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第一章 なぜ私であるのか

私もあなたが憎いです

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 静寂が突然襲い掛かかってきたのか言葉は地に落ち消滅しジーナは冬の寒さを身に感じた。

 何かがおかしいとジーナは空を見る。そこにはいつもの曇天がありどんな答えもそこには無かった。元より捜してはいない。空に逃避行を求めただけかもしれない。

 いま現在自分は変な空間に迷い込んだという感があり、これは何か変な呪文でも唱えたからか? とその手に持っている焼き菓子を見る。もしかして出所を尋ねたのは禁忌なのであったのか? そうなのだろう、そうだから答えは簡単だとジーナは思い、不用意に入る。 

「誰が作っていたのかは、どうでもいいことですよね」
「どうでもいい、とはいったい何だ?」

 斬り返され、死亡。その反応こそいったい何だ? とジーナは固まった。そうじゃないのか、ならなにであるのか? 自分は何を言ったのかと言うと……その次に述べた言葉は……

「ハイネさん?」

 呟くもこのおかしくなった世界には何も変化をもたらさず、それどころかその言葉は誰も受け取らず宙に浮きすぐさまそのまま地面に落ちる過程のなかで淡く消えていき途中で失われた。それでももう一度ジーナは言う。それ以外の言葉はもう出せないように。

「あの、ヘイム様の前でハイネさんの名前を出すのは禁忌なのですか? ならやめますが」
「はっ? なんでそのような意味不明かつ無関係なことを聞くのだ。お前は普通に会話も出来んのか?」

 突き放したその言い方にジーナは身体を捻りヘイムの方に向ける。だがヘイムはまるで反応せずに前を向いたまま、ジーナの存在を認めぬように。

「突然なんです? なにか私が言ってはいけないことを……いつも言っているわけですがそこはあっちに置いて、今回のはなにか特別悪いことを言ってしまった様子で」

「……そんなことはない」

 まるで訳が分からない返しをされたとジーナは感じ途方に暮れ逃げ出したくなるも、それでもそこで踏みとどまった。戦場におけるいつもの彼のように。

「そんなことあります」

 興奮からか声が荒ぶるとヘイムの身体が少し反応をした。声が届いた。

「お話してください。なにを言ってしまったからそのようになってしまったことを」

 反応がさらに広まりヘイムの身体は目に見えて明らかに動揺の気を起こしている。危機が内部から発生している、何故?

「どうか落ち着いてください」
「なにを言うておる。妾は落ち着いている」

 身体の中に熱いものが走りジーナは手を伸ばしヘイムのその手を取る。拒絶の気が伝わってきた。

「こんなに震えているじゃありませんか」
「だからどうした。触ったぐらいで妾の何が分かる。お前なんかの言葉などに心が乱されることなどない。思い上がるな」

 叫び声の中ジーナは掴んだその手を自らの左頬に当てヘイムを立たせながら自分も立った。怒りだけがその身にあった。

「違う。触れれば分かることが沢山ある。だいたい何を言っているんだ。あなただって私の心に散々触れにきてかき乱してきた癖によくそんなことが言えるな。自分だけそうでないなんて嘘は言わせない」

 眼の前のヘイムの表情が苦悶に歪んでいく途中でジーナは頬に爪が立っていくのを感じた。

「黙ってくれ……もう話とうない……妾は」

 爪が頬に深く食い込んでいるのにジーナは痛みを感じなかった。眼の前には自分よりもずっと痛がっているものが、いる。だから痛みを覚えるはずがない。

「妾は……お前が憎い」
「私もあなたが憎いです」

 頬にぬるい何かが流れるものを感じるとヘイムの表情が驚きへと変わり手で何かが拭われ、それから手が頬から離れ懐から手拭が出され頬に押し付けられた。

「ヘイム様」
「なにも言うな」

 深く痛手を負っているようなヘイムにそれ以上言えずジーナはふらつきながら離れるその姿を見るしかなかった。やがてヘイムは首を振り、なにかを呟く。

「すまぬ」

 と言ったのかジーナにはよく聞こえない中でヘイムが手を振り誰かがこちらに近づいてくるのが分かった。

 そうだこの時刻は、このタイミングは……その約束の時がきたのだ。

「いかがなさいました龍身様。これはいったいに」

 ルーゲンは異様な雰囲気に気づいたようであるがジーナは制した。

「あっこんにちはルーゲン師。いえ私がいまちょっと転んでしまいましてね、いや、私だけです。一人で転んだので心配はいりません」

「おおそうですか。でもそれはいけない、いま怪我の手当でも」

「いいですいいです大した怪我ではないので。それよりもそちらをどうか。私はもうここまでですので、丁度良いところに来ていただきありがとうございます」

 そうですか、とルーゲンはいつものように恭しくその龍身の左手をとり導いて行った。

 前回同様にジーナはその後ろ姿を見送るしかなく、その途中でヘイムが振り返ることは無かった。やがて二人は館の中に入りジーナは岩の上に一人で座り手拭いを頬から離して見るとまだ乾いておらず血に塗れた状態であり、これはどう返そうかと考えながら敷布の上に転がっていた焼き菓子が目に入り口に入れ噛むと、歯ごたえはさっきと同じであるのに味が違い、旨いとは感じられなかった。塩味が強い。なんでこんなにしょっぱくなった?

 疑問を抱いているうちに頬に痛みがようやくここに到着したのか鈍く、来た。
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