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金目鯛の煮つけ
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というわけで、冬美は下田行きを決意した。
そして気がつけば、愛しい彼ゆかりの地へと旅するために、電車に揺られていたのだ。
「すごい、広い~!」
電車は今、海岸線を走っている。海を見渡せるこの区間は路線のハイライトだ。
あいにく今日は曇り空で遠くまで見えないけれど、それでも広々とした景色に圧倒される。
『次は伊豆稲取、伊豆稲取です……ご案内いたします。列車はただいま東伊豆海岸線を……』
車内アナウンスに耳を傾けていると、うとうとしてきた。
昨夜よく眠れなかったせいだ。
「……落としましたよ」
「えっ?」
目を開けると、誰かが傍に立っていた。その人が差し出すのは冬美のスマートフォン。
「わっ、す、すみません!」
一瞬だが眠ってしまったらしい。手から力が抜けて、スマートフォンを取り落したのだ。
冬美はお礼を言おうとして顔を上げた。
「おや、どこかで見たことがありますね」
「は、はい?」
その人がにこりと微笑む。30代前半くらいの、サラリーマン風の男性。すらりと背が高く、ストライプのシャツにサマージャケットがよく似合う。
優しそうな雰囲気と、明るい目もとに見覚えがあった。
「た……舘林課長!?」
嬉しそうにうなずくその男性は、部署は違うが同じ会社の社員――仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される館林課長だった。
20分ほど後、冬美は伊豆急下田駅ホームに降り立った。
課長と一緒に。
「久しぶりだなあ。相変わらず観光地らしい、旅情に満ちたホームだ」
「そ、そうなんですね」
大きく伸びをする課長を、戸惑いながら見やる。
(なんだか楽しそう……)
電車の中で偶然出会った彼は、どうしてか隣の二人掛けの席に座り、冬美に話しかけてきた。
にこにこと愛想の良い彼は、他部署の人間にありがちな壁を感じさせない。しかも上司であるのに言葉遣いが丁寧で、それでいて親しげな空気を醸している。
ほんわりとした雰囲気に釣られて、ついつい会話してしまったのだ……
課長は伊豆のリゾートホテル開発の責任者を務めたことがあるそうで、名所や名物、温泉などについて詳しかった。今日は久しぶりに下田へ行くと聞いて冬美は驚く。
『私も下田まで行きます』
『へえ。ご観光ですか?』
『えっ、いえ……』
冬美は口ごもった。まさか、好きなアイドルの故郷を訪ねる傷心旅行とは言えない。普通の失恋ならともかく、【推しロス】である。
課長のようなタイプに理解されるとは思えず……
『たまには独りでぶらっと、こう……どこかに行きたいなあと思いまして』
いいかげんな返事だが、課長はうんうんと納得してくれた。
『一人旅もいいですよね。僕も似たようなものです』
『そうなんですか?』
『朝起きたら、急に金目鯛の煮つけを食べたくなって。気がついたら電車に乗っていました』
『……』
仕事はできるが少し変わった人という噂は本当らしい。
わざわざ下田まで魚を食べに行くなんて。
冬美はリアクションに困り、ただ笑みを浮かべるのみ。だが課長は、それを好意的なものと受け取ったのか、驚くような提案をしてきた。
『どうです、野口さん。ここで出会ったのもなにかのご縁です。下田旅行をご一緒しませんか』
『はあ……ええっ!?』
それは絶対に遠慮したい。失恋の傷を癒し、推しへの思いにけじめをつけるために旅するのだ。誰かと一緒では気が散ってしまう。ましてや同じ会社の、しかも目上の人となんてとんでもない。
『あ、あの……しかしちょっと、それは』
失礼にならぬよう、適当な理由を言って断ろう。冬美はぐるぐる考えるが、とっさに上手い言葉が出てこず、しどろもどろになる。
課長は笑顔で見守っている。変わり者という噂だが、悪い評判は聞かないし、実際悪い人には思えず下心も感じられない。純粋に、親切心から誘ってくれているのだ。
でもやっぱり困っていると、彼は察したのか、妥協案を提示してくれた。
『では野口さん、とりあえず食事だけでもご一緒しませんか。その後は自由解散ということで』
『えっ? あ、はい。それなら大丈夫です!』
ハードルが下がったことにほっとして、思わず妥協した。
でも、やはりおかしい。
よく考えると、旅先でたまたま出会った他部署の上司と食事をともにするというのも妙な話である。
普通だったらそもそも話しかけてこないのでは?
