恋の記録

藤谷 郁

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奇怪な日常

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「一条さん、おはようございます」

「あっ、おはよう」


ビルのエレベーターで、アルバイトの山賀さんと一緒になった。彼女は今日、午前中の出勤らしい。


「午後は学校?」

「はい。夕方までバイトしたいけど、単位がやばくて」


山賀さんは愛想よく答える。

土屋さんと仲が良いのに、私を敵視することなく接する彼女は大人だ。爽やかな態度に、暗澹たる気持ちが少し晴れた気がする。


「雨、よく降りますね」

「ほんと、まだ四月なのに梅雨みたいよね。雨だと荷物が増えて困るわ」


私は苦笑し、傘を持ち上げてみせた。


「可愛い傘ですね。どこのブランドですか」

「スノウブック。お店で一目惚れして買っちゃった」

「あ、このブランドロゴ、雑誌で見たことあります。刺繍がお洒落~」


山賀さんはブランドに興味があるのか、傘をしげしげと眺める。

エレベーターを九階で降りると、私たちは他愛もない話をしながら事務所へと向かった。


更衣室で着替えてから事務仕事をしていると、古池店長が出勤してきた。他の社員は売り場に出ており、事務所はがらんとしている。


「おはようございます」

「おはよう、一条さん。今日も頑張りましょうね」


店長の顔を見て、以前彼にコワモテ男について相談したことを思い出す。今朝のできごとを話すべきか迷ったが、結局黙っておいた。

プライベートで何かあった場合、まず水樹さんを頼るべきだ。

水樹さんは私の、恋人なのだから。


「どうですか、一条さん。フェアの企画は進みそうですか」


店長はエプロンを着けると、私のデスクに近付いてきた。


「はい。土屋さんの過去の企画書を見て、私なりに考えてみました。新たなアイデアを盛り込んだ企画を構想中です」

「なるほど」


店長が私の背後に立ち、企画書のシートが映るパソコン画面を覗き込む。

顔が近い気がするが、彼は無意識のようだ。


「ネット小説の書籍化特集ですか。そういえば、土屋さんは過去のフェアでネット出身の作家をメインに据えることは、なかったですねえ」

「ええ。彼女のこだわりかもしれませんが、その辺りがマンネリの原因かなと思って。それに、フェアの中心となるガッツノベルは大手投稿サイトとコラボしてコンテストを開くなど、ネット作家の発掘に熱心です。ベストセラーもいくつか出ているので、それらを推していくよう提案したいですね」

「さすが、一条さん。コンセプトが明確で良いですねえ。時代の流れに柔軟なところも好ましい。土屋さんも刺激を受けて、発奮してくれるでしょう」

「……えっ?」


店長の手が、私の左肩に置かれた。すぐ離れると思ったが、なぜかそのままだ。


「あ、あの……」

「一条さんがウチに来てくれて本当に良かった。正直、若い人の扱いは難しくてねえ。特に土屋さんはわがままで、なかなか言うことを聞いてくれません」


さりげなく体を離そうとする私に、店長は話し続ける。肩を動かすことができず、私は困惑し、どうすればいいのか分からない。


(これって、もしかしてセクハラ? いや、まさか店長に限って。そうだ、前に休憩室で手を握られた時、店長は恥ずかしそうに謝った。スキンシップは悪い癖だと言ってたっけ)


悪気はないと思いたい。

でも、何なんだろう。この異様な不快感は。


「すみません、私……そろそろ売り場に行きます。新刊が届く頃ですので」


私はパソコンの電源を切り、椅子を立った。

店長と事務所に二人きりでいるのはまずい。本能が警告していた。


「おや、もうそんな時間ですか」


じりじりと距離を取る私に、店長はにこりと微笑みかける。悪気のない笑顔だが、それがかえって不自然だし、開き直ったように見えた。


「では、一条さん。フェアの件、お願いしますね。土屋さんと仲良く取り組んでください」

「承知しました」


早口で返事をし、急ぎ足で売り場に向かう。

左肩に残る感触が不愉快で仕方なかった。

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