恋物語

藤谷 郁

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青い傘

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弥生くんは私の質問に答えず、校庭を見やった。

紺のブレザーに水色のネクタイは、彼が進学したW高校の制服だ。

中学の頃に比べてかなり背が伸びている。


「どうかしたの?」

「え……」

「いや、ぼーっとしてるから、なんかあったのかなと思って」


私を見下ろし、まじめな顔で言った。

対等な目線だったはずなのに、見上げなければならない。


(弥生くんって、こんな感じだっけ?)


運動部だからか、髪は相変わらず短めだけど、カットの仕方が違う。ちょっとお洒落な雰囲気のヘアスタイルだ。


「高校はどう……順調?」


返事もせずぼんやり見返すばかりの私に、弥生くんはちょっと困ったふうに訊いた。

私はハッとして、うんうんと小刻みに首を縦に振る。


「や、弥生くんは?」

「毎日部活。今日はまだ早いほう。雨降りだから、メニューが少なくてさ」

「あ、そうなんだ。陸上部だよね」

「うん」


互いに口ごもる。見つめ合う形になり、ふっと視線を逸らした。

傘に雨粒があたる音が賑やかで、気まずさを紛らせてくれるけれど――やっぱり、かなり気まずい。


(中学の時よりもさらに……でも、どうして)


立ち去ってしまうと思ったけれど、弥生くんは私と並んで校庭を眺めた。というより、紫陽花をじっと見ている。

私も同じだった。


「紫陽花ってさ、同じ株なのになんで違う色の花が咲くんだろって不思議だったよな」

「ええっ?」


思わず声を上げた。

今さっき考えていたことが、彼の口から出たことに驚いてしまう。

弥生くんは少しびっくりした様子だが、すぐに続けた。


「俺、理由を調べたはずでさ……なんでだったかなって、ここ通るたびに思い出そうとするんだけど、わかんなくて」


弥生くんの悔しそうな横顔に、あの頃の面影が重なる。

負けず嫌いで、分からないことが悔しいからって、すぐに調べてきたのだ。


「私も、今思い出そうとしてた。でも、忘れちゃってる」

「お前も?」


少し笑った。

やっぱりこの子は弥生くんだ。今、ようやく確信できた。

笑顔は全然変わっていない。


「帰ろうぜ。すげえ降ってきた」

「うん」


雨が激しくなり、私と弥生くんは互いの傘の半径ぶん離れて歩いた。

彼の傘はまっ黒で、なんの飾りもない男もの。

青い傘と並んでいると、まるで男同士に見えるだろうななんて、変なことを思った。

そして、急に恥ずかしくなる。


「で、どうなんだよガッコウは。部活とか」

「あ、私は美術部」

「あー、お前絵が好きだったもんな。そうか、運動部じゃないから帰宅も早めなんだ」

「そうだね、運動部に比べたら早いね」

「だから全然会わなかったんだな」

「え?」


家まであと数メートルの四つ角で立ち止まった。弥生くんの家は右に曲がってすぐのところにある。


「その……」


弥生くんは何かを探すみたいに、目をきょろきょろさせた。

そして、なぜか眩しそうに目を細めると、私をちょっとだけ見て、怒ったように言った。


「その傘、自分の?」


どきんとした。なぜそんなことを訊くのかと、反射的に身構える。

弥生くんまで、この傘を否定するのだろうか。

子どもの頃、男の子も女の子も関係なしに遊んだ幼なじみなのに。


私は今朝、17歳女子としてこれでいいのだろうかと自分に疑問を持った。周囲を見渡せば、誰も彼もが女の子してる環境で、ただひとりの規格外。

規格外は孤独で寂しい。その寂しさが私を落ち込ませていた。

そして、あの頃は良かったなんて、紫陽花の前でぼんやりしてしまったのだ。


「なんで、そんなこと訊くの?」


尖った声が出てしまう。弥生くんは何も悪くないのに。


「なんでって、いや、その……」


土砂降りになってきた。よく聞こえなくて近付いた私に、彼はあからさまに動揺する。

そして、意を決したように大きく返事した。


「朋絵らしくて、いいなって思ったんだよ!」


地面に叩きつける雨に、靴もソックスもびしょぬれ。

弥生くんなんてズボンの裾がひどいことになっている。きっとおばさんに叱られるだろう。

それなのに、どうしていつまでもこんなところにいるのか。


「あ……ありがとう」


お礼を言うべきなのかどうなのか分からない。

でも、それが素直な答えだった。

今日一日ぐずぐずしていた気分が、ひと息に晴れてしまうような彼の言葉。

私のことをよく知る幼なじみだからこそ、嬉しかった。


「でさ、朋絵」

「うん」


久しぶりに耳にする名前呼びは、くすぐったい。弥生くんもつっかえそうになっている。


「さっきの紫陽花だけど、やっぱ調べてみる。調べるのめんどくさいからお前に訊いてみようとしたけど、駄目だったし」

「う、ごめん」

「いや、もうかなり前のことだし、忘れもするだろ。とにかく、分かったら教えるから」

「えっ、紫陽花のこと?」


私がきょとんとすると、弥生くんは返事の代わりに傘を高く掲げる。

そして、そのまま勢いよく駆けていった。


私の胸に、中学時代の一場面が浮かぶ。


『お前って、女子高に行くの?』

『う、うん。そうだけど』

『ふーん』


はにかんだ顔――

今頃になって、その意味に思い至るなんて。


「でも、ま、まさか……ね」


青い傘の下、私は頬を赤くして、家まで走った。



その夜、何年ぶりかでかかってきた彼からの電話を母が嬉しそうに取り次ぎ、私に子機を手渡した。

耳に聞こえるのは、あの頃よりもずっと低い声。

でも、確かに弥生くんだった。


『おう、さっきはどうも。で、さっそく調べたんだけど、土壌には酸性とアルカリ性の部分があって、同じ株でも根の張り方によっては……』


いきなり本題に入る彼の、ぶっきら棒な説明を聞きながら窓を見やった。

天気予報では明日も雨、そして明後日も。

梅雨はまだ続くけれど、いつか雨は上がり、眩しい夏空が広がるだろう。


『ところで、スマホの番号交換しようぜ。さっき、聞きそびれた』

「うん、もちろん」


彼の番号をメモしながら思う。

明日は少し早起きして、紫陽花を見に行こう。


私の、青い傘を差して――







<終>
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