やっぱり断ろう――と冬美は思ったが、なかなか言い出せないうちに下田に着いてしまった。
「それでは行きましょうか」
「はい……よろしくお願いします」
早く食べて早く解散しよう。
冬美は独り頷くと、足取り軽い課長と並び改札へと進んだ。
そして気がつけば、愛しい彼ゆかりの地へと旅するために、電車に揺られていたのだ。
「すごい、広い~!」
電車は今、海岸線を走っている。海を見渡せるこの区間は路線のハイライトだ。
あいにく今日は曇り空で遠くまで見えないけれど、それでも広々とした景色に圧倒される。
『次は伊豆稲取、伊豆稲取です……ご案内いたします。列車はただいま東伊豆海岸線を……』
車内アナウンスに耳を傾けていると、うとうとしてきた。
昨夜よく眠れなかったせいだ。
「……落としましたよ」
「えっ?」
目を開けると、誰かが傍に立っていた。その人が差し出すのは冬美のスマートフォン。
「わっ、す、すみません!」
一瞬だが眠ってしまったらしい。手から力が抜けて、スマートフォンを取り落したのだ。
冬美はお礼を言おうとして顔を上げた。
「おや、どこかで見たことがありますね」
「は、はい?」
その人がにこりと微笑む。30代前半くらいの、サラリーマン風の男性。すらりと背が高く、ストライプのシャツにサマージャケットがよく似合う。
優しそうな雰囲気と、明るい目もとに見覚えがあった。
「た……舘林課長!?」
嬉しそうにうなずくその男性は、部署は違うが同じ会社の社員――仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される館林課長だった。
20分ほど後、冬美は伊豆急下田駅ホームに降り立った。
課長と一緒に。
「久しぶりだなあ。相変わらず観光地らしい、旅情に満ちたホームだ」
「そ、そうなんですね」
大きく伸びをする課長を、戸惑いながら見やる。
(なんだか楽しそう……)
電車の中で偶然出会った彼は、どうしてか隣の二人掛けの席に座り、冬美に話しかけてきた。
にこにこと愛想の良い彼は、他部署の人間にありがちな壁を感じさせない。しかも上司であるのに言葉遣いが丁寧で、それでいて親しげな空気を醸している。
ほんわりとした雰囲気に釣られて、ついつい会話してしまったのだ……
課長は伊豆のリゾートホテル開発の責任者を務めたことがあるそうで、名所や名物、温泉などについて詳しかった。今日は久しぶりに下田へ行くと聞いて冬美は驚く。
『私も下田まで行きます』
『へえ。ご観光ですか?』
『えっ、いえ……』
冬美は口ごもった。まさか、好きなアイドルの故郷を訪ねる傷心旅行とは言えない。普通の失恋ならともかく、【推しロス】である。
課長のようなタイプに理解されるとは思えず……
『たまには独りでぶらっと、こう……どこかに行きたいなあと思いまして』
いいかげんな返事だが、課長はうんうんと納得してくれた。
『一人旅もいいですよね。僕も似たようなものです』
『そうなんですか?』
『朝起きたら、急に金目鯛の煮つけを食べたくなって。気がついたら電車に乗っていました』
『……』
仕事はできるが少し変わった人という噂は本当らしい。
わざわざ下田まで魚を食べに行くなんて。
冬美はリアクションに困り、ただ笑みを浮かべるのみ。だが課長は、それを好意的なものと受け取ったのか、驚くような提案をしてきた。
『どうです、野口さん。ここで出会ったのもなにかのご縁です。下田旅行をご一緒しませんか』
『はあ……ええっ!?』
それは絶対に遠慮したい。失恋の傷を癒し、推しへの思いにけじめをつけるために旅するのだ。誰かと一緒では気が散ってしまう。ましてや同じ会社の、しかも目上の人となんてとんでもない。
『あ、あの……しかしちょっと、それは』
失礼にならぬよう、適当な理由を言って断ろう。冬美はぐるぐる考えるが、とっさに上手い言葉が出てこず、しどろもどろになる。
課長は笑顔で見守っている。変わり者という噂だが、悪い評判は聞かないし、実際悪い人には思えず下心も感じられない。純粋に、親切心から誘ってくれているのだ。
でもやっぱり困っていると、彼は察したのか、妥協案を提示してくれた。
『では野口さん、とりあえず食事だけでもご一緒しませんか。その後は自由解散ということで』
『えっ? あ、はい。それなら大丈夫です!』
ハードルが下がったことにほっとして、思わず妥協した。
でも、やはりおかしい。
よく考えると、旅先でたまたま出会った他部署の上司と食事をともにするというのも妙な話である。
普通だったらそもそも話しかけてこないのでは?
やっぱり断ろう――と冬美は思ったが、なかなか言い出せないうちに下田に着いてしまった。
「それでは行きましょうか」
「はい……よろしくお願いします」
早く食べて早く解散しよう。
冬美は独り頷くと、足取り軽い課長と並び改札へと進んだ。
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