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第一章 なぜ私であるのか

っで……どうするのですか?

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 そうだこの人は私が龍の間にいることを知っている、とジーナは冷や汗が背中に滲むのを感じながら思い出す。

 それにシオンのその場に留まれとの命令も聞いている。だから私が帰るわけなんか、ないんだ。見つめて来る瞳は朱色の如くに濃さを増していくのを見ながら、冷静さを保ちながらジーナは視線を逸らさずに言った。逸らしたら、喰らわれる。

「嘘はついていないよ。帰ったというのはルーゲン師が迎えに来てからだね。あの人は少し早めに来たので」

「いいえそんなことありません。儀式の際のルーゲン師の御参上時刻は正確無比ですよ。到着する時もまた儀式の一つだというのがルーゲン師のお考えです。ですから私が庭で見たのは御参上と同時刻と見てよろしいかと私は確信しております。よってその時間の前にヘイム様とルーゲン師が一緒にいることは有り得ないのです。そもそもルーゲン師はヘイム様の右手は決してお触れにならずに龍身の左側にしかお触れになりませんしね。よって誰かがそれまでのヘイム様と一緒だったのです。ですから、ねぇジーナさん。もう一度お聞きしますね。その時はどこにいたのですか」

 問う瞳の色は朱色というよりかは戦いで見慣れた血の色のようにジーナには感ぜられた。しかしここまで人の瞳というものは変わるのだろうか? 自分みたいに特殊な条件でない限りそうころころと……それとも、これは自分がそうであるから、人のも分かるというものであるのか? ジーナは何も答えずに固まっているとハイネの眼の微笑みは増し朱が広がる。

「話すしかない状況へと導きましてまるで私が意地悪しているようで心が痛いですけれどあなたが悪いのですからね。怪しすぎですもの。別に良かったのですよ。ジーナさんがヘイム様をお庭にお連れしたということは。だって人がいなかったらあなたがやるしかないのですから、問題はありません。それが護衛の務めですもの。しかしここでの問題は、あなたがすごくそのことを隠したという点ですよ。どうして嘘をついてまで誤魔化そうとしたのです? 私の作り話に乗っかってこの場は乗りきろうとした、その心、気になりますよね。あのジーナさん? 
黙れば黙るほど疑惑が危険な方へ進み深まっていくと思いません? どうぞ私がこれ以上変なことを想像する前に話してしまった方をおすすめしますよ?」

 また少し身体を寄せてきたな、とジーナはハイネに言葉と共に侵食されていくような感覚の中、言葉を探した。

 私といたら迷惑だろ、誰も思いませんあなただけです……見つけた言葉はすぐに自分の中で論破され消えていく。もう何も見つからない。見たくもなく語りたくもない真実しかそこにはなかった。

「あぁ思い出しちゃいました。ヘイム様はなにかをお持ちでしたよね。見覚えのある色をしたものでしたがあれはひょっとして……」

 想像が事実に近づき到達しようとしていくのをジーナには防ぐ術がなかった。聞く以外なにもない。

「お忘れの上着だったのではありません?」

 そうだよとジーナは心の中で思う。それからはじめから知っていて何故こういうことを聞くのかとも、思った。

「そうだとしましたら、なぜそれをヘイム様はお持ちなのでしょうか。それよりなにより肝心なことはどうして上着を脱いだのです?あの日はそこそこに寒い日でしたよね。理由もなく上着を脱ぐわけないですしそれにヘイム様の前で脱ぐというのも……」

 ハイネの眼は更に笑いの形となり身体もギリギリ接触しないぐらいの距離となった。

「私には分かりません」

 声の響きも変わりなにか違う段階のものとなりつつあるのをジーナにも分かりつつあった。

「あの時間帯は庭園には人がいるはずがなく文字通り二人きりでしたが……もう黙っていたらどんどん想像が広がり、こんなにおかし気なことを口走ってしまいますよ。ご婦人と一緒にいる時に上着を脱ぐって……どのような意味があるのか私はちっともわかりませんけど」

