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人間らしい裏切り 6
しおりを挟むそれで何の話だったろうか、そうだ、グリズリーについてだ。逃げることが困難となると、打ち取るか見つからないようにするかのどちらかだ。
そして、グリズリーはとても執念深い、獲物と決めたものに執着する。だからきっとフィーネを探し続けるし、これは希望的観測なのだが、あの巨体では、ここまで入ってこられないと思うのだ、暖炉は石造りだから、簡単に壊れないはずだし、フィーネは助けが来るまでここで小さく、なっていればいいはずなのだ。
そうすれば、逃げていったベティーナ達も、標的にされることなく逃げ延びられるはずなのだ。
だから、これで正解のはず。そのはず。
そう考えるのに怖くて、普段なら触れたくないはずの、じめっとしている苔むした石畳に顔まで押し付けて、小さく震える。歯を食いしばりながら、膝が痛くなるのを無視して息を殺した。
部屋の中を荒らしまわる音がひと段落すると、小さな家鳴りが規則的聞こえるようになる。暫くして魔物が部屋の中を徘徊している音だと気がついた。獲物の気配を探している捕食者に、フィーネはさらに音を立てないように、とてもゆっくりと呼吸をした。
隠し通路のじめっとした空気が鼻につく。閉所にいる恐怖と、自分を探している恐ろしい生き物のことで頭がいっぱいになって瞳に涙がにじんだ。
途端に、ドンッ!!と、大きな音を立てながら、頭上にある、暖炉の隠し扉が開く、もし、立って扉を開けられないように押さえようとしていたら、突進によって開いた、重たい石の扉に体を圧迫されて死んでいただろう。
しかし、そんなもしもの恐怖よりも目の前に広がる、恐ろしい、魔物の顔面が、その扉から突き出して見つけたとばかりにフィーネのことを見下ろしている方がよっぽど恐ろしい。
鉄臭さと獣の汗と体臭が匂って、肉の剥げた魔物の大きな傷跡は、ピンク色にところどころ血をにじませている。衛生的な状態ではないからか、黄色く少し膿んでいた。
血走った瞳がフィーネを喰らわんとして、目を見開きながら、凝視して、大きな口はそれ以上入ってこれない体を無理やりねじ込んで小さく蹲るフィーネに近づいてくる。
唾液にまみれた牙はぬらぬらと光を帯びていて、フィーネはその光景に、荒く呼吸をしながら、あと一歩フィーネに届かない大きく開いたその口に何も考えずに、持っていたナイフを的確に突き上げた。
「ガグウゥツゥ!!」
「っ、!!」
痛覚はあるようで、地鳴りのような声をあげながらガタンと暴れて、大きな口が閉じる。その牙がフィーネの細い腕をかすめて、それだけなのに柔らかな肌の肉が裂けて、血が噴き出した。
「っ~、っ、はっ、ぐ」
フィーネは傷を圧迫して必死に抑える。
堪らず隠し通路から抜け出して言った魔物はナイフを刺されたまま、飛び出していってしまったので、フィーネは、今度魔物が入ってきたらできる限り小さくなる以外はなすすべがない。それが怖くて涙を流しながら、ドレスを裂いて、傷口のある手首を縛り付ける。
石畳に顔面をこすりつけて、鉄柵に痣になるのではないかというほど、体を押し付けた。
どんなに怖くてもこうしている以外に方法はない。フィーネはひたすらにきつく目をつむり再度の強襲に怯えながら体を震わせた。
しかし、長い時間が流れて、ふと、あれっ?とフィーネは、思った。魔物が戻ってこない。今度は手でも突っ込んでフィーネを引っ張り出そうとするのだとてっきり思っていたのだが、気配もないというか出て行ってすぐに、うめき声も聞こえなくなった。その大きな巨体の鼻息も。
フィーネが口にナイフを刺しただけで絶命するような生物ではないはずだ、それはわかっていつつも、フィーネは耳を澄ませた。
すると、微かにコツコツと硬いブーツが部屋を歩く音がする、人の立てる音だ、つまりは助けが来た、その可能性が大いにある。
すぐにこの穴から飛び出して、安心したいと咄嗟に思った自分をフィーネはすぐさま叱りつけた。
……この、能天気!!だめよ、冷静になりなさい。
たしかに、助けが来ているのかもしれない、しかし隠し通路を使えなかったとすぐにばれるこの状態、それもこの間の、ロジーネの勉強会で知ったのだが、タールベルク伯爵家には庶子が成り代わっているとフィーネを悪く言う噂が出回っている。
そんな中で、貴族しかなれない上級職の魔術師や精霊騎士がフィーネをどう思うか、妙な事にはならないかもしれないが、平民を酷く差別する貴族がいるのも事実だ。
証明する手立てがない以上、冷静に動かなければならない。
考えながらフィーネはゆっくりと、隠し扉から頭をのぞかせて、部屋のなかへと視線を向けようとした。
すると目の前にあるのは、硬そうなブーツ。ふと見上げれば、魔術師とも精霊騎士とも見分けがつかない、幽霊のような色白の男性が、フィーネのことを見下ろしていた。
「あっ」
あまりの驚きから、また引っ込もうとするフィーネに、素早く男性は、手を伸ばしフィーネの首根っこを掴んで男性らしく力強く隠し通路の穴から引っ張り出した。
「~♪」
機嫌よさげな、彼はフィーネのことをなにかウサギでも捕らえたかのように引きずって、既に首が切り落とされ、絶命している魔物の生首の前へと、フィーネを連れてきた。男の意図がわからないフィーネは、驚きから動くことができないまま、手を離される。
するとすっかり腰が抜けてしまって、足が立たずにへたりこんだ。
「これ、やったの君~?すごいなぁ。あれでしょ、君。庶子の子でしょ、なんて言ったかな?フィーネ?生きざまが図太いだけあるなぁ」
いいながら、男性は魔物のまま首をけり転がして上を向かせた。そして口の中から、フィーネが突き刺した果物ナイフを引き抜いてニコッと笑う。その笑顔はどこか人間らしからぬ雰囲気をしていて、ぞっとしつつも、目を離すことは出来ない。
「でもやるんならこっちの方が、ダメージ大きいかなぁ?ちなみに、フィーネは就職先はベティーナ嬢の侍女とか?」
彼は名乗りもせずに、軽口を叩きながら魔物の大きな傷がついている方の眼球にナイフを振り上げて刺した。何が何やらわからないフィーネは、眼球を貫いたナイフから視線をはずして、さらさらした短髪の黒髪を耳にかけながら、自身を見つめる彼と目を合わせた。
「止めときなぁ、あの子性格悪そうじゃ~ん。はあ、てか、倒しちゃったな、暇かも。女の子って騎士にはなれないんだっけ?難儀だなぁ」
続けながら言う彼をまじまじと見れば、腰に大剣をさしているので彼は精霊騎士なのだと思う。鎧はつけていないけれども、よくよく見てみれば、ガタイもよさそうだし背も高い。
しかし、ツーマンセルで動くはずの騎士がどうして一人で勝手に動いているのだろうか。
魔物の死体も怖かったし、目の前にいる人物が平然とあんなものを倒せるというのも恐ろしかったが、腕についた傷の痛みがフィーネの思考をクリアにさせていた。
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