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第一章 なぜ私であるのか

あなたとは結婚できません。ごめんなさい。

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「あなたとはそういう関係になるのはちょっと考えられないですね。でも気になされないでください。私、そういうお誘いをよく受けるのであなただけではないのです。あなたは多くのなかの一人にしか過ぎません」

 静かに淡々と語るハイネの言葉を聞きながらジーナは思う。気にするもしないもどういう話だったっけこれは?

「あのハイネさん、話がちょっと」

「驚きでしょうがこちらでは女にも決定権があるのですよ。悪く思わないでください」

 話が進み終わりへと着地しているようだがおかしい、これは冗談であると分かっているのに、心のどこかで本当のことのように思えてきて胸の奥に痛みが染み渡っていく感覚に襲わられ、だが何故?

「待った待った待ったハイネさん。これなにか違うと思うんだけど」

「違う、そんなはずはない……そう思いたいのは山々でしょうが、気をしっかりとお持ちください。あなたならきっと私より良い人とこの先で出会いますって」

「これって冗談ですよね。そろそろお話は止めて現実にもどって」

「いいえ違いますよ。冗談ではなくこれが現実であり真実であり事実であり、受け入れなくてはならないことです。あなたは話があると森の奥まで私の手を引っ張っていき、あなたにとって最上級のもてなし方である上着に座らせるという行為を私に行い、こうなったからには結婚を、と私に求め迫ってきたのです」

 ハイネは真顔で語り続けているがその瞳の色は好奇さが見られた。とことん冗談話なのでありこの壮大に盛って脚色するハイネの言葉を聞きながらもしかしジーナは次第に反発するどころか違う感情が芽生えだしていた。

 そうだったのかもしれない、と。そうであるかもしれないから、どこかでショックを受けている? たとえ話がおかしくても……

「そうかもしれない」

「あれ? ジーナさん。そうかもしれないってなんです?」

 ハイネの真顔が崩れ困惑の笑みが現れた。

「だから今の話がだ。私はもしかしたら心の奥でそんなことを思っていてそうしたのかもしれないって」

「いっいいんですよ。真に受けなくて。俺はそんなこと言ってないだろ! と怒って私は笑うところなのですから。だって私は話を改竄していたじゃないですか」

「とはいえなにか胸が苦しくて痛くなったし、変な声も出したし。そもそも私みたいな男が女とこうして二人で話すとか、なんだか不自然なうえに勢いで上着まで敷いちゃって。私はどうしたんだろうな。これは、あれだ、私はあなたと結婚をしたいと思ってこうするも断られて苦しさを覚えている、これだと全ての筋が通るな」

 ハイネはやたらと瞬きをしながら震えているのか首を振っているのかよくわからない動きを見ながらジーナは思う、何故この女は動揺している?

「なに冷静に自己分析しているんです? やめてください、いいですからそれ以上考えなくて。今のは全部あなたを戸惑わせて驚かしからかうための嘘話ですってば」

「それこそおかしい。そんなことをしてハイネさんになんのメリットがあると?」

「人が常に合理的な理由では動いてはいないんですよ。感情で、動いているんです。気紛れでなんとなくやることだって多々ありますし今がそれです。だいたいジーナさんの今日の行動って、あれですよね、ヘイム様に対するのと一緒ですから、これは貴婦人に対するものということですよね。それ以外に有り得ませんし」

 それはそうだ、とジーナは間を置いてから納得した。それでしかないし、そうでないといけない。

 私があの人に対してそのようなことを考えることも想像することも、有り得ない。そうでなければならない。

 そもそもの話、こんな冗談から混乱し自分の感情に虚構を混同してどうしようというのか?
お前は昨日の件の説明をしただけなのにどうして結婚の話に繋げる? あり得ない混同だ。

「いやいや見事にからかわれましたよ。危うく信じてしまうところで、危ない」

 ジーナはそう返すもハイネの表情はまだ若干引きつった微笑みのままであった。

「それなら結構なことです。あなたはとても頭が危ない人で。それで、傷つきましたよね……ちょっとぐらいは」

 ちょっとの仕返しだとしてもなんて意味のないことをするのかと思いつつジーナは付き合うこととした。

「そこそこに。まぁハイネさんには普段から色々と変なことをしているので、これはその罰だと考えます」

「殊勝な考えでいいと思いますよ。でも大丈夫です、私はそこまで気にしていませんから」

 息をするように嘘をついているが、どうしてそんなことをするのだろうとジーナの左右に揺れる瞳を見ながら思う。やがて揺れが収まるとハイネは岩から立ち上がり、敷いていた上着を手に取った。

 ジーナに嫌な予感が走り、言った。

「あっどうぞ上着はこちらに、こっちに」

「なにを言っているのですか? 私が回収してきれいにしてから返しますよ。やらなくていいとかそんなこと言ってもしやらなかったら、あなたは内心私を馬鹿にし軽蔑するんでしょうから。これだから東の女は傲慢無礼とか思うんでしょう。冗談じゃありません」

 ハイネは手に取った上着を力強く叩きながら埃を撒き散らしていた。そこまで強く叩く必要はあるのか? 