 私だけの問題ではない、これはあの人の問題となったとジーナは頭の中で静かにそれを言葉にし考えだした。そうであるというのなら、なにを隠す必要があるのか。

「分からないのなら、お教えいたしますよ」

 赤い瞳にそう告げるとジーナは勢いよく上着を脱ぎ長袖一枚の姿となった
 
 ハイネは口を手で塞ぎ見開いた目でこちらを見つめている。あっ私は変なことをしているな、とジーナは気づきながらもまぁ悲鳴をあげられなくて助かったと思いながら周りを見渡し丁度いいところに座れそうな岩が有ったので、そこに上着を掛けた。

「どうぞハイネさん。こちらにお座りください」

 意図を測りかねているのかハイネは上着とジーナを交互に見比べてからようやく口から手を離した。

「すっ座れですよね?」

「はいそうです。どうぞ。それ以外に他に何かあります?」

「なっないです。なくていいです」

 先ほどの余裕な態度から一変し身体を固くさせながら、ぎこちなく上着のうえにそっと座りながら真剣な眼差しでハイネが問うてきた。

「っで……どうするのですか?」

「うん? どうもしません。つまりこれが上着を忘れた理由です。いまのようにヘイム様を岩の上に直に座らせないために上着を脱いで、置いて、回収できずに持っていかれた。そういうことです」

 ああ言ってしまった……また弱みを握られると思うも、解放感があり清々しくもあった。これから起こるであろうハイネの嘲笑に耐えるべく構えるもそんな反応は来なかった。

「へっへぇ……こんなことをしたのですね。ふーん意外過ぎです。随分とお優しい。これがあなたのやり方なのですか?」

 笑い声どころか批難の声すらなくかえって感心された。どうしたのか? なぜ声を震わせる?

「私のやり方というか地元のやり方で。いや私自身は普段はこんなことはしない」

「いまやっているじゃないですか。ずいぶんとお得意そうで。これがあなたのお誘いかたなのでしょうね」

 ここでようやくハイネは笑った。やけに固いな。

「これは例だよ例。口で説明するのは苦手だから実際に見せたということで、ハイネさんだって納得してくれたでしょ」

 ハイネは敷かれた上着を指で抓み、それから掌でなにかを払いながら返す。

「普通に常識的に考えましてね、こんなことをされましたら納得よりもまず驚きが来ますよ。だってそうじゃないですか? あなたみたいな男が説明なしに突然隣で上着を脱いだら普通の女なら気絶か心臓停止もしくは悲鳴をあげて逃げ出すかのどちらかですよ。分かりません?」

 怒っているような口調のハイネに対してジーナはなにか納得ができない。

「だってハイネさんは落ち着いているじゃないか」

「私、だから、ですよ! 全ッ然ッ驚きませんでしたからね。だからなに? って感じです。私が心臓の強めな女で良かったですね! それでヘイム様のご反応はいかがでした?」

「あぁっと……戸惑っていたな」

 ジーナが答えるとハイネの表情が和らいだ。

「そうですよね、ああ気絶しないで良かった。あの人ちょっと気が小さいところがありますし……まっとにかく私で良いものの、もういきなりこんなことしてはいけませんよ。他の女なら怖くて泣き出したりしますから」

「分かった。しかしここまで文化的差異はこんなに大きいとはな。こっちは誰も敷布も持ち歩いてはいないし、地べたや岩の上に直接座ったり座らせて男女互いに気にしないのかな?」

「なんです? 東の男女は無神経とでも? もう考えすぎですってば。普段は粗暴極まる言動をする癖にこういう時はすごく親切丁寧ってギャップが激しいですよ。ああ私分かっちゃいました! 要するにあなたはこうやってご婦人に優しくしているのがバレるのが恥ずかしかったわけですね。馬鹿馬鹿しい。男らしいというかなんというか。とりあえずそこは納得しました。けど上着をヘイム様が回収しているのは分かりませんね」

