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第一章 なぜ私であるのか

それこそ男女の話でなかったらなんです?

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「その頬の手当はどうした?」

 と尋ねられることにこれほど妙な気分を味わうということは今までなかった、とジーナはどうしてかバツの悪さを覚える。
 
 怪我の一つや二つなど兵隊の間ではいつものことであり、むしろ無傷な方がおかしいのが普通であるというのにジーナは気になって仕方がなかった

 しかもそれが左頬の痕の上のものであり、よりによってその形が爪跡だとは。いっそのこと剣で以って皮膚をえぐってしまおうかなと思うも鏡を見ながらそんな狂気を冷静に器用さでもって行うことなど無理だなと観念した。

 五つの爪痕。傷は狭く小さく深く特徴的なため見る人が見ればすぐに分かるであろう。目立たせないために布を張るがこれがまた目立って仕方がなかった。

 出会う皆々が挨拶代わりに気軽に聞き誤魔化し続けることにジーナの神経は疲れていた。いっそのこと正直に知り合いの女に爪を引っ掛けられました、とでも言えれば……ノイスでもあるまいしそんな醜聞は絶対に隠さなければならない。

 可能な限りあまり外を出歩かないことにしよう。兵舎の隊室に籠っていれば……と思いつつジーナは隊室の扉の前に来た。

「おや……隊長。御怪我をなさったご様子ですね」

 噂をすれば影あり曲ありなノイスが琴を奏でながら左横に現れるもかろうじて悲鳴は堪えることができた、そう私はやればできる男なのだ。できる男は耐えることができる。

「やぁノイス。ああ、これはね、転んでしまってね。妙なところを擦りむいてしまってね」

「……ほぉなるほど、たいした怪我ですね。お疲れ様です」

 労りの言葉! この言い方と触れない感じ……こいつはもしかして気づいているのではないのか? 見て見ぬふりをしあとで何か言ってくるのでは? そんな疑心暗鬼となるもジーナはそれ以上は何も言わずにノイスもなにも尋ねずに二人は一緒に隊室に入るとそこには皆がいた。

「おっジーナ隊長。傷当てが男ぶりをあげてんなぁ。まるで女にでも叩かれたあとのようだぜ」

 ブリアンがキルシュたちと牌を使った遊びをしながらからかってきたが、こんなことを言うけれどこいつは絶対に気づいてはいないなとジーナは安心した。

「どこの世界にこんな男をひっぱたく女がいるんですかね。いたとしたら鬼女ですかね」

 鬼女でなく龍女だな。アルもまた興味なさそうに辞書で勉強する傍らでこちらを見るがすぐに目を戻した。彼もまたこういう時は鈍感で助かる。

「ハイネちゃんじゃね? ほら最近、というか隊長と仲良いって女ってあの子以外見たことねぇし」

「テキトーなこと言うんじゃないよブリアンあの子は、あっそれポンポン、やった! これでで逆転だから日曜日は新しい服を買ってよおぉッ! あっそうあの子はあたしと今日は一日いたんだからないよない!」

 勝利に大騒ぎするキルシュがベットの上を飛び跳ねブリアンが呻きながら自分の顔を枕に押し付けのたうち回る。なんて理解があり頼りになる仲間たちだろうとジーナは胸を撫で下ろした。これでいいのだとこれで。互いに余計な興味を持たない抱かない素晴らしい仲間たち。

「隊長……薬がここにありますのでお使いください」

 まだこいつがいたな、と後ろでテキパキ動くノイスを尻目にジーナは心中を暗くさせた。普段と違うぞ。その動きをやめろ。

 気づいている、と思って話した方が良いかな? ジーナは考えながらキルシュ周辺の乱痴気騒ぎから離れノイスの近くに寄ってから感謝の言葉を掛けてから聞いた。

「どうもありがとう。あの、傷がどんな感じか見てもらえないか?」

 常時涼しい表情のノイスが珍しく熱を出したような表情となり首を振った。

「隊長……自身の名誉に関わることを曝け出すのはいけません。やけになってはならないのです」

 ほーら引っ掛かった。やっぱり勘付いているし勘違いしている上に同情している。こいつは……女絡みだと鼻を利いてすぐさま嗅ぎ付けて来る恐ろしい男だ! 自分が女でなくて良かった。

