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第一章 なぜ私であるのか

私が龍の護衛になってはならない

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「私である理由は、やはりありません」

 男は椅子から立ちあがり宣言した。

 その低く大きな声が室内に響き渡ると同席の白髪頭の初老の男が溜息を吐き、長髪の優男は微笑んだ。

 二人の視線を集めながらその立ったままの岩のような男は言葉を続ける。

ゆっくりと丁寧にそれはまるで祈るかのような口調で以って。

「再三に渡り申し上げますが、誰か他のものにこの役目をお任せすべきです。その理由は単純なものです。ここにいる、このこれは、そのお役目に、この世界において、最もふさわしくないものなのです。龍の護衛などという役割はとてもできはしません。この私にはできるはずがない」

 またそれか、と初老の男はぼやきながら二度目の溜息を長く吐き続け、それを眺めていた長髪の男は頷き開いていた本を閉じ微笑みを絶やさずに返事をする。

「疲れましたかねジーナ君。そういうのならここで講義を一旦中断させお茶でも飲みましょう」

「あのルーゲン師。お茶はよろしいのですが、私のこの訴えについてをですね、今日こそは御検討の上で御受入れくださって貰いたく」

 ジーナと呼ばれた男が言った。

「黙れジーナ。おいおいルーゲン師。まだ今日の予定のところまで到達していないというのに休憩とは感心しないぞ。ただでさえ遅れがちてだというのに、こいつのこんないつものわがままに付き合ってはならん」

「まぁまぁ落ち着いてくださいバルツ将軍。ここは戦場ではなく講義室ですよ。行軍に休憩が必要なように講義にも休憩は必要です」

 青年ではあるものの師と呼ばれたルーゲンは後ろに控えている僧に茶の準備を命じ、将軍と呼ばれたバルツは身体の向きを変えジーナと呼ばれた男の顔を見る。

 まだ未練たらしく立っている事に対しても憤慨しながら指を差した。

「お前が何度同じことを言っても俺は何度でも同じことを命じる。いいか、お前は龍身様の護衛をこれから務めなければならない。これは命令だ」

 バルツの命令にジーナは首を動かさない。
 縦にも横にも振らない。するとバルツの視線は自然にジーナの左頬に目が行く。

 そこにあるのは呪文みたいな模様が刻まれた深く古い傷痕。獣の爪痕にも見えるそれ。

 なんらかの儀式による印だと本人から聞いているがバルツはそれを見ると、いつも不思議と気弱になり言葉に従ってしまいそうな気分になるために、視線をずらしながら言った。

「座れジーナ。座れといっているんだ座わ、っているな。うんそれでいい。そういう態度なら、良い」

 一呼吸置き、バルツは全身に力を入れた。強気で攻めたら落せるかもしれないと思いつつ。

「なら、龍の護衛になれ」

「失礼ですが、抗命致します」

「おい!慇懃無礼にもほどがあるぞ!どうしてそこまで頑ななんだ!お前は如何なる命令にも今まで一度だって逆らったことなどなかっただろう!いかなる状況であっても、いかなる困難があったとしても、お前は逃げずに立ち向かいあらゆる難局を撃ち破ってきた男だろうが!数々の戦線で常に最前線で戦い続け、あのソグ山での決戦の英雄がなんだその様は!今のお前はどこの誰だ!」

「どこの誰でもなく私は変わらずにジーナです。私はジーナという存在である以外の何ものでもありません。はい。これまでの命令は不可能なことではない上に全て私でなければならない任務ばかりでありました。ですが、これはそうではありません。私はこれに選ばれてはならないものです。私であってはならないものなのです」

 抑揚のない一本調子の、だが強い口調にバルツが再び怒鳴ろうとするとその目のまえに茶が置かれた。

「お茶ができましたよお二人さん。それと部屋の空気も悪いので換気をしましょう。ちょっと寒いでしょうが我慢してくださいね。それとジーナ君、今のは間違えているよ。このことに関して君は選ばれたのですからね。選ばれたという運命のもとこれを受け入れるべきです」

 ルーゲンの言葉に対しジーナは瞼を閉じる。

 するとそこには赤い夕陽が瞼の裏に現れる。

 窓が開かれたのか冷たく乾燥した空気が部屋の中へと入ってくるのをジーナは感じた。

 晩秋であり遠くから運ばれてくる冬の香りがしているというのに、ジーナの目の前には夏の夕陽があった。

 故郷の陽の赤光、茜空……それを背負いここまでやって来た。

 しばらくして窓が閉まる音を聞きながらジーナはそう思いつつ瞼を開き茶を口に運ぶ。

 冬の訪れは近い。
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