかけようと思ったんですか。その、一面識もない、ただの客である私に」

 一瞬、彼が虚を突かれた表情になった。
 だがすぐにそれは消え去り、代わりにあの時と同じ、親しみのこもった笑みを浮かべると、滑らかに答えた。

「前にも言ったように、君があまりにも熱心に虫賀焼むしがやき銘々皿めいめいざらに見入っていたから、焼物に興味があるのかなと思って。それと……まあ、直感だろうね」
「はあ」

 本能的にということだ。それを言われたら、そうなんですかと返すしかない。

「とにかく、これからよろしく。はは、楽しみだなあ」

 ほがらかに言う哲美を見ながら、梨乃は今更ながら気がついた。

(考えてみれば、これから彼と会うことができるんだ。陶芸教室だけではなく、ここ、彼の家で)

 前後ろに位置する建物だけれど、教室と自宅とでは、全然違う。梨乃にとっては願ってもない、まるで夢のようなシチュエーション。
 だけど――

(陶芸だよ、どうする?)

 やはり残る不安。梨乃はこっそり、手首をこすった。



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