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第一章 なぜ私であるのか

もっと太った方が良いですよ

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「苦しいのか、え?」

 その突然の穏やかな声にジーナは耳を疑う。

「それはこちらの台詞でして」

「妾が怪我? どこをだ? そなたがこのようにしているというのにどこに痛みなどある。それよりもそちらだ。いま苦痛を感じているように見えたぞ。言え、どこが苦しくて痛いのだ」

 痛みは苦しみはどこから……と何故そちらが聞くのか、聞く必要はどこにあるのか? 私が苦しいからといってそちらになんの関係があるのか?

 心配する必要なんてない。こちらがその左半身を気にしていないのと同じように……ここにいるのは……龍を……あなたを……意識し腕に力を入りながらジーナはヘイムに告げる。

「色々と余計なことを考えただけです。そのあなたが無事そうなので苦しみが消えました」

 ヘイムは腕の中で揺れた。なんで震えるのかとジーナは思わず考えず、その揺れだけを感じた。

「では良かった。ところでなこれはいつになったら降ろすのだ? このまま庭に行くとでも?言うのか、うん?」

 なぜ人から言われるのを待つのか? だったら降ろせと言えばいいのに。庭まで行ったら運動にならないだろうに。そもそもこれを他人に見られたら……とジーナの心はさっきの段階に戻るも混乱がグルグルと回転し、丸投げした。

「ここから降ろせと命ぜられたら今すぐにでも」

「それは西の風習か?」

「あちらだと女から言われない限りは降ろしはしません」

 ジーナは面倒なので嘘を吐くとヘイムは笑いながら応えた。

「ではこちら中央というか東では自ら降ろしてとは言わんぞ。こうなるとどうすなるのだ? 妾はずっとこのままか? 東西矛盾だな」

 手を振り足を上げ下げするヘイムを抱えながらジーナは思う。

 この女はずいぶんと軽いなと。

 身長は少し高めだが重さはあまりなく、このままだとずっと身体を抱えることができるなとジーナは思い、また不思議なことに気付く。

 とっとと自分で降ろせばそれで済むのにどうしてそれをしないのか、と。だがジーナはそう思うと同時に慌て、怯える。

 気付いてはならないことを、気が付いたように、それがなにかは分からぬまま。

「このままだと、その、危険なので、お降ろしいたします」
「危険とはなにか?」
「危険なのです」

 これを考えたくない、とジーナは口をつぐみ答えないでいると。

「……では降ろせ」

 指示通りに屈み腕の力を抜くとヘイムは地に降りジーナの腕のうちから離れ、杖が手渡された。

 ほんの短い間であったのにそれはとても長く感じられた。さっきから時も感覚もあらゆる全てで遅くなってはいないか?

「正直に言えば良いものを」

 問いが下から来たときジーナがそちらを見るとヘイムが鼻で笑った。

「妾が分からぬとでも思うておるのか。鈍い女だと侮りおってからに」

 心臓の鼓動が高まりジーナは身体のどこかが痛みを覚え出してきた。

 何かが痛みだす。

 ヘイムが右手を無造作に出すと条件反射的にジーナは左手でとり、そこで視線を合うとジーナは首を振る。

「違います」
「まだ何も言ってはおらぬし、誤魔化すでない。声を荒げても無意味であるぞ。拒絶しても答えはその自分の胸の中にあるのだからな」
「いいえ、そんなのはありません」

 動悸が激しさを増していきジーナは焦る。この胸騒ぎは自分でも左手からあちらの右手に伝わっているからこんなことを言われるのではないかと。この鼓動が何かを伝えているのではないかと。

 私の心は読まれているのでは?

「では言ってやろうか?」

 言葉と同時にその右手に力が入ったのかジーナの身体は前のめりとなり二人の距離は近づくも抵抗か反発か足に力を入れて踏み止まるものの、捕らえてくるようなヘイムのその瞳の光りに意識が吸い込まれ、悪足掻きのような声があがった。

「言うな」
「駄目だ言う。言わねばならぬ。いいかよく聞け。そなたはな妾のことをこう思うておる」

 耳を塞ごうにも逃げようにも手が抑えられているどころか足も竦んで動けはしなかった。

 そうであるからジーナは目蓋を閉じた。その闇の中でヘイムの声が来た。

 真実を告げる言葉が来る。

「重いな、と。抱きかかえ続けるのには重くて腕が疲れるけれど、男としての意地があるから自分から降ろすは言い出せなかった、だな。分かるぞ。しかし、いいか言ったであろう。言葉は大目に見てやるとな」

 目蓋が開き闇が晴れジーナは光の中にいた。私はいったい何に怯えていたのか……馬鹿馬鹿しい、下らないことだとさっき感じていた全てがどこかに流れ、それがなにであったかすぐに忘れた。

「違います。そうじゃないです」

「違う違うって子供か?なにが違うのだ」

「ヘイム様は全然重くないです。むしろ軽すぎるので、もっと太った方が良いですよ」

「……言い方というものがあるのでは?」

「えっ? えっと、ヘイム様は軽いので重くなられた方がよろしいかと」

「言い方というものがあると言っただろうに!」

「えっ軽い女と重い女のどっちが悪いとか?」

「どっちも駄目に決まっているだろうが」

「理屈に合わないことを言わないでください」

「理屈なんてものを持ち出すな!」

 こんな意味不明なところで真剣に怒るとか何を考えているんだこの女は、とジーナはかつて知らない恐怖感を抱いた。

「その……健康になられた方がよろしいかと」

「妾が不健康とでもいうのか?」

 しかし睨み射竦めるその眼差しから違う何かが伝わりジーナの恐怖感は消える。

「はい、どこからどう見ても不健康です」

 言ってからジーナはまた不適切発言かなと思うもヘイムは頷いた。

「そうであるから、庭を歩いて運動し健康になるのだ。そうだろ?」

 非の打ち所がない言葉にジーナも頷いた。

「はい、私もそれにお手伝いさせていただきます。筋力をつけましょうただでさえヘイム様は身体が細いのですから、いくらか強い身体になったほうがいいですよ」

 こう言うとヘイムは笑いながら答える。

「うむ良い言葉だ。なんだそなたは、そう言えばいいのだ、そう言えば。やればできるのだからやれ、これは大事な命令だぞ。では庭に行くぞ」

 その情緒の不安定さに困惑するもジーナはヘイムと共に庭へと向かう。

 突然機嫌が良くなったり悪くなったりするがこれはわざとか、それともそのまま天然自然で?

 と聞くわけにもいかずそのことは黙りそして思うことは一つであった。あなたは私に微笑んだり喜んだりすべきではない。それは間違いだ。

 あなたがこちら向けるべき感情は憎悪と嫌悪以外は正しくはないのだと。

 しかし、もしも、もしも……とジーナは不意に思う。その左眼左手左脚の痕がもしも自分の勘違いであったとしたら?

 そんなはずはない、とジーナは館の扉を開き薄暗い雲の下、庭へと出た。
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