七日目のはるか

藤谷 郁

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17.別々の部屋

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 海沿いの小高い場所に、そのホテルはあった。
 すぐ目の前に、夏には海水浴場になるという、白い砂浜が続いている。そのはるか先には水平線が緩いカーブを描き、見る者すべてに地球は丸いのだと教えていた。
「ああ、気持ちいいなあ」
 バルコニーからの眺めを堪能した春花は伸びをして、ここしばらく忘れていた開放感に浸った。

 海はいい。
 視界の広がりは、心に余裕を与えてくれる。

 春花は手すりにもたれ、自分をここまで連れて来た、真崎の顔を思い浮かべた。
 恋心というのは不思議なもので、好きだと自覚したとたん、勢いをつけて相手に傾倒していく。男子を好きになったことはあるが、今回はもっと深いところに、特別な何かがある気がする。
 熱いような、温かいような、よく分からない感情……?
 春花は考えた。
 考えることが楽しかった。答えは見つかりそうにないが、それでも満たされている。

(なんか私、先生のことばっかり考えてる)

 春花は一人で照れ笑いした。

 その真崎はチェックインを済ませると、講義を行うという高校へとすぐに出かけて行った。
 壮年期の彼は、いわゆる働き盛り。20代の春花よりもずっと若々しく、バイタリティーにあふれている。パワーの源は体力なのか、気力なのか。
 どちらにせよ、パワフルな行動力は彼の大きな魅力だった。

 春花はバルコニーから部屋に戻ると、真崎から預かった旅行バッグを確認した。衣類が適当に放り込んであるのを見て、思わず微笑む。彼は整理整頓は苦手であるらしい。
 それにしても、ここまで準備しておきながら、今朝はなぜ黙ってマンションを出たのだろう。荷物を余分に持っているのも、春花は気付かなかった。それほどに、彼の行動はさり気なかったのだ。
(よく分かんないけど、私のためにいろいろ考えてくれてるんだ。ありがたく思わなくちゃね)
 必要な服だけ引っ張り出すと、残りは真崎に渡すため、きちんと畳んでバッグに詰めておいた。

 ちなみに、彼の部屋は一つ上の階にある。急なことでシングルしか空いていなかったらしく、つまり春花とは別々の部屋だ。それを聞いた時、春花は胸を撫で下ろした。
 同じマンションで生活する二人だが、ホテルというのはどうも意味合いが違う。ツインルームでベッドを並べて寝るのは、いくら男同士でもちょっと困るのだ。
 生々しいというか、恥ずかしいというか、とにかく眠れなくなりそうで。
 意識するのは春花だけかもしれないが――


 さて、一人で何をしようかなと考えていると、スマートフォンが鳴った。夕子からだ。
「はい、もしもし」
『あっ、春花? まだ男だったんだね』
 夕子がいきなり、残念そうに言った。
「だってまだ7日経ってないし。どうしたの?」
『えっとね、まずは……そうそう、吉川博士に会ったでしょ?』
「うん、会ったよ」
 吉川の美しい顔とスタイルを、頭に思い浮かべた。 

『やっぱりただのビタミン剤だって?』
「うん。夕子をからかっただけって、言ってたよ」
『な~んだ、また担がれたのかあ』
 夕子は本気でため息をついている。担がれていると知りながら、吉川の実験に付き合う彼女に、春花は呆れた。
『不思議だなあ。だったらどうして、性転換しちゃったのかなあ』
「それはさ、考えても仕方ないんだって」
 真崎の受け売りだが、今の春花にはその言葉がしっくりくる。何だか安心して、落ち着くのだ。

『ふうん。まあ、そうかもしれないけど……ところで春花』
「ん?」
 夕子の声が低くなり、内緒話のような口調になる。
『今、もしかしてS県のホテル?』
 ホテルという単語を強調されて、春花はドキッとした。
「う、うん、そうだけど」
『そっかあ。真崎先生、春花を連れて行くかどうか迷ってたけど、やっぱり行ったんだ』 
「迷ってた?」
 春花はきょとんとして、夕子の声に耳を傾ける。

『そうそう、出かける直前まで迷ってたよ。でも、せっかく二人分の荷物を用意してるじゃん? 私が、ゼッタイに連れて行くべきだってすすめたのよ』
 そうだったのかと、真崎の心情を初めて知る。旅行の準備をしたものの、迷いがあるから言い出せなかったのだ。しかし、その理由とは――
 春花はもしかしてと推測し、緊張してきた。
『真崎先生、心配してたよ。同じ部屋に泊まって、万が一春花さんが女性に戻ったらどうしようって』
「ええっ?」
 スマートフォンを落としそうになる。あり得ないほど、胸がドキドキしてきた。

『だから、一緒に旅行するのを迷ってたのよ。だって先生だって男だよ。しかも、春花のことは相当気に入ってるみたいだし、もしあんたが女性に戻って、いいムードになったら……』
「ちょ……ゆっ、夕子?」
 真崎がそんなことを心配していたとは……
 何だか聞いてはいけないことを聞いてしまったような、そわそわした気持ちになる。
 だがこれで、分かった。
 真崎はおそらく、わざと別々の部屋を予約したのだ。
 それは、春花が予定より早く女に戻るかもしれないという心配からで、紳士的な配慮である。彼は気楽そうに誘ったが、ちゃんと意識していたのだ。
 
『そっかあ、まだ男の体なんだ。せっかく旅行をすすめたのになあ。もったいなーい』
「はああ!?」
 おかしなことを口走る夕子に、春花は真っ赤になって抗議した。
「何言うのよ、馬鹿! 大体、部屋は別々ですからね」
『なんだ、そうなの』
「当り前でしょ!」
『残念だなあ』
 まったく、もう。心から残念そうにつぶやく親友に、春花は頭を抱える。
 だけど、自分もちょっぴり同じ気持ちなのを、抵抗しながらも認めた。認めてしまった。

『でもさ、真面目な話。真崎先生と春花って、相性ばっちりだと思うけど』
「えっ」
『早く女に戻るといいね』
「……」
 春花はふと、夢から現実に引き戻された感覚に陥る。
 そう、今の春花は男性体であり、相性が良かろうが何か起こるはずもなく、どうしようもないのだ。
『あっ、そろそろゼミの時間だ。それじゃね、春花。せっかくだから旅行楽しんでねー』
「あ、うん……じゃあ」


 通話が切れると、春花はしばらくベッドに腰かけたままじっとしていた。静かな部屋に、波の音が大きく流れてくる。

(7日目、私はどうなってるんだろう)

 ぶるぶると頭を振った。
 立ち上がるとバルコニーに出て、視界いっぱいに広がる海を見渡す。

「考えても仕方ないよ。ねえ、先生!」
 
 春花は気持ちを切り替えた。
 部屋に閉じこもっていても、思考がぐるぐる回るだけ。辺りを散策してみようと思い立った。



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