 同僚の真の一面を見ることができある意味で感激でもあるが、ジーナはそのままにしておきたくはなかった。それこそが自分の名誉に関わると思い。お前はあらゆる全てを間違えている故に全否定しなければならない。

「聞いてくれノイス。これはなお前が考えている怪我とは違うんだ。だからそういう風に扱わないでくれ」

「良いんですよ隊長。人生色々人情それぞれで誰にでもそういう時もあるのですから」

 と琴を軽やかに奏で人の話を聞かない。だから違ういいから聞け私はお前ではない。そうあってはならないのだ。

「女絡みというのはお前の見立て通りだが、良い話じゃない。そもそも男女の話ではないんだ」

「それこそ男女の話でなかったらなんです?」

 なんて見当違いなことをいうのだろう、どう説得したらいいんだ? 

「それは全然違うな。男女の話ではなく、だいたいこんな傷つけあう男女の仲なんてあるものか」

「隊長……傷つけあって深まる関係もありますよ。いやそれこそが本物かもしれない」

「おいおいそんなわけがないし、別ものすぎるだろうに。甘いお菓子と苦い薬草は別物だろ?」

「いえいえその例えは誤りです。痛みや苦さも時には甘美なものともなります」

「複雑怪奇だな。芸術家の芸術論みたいだがそれは私には関係は無いな」

 首を捻りながらジーナは立ち上がろうとするとノイスは琴を立て続きに異なる曲を奏でた。でもどこか同じような? でも違う?

「今の曲は同じ曲に聞こえました? その通り曲は同じでありますが、奏で方を変えたために同音異曲となったのです。違うと隊長が主張なさっても、曲は同じもの。ただあなたの力の入れかた弾きかた意識によって違うものと錯覚してしまう」

「お前の話はわからない」

 分かってはならない、とジーナは思考を停止させた。

「いつの日かあなたはお分かりになられるかと思いますよ。そんな傷をつけられるぐらいならきっとその人は……」

 また一つ琴から音が零れ落ちノイスはくるりと背を向け琴の練習態勢に入った。ジーナは溜息を吐く。

 何の参考にもならない上に見当違いも甚だしいことを言うとはノイスらしくもない、と。今の説は頭から捨て去ろうと忘れだしていると後ろから喧騒が耳に入ってきたため振り返る。

 キルシュが泣きわめきながらブリアンを責めたて彼も彼で彼女を指差して怒っているのを周りの兵が止め宥めている。あの調子ならさっき発生したのだろうがどうして今まで耳に入ってこなかったのか?

「なんで勝つの!? あたしには何も買ってあげたくないわけ? そういうことなの」

「たまたま良い手が来て勝っただけだろ! つまんねーイチャモンをつけるな!」

「嘘だよそんなの! これで勝ったらあたしは逆転負けだって分かってたでしょ? だったらなんで本気で来るの? しかも二回連続で」
「だーかーら! 二回続けて良い手がきただけだ! お前は俺に手を抜けってのか!」

 定期恒例のうんざりさせてくれる喧嘩であるのにジーナの心はいつもの不快さよりも安心感が湧いてきた。どうしてだろう? それは自分も今日似たようなことをしたからなのか?
 
