恋の記録

藤谷 郁

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妖怪と女

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私は今日、エリアマネージャーに連絡をとり、古池店長と土屋さんの不倫について報告する――

出勤の支度をしながら、やるべきことを頭の中で何度も繰り返した。いざとなって腰が引けないよう、自分を鼓舞しながら。


(あの二人を相手取るのは勇気がいる。でも、山賀さんは仕事をやめる決意までして真実を告げてくれた。彼女のためにも頑張らなきゃ)


ブラウスシャツにセミタイトスカートを合わせた。ワンピースもいいけれど、今日はそこまでふわふわした気分になれない。

でもパンツではなくスカートを選ぶのは、やはり乙女心である。

彼と一緒に通勤するのだから。


バッグを持ってリビングに戻ると、智哉さんが読んでいた朝刊をたたみ、ソファを立った。私の準備が整うのを、待っていてくれたのだ。


「それじゃ、行こうか」

「ええ」


玄関で靴を履こうとして、ハッとする。お気に入りのレザーパンプスが出してあった。


「今日はよく晴れてる。レザーソールを楽しむのにもってこいの日だよ」

「わざわざ磨いてくれたの?」

「うん。君の仕事がうまくいくようにと、願いをこめてね」


彼の微笑みに、私の心が明るく照らされる。そうだ、私にはこの人がいたのだ。


「嬉しい……ありがとう、智哉さん」 


二人が縁を結ぶきっかけとなった靴を履き、私は勇気百倍。背筋が伸びて、気持ちまでシュッと引き締まる。 


「君には、レザーパンプスがよく似合う。自信を持って、頑張れ」

「はいっ」 


私達は寄り添い、朝の街へと歩み出した。



「ハルは今日、何時に上がる?」

「十八時です。でも今日は土曜日だし、売り場の状態によっては残業するかもしれません」

「そうか。僕は定時に帰るから、何か作っておくよ」

「はい……えっ?」


さらりと言うので、うっかり頷くところだった。


「作るって、夕飯を?」

「ああ。簡単なものしかできないけど」


すまなそうに笑う彼に、私はぶんぶんと手を振る。


「そんな、智哉さんも疲れてるのに。私は適当に済ませるので、気にしないで一人で食べちゃってください」

「一人分も二人分も、作る手間は変わらないよ」

「でも、朝食もほとんど智哉さんが準備してくれるのに……」

「ハル」


智哉さんが立ち止まった。

駅ビルがすぐそこに見えている。急ぎ足で行き交う通行人のじゃまにならないよう、彼は私を歩道の隅に寄せた。


「食事は家庭生活の基本だ。誰が作っても、どんな料理でもいい。コンビニ弁当だって構わない。きちんと家族に食べさせるのが大事だと僕は思っている」

「え……」 


家庭生活。家族に食べさせる。それはつまり、私の存在を家族と同じように考えているということで…… 

私がじっと見つめ返すと、智哉さんはなぜか気まずそうに目を逸らした。 


「まあ、君の遠慮がちな性格は分かってるし、たかがメシのことで説教するのも変だな。でも一応、僕の考え方を伝えておく。だから、適当に済ませるなんて言わないで、食事はきちんととってくれ」 

「う、うん。ごめんなさい」 

「謝らなくていいよ。僕が少し、心配しすぎなんだ」 


智哉さんは先に歩き出した。珍しくぎこちない態度なのは、もしかして照れているのだろうか。

だけど私は、別の理由を想像した。 


(そういえば、智哉さんは両親を亡くしている。しかも何年も前に。ということは、子どもの頃に独りぼっちになったんだ……) 


詳しい事情は分からないが、おそらくこの人は『家庭』や『家族』に人一倍思い入れがあるのだろう。

両親を亡くすという衝撃と孤独を経験し、複雑な感情を胸に秘め、生きてきたのだ。それを悟られまいとしている。

智哉さんの背中を見ながら、どうしてか、そんな気がして堪らなくなった。勝手に同情するのは違うと思うが、子どもの頃の彼を可哀想だと感じる。

今の自分に、どうすることもできないけれど。


「ハル、遅れるぞ」

「あ、はいっ」


男の人は、弱さを見せたがらない。私は何も気付かないふりで、智哉さんの隣に並んだ。



「そうだ、智哉さん」

「ん?」


駅ビルの通用口まで来て、私はあることに気付いた。辺りを見回してから、彼に小さな声で教える。


「私、智哉さんとのこと、山賀さん以外に話してないの」


智哉さんと二人でいるところを、職場の誰かに見られたら、まずいのではないか。

私が男性と連れ立って出勤したと古池店長が知れば、必ず詮索するだろう。でもそんなのは、シャットアウトすればいい。

それよりも、山賀さんの忠告が気になった。彼女は、恋人の存在を土屋さんに知られないよう注意しろと言った。


――土屋さんは人のものを欲しがる性質ですから。彼氏さんに、ちょっかいをかけるかもしれません。


智哉さんのことは『友人』で押し通すつもりだが、その対処で十分なのか自信がなくなってきた。何しろ土屋さんは勘が鋭い。その上、常識では測れないモラルの持ち主だ。智哉さんが彼女に興味を持つとは思えないが、ちょっかいをかけられるのは嫌だ。


「ええと、その……あなたとの関係を知られたら、まずいっていうか。だから、やっぱり別々に出勤したほうがいいかと」


土屋さんが誘惑するかもしれないなどと言えず、言葉を濁した。こうしている間にも誰かに見られるのではと、ひやひやする。


「ハル、そのことだけど……」


智哉さんが私に一歩近付き、何か言おうとした。しかしその声に甲高い声が被さり、二人の会話をいきなり断ち切った。


「一条さん、おはようございまーす!」


まさかと思い、恐る恐る振り向く。

一人の女が、笑顔全開で駆け寄ってきた。

現れたのは、土屋真帆。

彼女は今日から早番だった。どうしてシフト表を確認しなかったのかと悔やむが、もう遅い。

ぎらぎらと輝く女の視線が、私の隣にいる智哉さんに注がれていた。
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