 迷いが一瞬生じるもそれが走る前にジーナは振り切った。もはや隠したところで被害は増える一方であるのだから、道連れになってもらう。

「こちらの習慣として敷いたものに座った婦人は一度持ち帰って綺麗にして返さないといけないことになっていまして、だから」

 これは予想通りといえるがハイネは驚いた顔をした。

「えっすると、これは、私が持ち帰らないといけないのですか? それも洗濯して!? そんな強制的な罠だとは聞いていませんでしたよ」

「言い忘れました。なにせこちらだと常識でして」

「事前に聞いてれば……でも、もしもですが、断って直接に座ったとしたら保守的なあなたは私を軽蔑しましたよね?」

「いや、軽蔑するのは断る方がですよ。そっちです。この場合の男と一緒にいて女が直座りするのは、女が男を軽蔑し拒絶しているということを現すことになっていますから」

「ふーんそうですか……けれど、それってなんだかそういう関係を前提とした価値観じゃないのですか?」

 まだ体が固いというか緊張しているなとジーナは思いながらハイネの質問に答えていった。

「それはまぁ、こっちではそういう関係でない男女が二人で歩くとかまずありませんし。血縁関係か婚約関係でないと歩かないかな」

「さすがは中央から離れた場所だけありますね。男女関係の後進地って感じで」

「そうでしょうな。こちらは先進地ですよ。そういう関係でもない男女が一緒に歩いても石を投げつけられないというのが良いですね」

「石とか凄いですね。ところでもしもそんな関係でもない女の手を無理矢理に取り引っ張って
森の奥まで連れて来て、何も知らせず上着の上に座らせ、おいこら女!座ったんならこれ洗濯しろや、といった案件が発生しましたらその男をあなたの地元ではどう致します?」

「そういうことは滅多にはないけれども、基本的に二つで結婚あるいは村から追放のどちらかになりますかね」

「究極的な二つですね。じゃあいまどちらかを選べと迫られたら、どうします?」

 選べってなんだ? ハイネは目を輝かせている。冗談を言っているのだとはジーナにも分かった。こんなのはただの思考実験といったもので、どう答えても現実は左右されない。

私と彼女は無関係だから……だがそれを判断するのは……自身の頬に手を当て微笑みながらハイネはこちらに顔を向けるが、その瞳は濃い夕陽の茜色、落ち着いた色……だから単純に考えるなと心が伝えてきた。

「いやいやいやハイネさん。ここは違う他所の土地ですよ。そんな結婚とか追放とかは」

「何をむずかしく考えているんですか? 好奇心から出た質問なだけですってば。私はただジーナさんの考えを知りたいなと思っただけです。そういう関係でもない女の手を取って二人で歩いて上着に座らせて、どう思っているのかを」

「だから西ならともかくここは東の地なのでそこまで重くは考えなくてよいと」

「でもあなたはあちらの男であり頭のなかは変わってはいませんよね。前もって言いますと私は東の女であるけれども、今は流れであなたの地の風習に従っています。いわば東西入れ替わって逆となっておりますが、さてジーナさんの故郷の倫理観的には如何なされます? まさかジーナさんは地元の女は尊重するが東の女は軽蔑するだなんてことを、しないとは思いますけれど」

 表情も声も穏やかであるのにどこから放たれるのかハイネからの凄まじい圧を感じながらジーナは考える、これはなんであるのかを。

 この人は何を望んでいるのか? どっちの言葉を言ってほしいのか? その前に私はなんと言いたいのか? 微笑んだまま停止しているハイネを見ながジーナは再び考えている。

 結婚か追放か……ああまたこれか、と男は思った。

 分岐点、夕焼け、二人……いや、そうじゃない、いまの私はそうではないのだと自分に言い利かせながら男は言った。

「結婚でしょうかね」

 ハイネの表情に変化はないまま瞬きを一度してからその頭を下げた。

「申し訳ありませんがお断りいたします」

「ひゃ?」
 
 男の口から間抜けな声が漏れた。
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