「思いませんから。東の女の人は西の風習は無視しても」

「だったら敷かなきゃ良かったじゃないですか。まっこれも見栄っ張りジーナさんの身から出た錆ということで。それに西の人と比べられてあっちは綺麗だとか言われたらすごく悔しいし、はい、もう、これは私のもの」

 上着はあっという間に畳まれ腕の中へと納まっていった。

「今度会う時に返してあげます。返す場所は人目が多い兵舎でいいですよね」

 ジーナは首を左右に振った。千切れるぐらい振ったことにハイネは声を立てて笑った。

「なに恥ずかしがっているのやら。人の目を気にして仕方がないジーナさんのためにここで、返してあげます。わざわざここにやってきてお返ししますからそういうつもりで」

 言いながらハイネはまた上着を二度叩く、するとジーナは肩や背中が痛いような気がした。新手の呪いか?

「そこまで言われるのならお願いする。どうかお手柔らかに。ここでというの、なら次回は敷布でも持ってきて……」

「いりません。敷布は私が持ってきますから、いいですね?ジーナさんは用意しないようにお願いしますよ」

 睨みつけてきたがいったいそれはなんだ? ジーナが戸惑うとハイネは微笑み上着を一つ叩いた。今度は腹が痛んだ。

「だってあなたの敷布に座ったらまた洗濯しろ、それがルールだ!なんて言われたら面倒じゃないですか。そうやって私に洗濯をさせようとする作戦かもしれませんがそうはいきませんからね」

 もうひとつおまけというのかハイネはまた上着を叩くとジーナはこれまた左胸に痛みが走った。

「あのハイネさん……叩かないで。因果は不明だけど私にダメージがくるんだ」

「あらごめんなさい。謎の呪いを発動させちゃって。でもあまりにも薄汚いのが悪いのですよ。だから反射的に叩いちゃって。まぁ安心してください、そちらの女に負けないように綺麗にしてお返しますから」

「そんな張り合わなくていいよ。だいたい西の女だって拭いて日干しして終わりだとは思うし」

「ああっそうなんですか。へぇ、でも私には関係ない話ですね。あと思うんですけど、この礼儀を考案した人って、女の人じゃないでしょうかね?」

「綺麗好きだからとか?」

「フフフッ。ジーナさんらしいお答えですね。それだけではありませんね」

 さっきの上着の叩きようからしてそれは汚れていて、それに必然的に……

「もしかして臭いとか?」

「それは言ってはいけませんよ。あなたは自分の匂いは気になりますか?」

「まぁ人間として。けど自分だと分からないからなぁ」

 ふーっとハイネが溜息をついて空を見あげた。釣られてジーナも見上げるも冬空へと変わりゆく秋空しかそこにはなかった。

 曇天のもとから蔑みの低い声が聞こえてきた。

「何ですかその言い方? はいはい私がすればいいんですよね。私が中央を代表してあなたの上着を嗅いで臭いか臭くないかといえば気が済むのなら、いいでしょう犠牲となってあなたの苦悩をお救いいたしましょう」

「そんなことしなくていい、あっ」

 止める間もなくハイネは上着に鼻を近づけそれからくっつけ嗅ぎ、離してからさもつまらなそうに言った。

「ジーナさんの匂いがします。それだけです」

「そうか。ならちょっといいか。私も嗅ぎたい」

 ジーナが手を伸ばすとハイネは上着を後ろに回した。
「なにをしているんです?駄目ですよそれ」

「えっそうなの……」

 その剣幕に引き大人しく従うとハイネは我に返ってその肩を叩いた。

「その、そんなに気にしないでください。個人的なことですから。そろそろ行きましょうか。龍の館に行かないと」

 傍らを歩き上着を持つハイネを見ながらジーナは寒いなと感じ、東の女というのは男に冷たいなとも思った。

 二人とも上着を半ば強奪して上機嫌ときているとは。そんなに男を苦しめて楽しいのか?

「綺麗にすると言っても西の女の人よりかは手を入れるだけですから、そんなに期待しないでくださいね」

 だったらいま返してくれないかなとジーナは思うも、口にしないことを以て少しだけ賢くなっているのかもしれないと寒空の下で自分を慰めた。
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