 でも私達は別に彼らみたいな関係ではないどころか、その逆であるのに……いやそうだ、ちっとも関係ないのだから安心感など抱いてはならない。関係ないから関係ない。

 だいたいあの二人は今日はああだけど明日になったら、いつも通りにこのことなど無かったかのような仲の良さを見せつけるのだから、気にするだけ損であり、やりたいだけやらせておけばいい。

 この対応とていつも通りでブリアンたちを止めている彼らも毎度おなじみであるから強いてはこちらに助けを求めない。

 慣れきっていることによるこの秩序ある空間は二人の口論しか響いているだけであり、隙間隙間にノイスの琴の音とアルの書をめくる音だけが生活音として流れている。

 こうなると奇妙なことに何ひとつとして不協和音などなく、あたかも永遠なる調和が奏でられているようであり、このままなにも無く終わればいつもの隊室の日常であり、この頬の傷も明日には痛みも記憶もその痕も徐々に薄れていくだけであるだろう。

 痕跡を何一つ残さずに終わる。これでいい、これで……だが扉をノックする小さい音が近くにいたジーナの耳に入るとある予感が雷撃のように身体を走り、脊髄反射の如くに扉の前まで跳び前に立つのと開くのが同時に起き、扉の隙間からは見覚えのある瞳と髪の色があり、すぐに目が合いハイネは笑った。ジーナは、笑えない。

 そう、だから扉はそれ以上開かれない。ジーナが扉の前に立っていると知ったハイネは開くことができない。

 室内の異様な雰囲気が少し伝わったのか、ハイネはどうしていいかわからない目の動きをするなかでジーナは室内をもう一度見渡した。

 誰もこちらを見てはいない。喧嘩はまた一段と盛り上がり、各々皆自分の世界に没入しきっているために扉が少し開いたことさえ気がついていない。

 誰が尋ねてきたのかも分かるはずもない……とジーナは分かった瞬間に扉を自ら少し開け滑り込むように室外に出て小声で話かけた。

「中は駄目だから外でいいですよね?」

 扉から出てきたジーナに当惑しているのかハイネはその場から動かずに扉とジーナを交互に見る。

「えっ……あの私は中をお願いしたいのですけど」

 それは困る。いまは隊の恥そのものの状態であるのだし、興味があるかもしれないがあんな修羅場に入らせるわけにも行かず、それにみんなの前でこれを指摘でもされたら……と、ジーナは誰も廊下に人がいないことを確認すると強引だが右手でハイネの手を取りにいった。

「あの中に……」
「ごめんちょっと失礼」

 入ることを拘っていたにも関わらず抵抗なくハイネの身体は引く方へと動き出してくれた。
これでいい、とジーナは安心する。自分とハイネさんとの関係を疑っているものもいるし、頬の傷もあるしと、これで誤魔化せる。何かもうまくいくし、いかせる。

 二人は裏庭から森へ向かった。
 前回と同じ道を歩いて行くもしばらく無言であったが途中でジーナは中々長い息を吐いた。助かった、と。

「それは、ああ良かった誰にも見られていないなしめしめ、という意味の息ですよね? 安堵の息というもので」

 ここにきてハイネの口調は明るく笑いに満ちていた。

「おいおいハイネさん酷いな。まるで私が悪者じゃないか」

 そうジーナが返すとハイネの声は今度は低く暗いものとなる。

「悪者じゃないですか。あなたは犯罪人です……」

 えっ罪人? 心臓を鷲掴みされた衝撃と共に足が止まりジーナは振り向いた。そこにはハイネはいないのではないか。

 いるとしたらそこには過去からこちらに来る妄念というものであり自分を取り巻きとりついてくる……それは一つの言葉を常に唱えて……龍を……討てと……命じてくる……

 だが目の前に広がった闇はハイネの笑い声で消え光が世界に戻ったように感じられた。

「フフッ嫌ですねジーナさん、なんですかその顔に反応。まるで犯罪を指摘された犯人じゃないですか。他の女の子にもこんなことしているのがばれたとでも思いましたか?」

 しているでしょ? とその顔は言っているような気がして否定するためジーナは声は不自然に大きくなったのを彼だけは気づかなかった。

「そんな、しているわけない。私がそんな男に見えますか?」
「はい、見えます」
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