上 下
76 / 313
第一章 なぜ私であるのか

どちらが真であり正統であるか

しおりを挟む
 自分の体温が下がっていくのを感じジーナは反射的にルーゲンから顔を逸らし、心中で恐れと怒りが湧いて混じった。

 どうして聞いてくるのか、いや聞くのは当然であるというのに、なぜこのタイミングで聞くのか、それとは遠くに、離れたかったというのに。

「……はい」

 手が震えコップの茶が少し零れ指にかかるも、熱を感じないのも異常である上に、声もまた怒りが含んでおりジーナはまだルーゲンの顔を見ることができない。

 返事は、来ない。奇妙な沈黙が部屋を満たしている。ルーゲンはなにをしているのか? 何故何も言わないのか? ジーナは確かめようともせずに窓から見える空だけを見つめ、思う。自分はなにを望んでこんなことをしているのだと。

 私は罪を犯してなどなく、ルーゲン師に対して顔を背けることなど何も、なにも……ほんとうに?

「珍しい鳥でも飛んでいるのですか?」

 声に驚きジーナが顔を前に戻すとルーゲンも窓の方へ顔を向けていた。

「いっいえ、これは」

「うん? 違うのですか? 突然黙って窓を見つめだしましたから何かなと思って私も見たのですけど、では何を?」

「それは、その、生きて、そう生きていることを確認するためにこうして空を見まして」

「なるほど病床から空をよく見たからでしょうね。生きていなければ空を見ることはできない、それは正しいですよ。空もまた龍の力によるもの。龍の力によって治癒された君は龍身様の徳に触れたために、ここにこうして大急ぎで来たわけですね。世界の秩序を学ぶために」

 自らの言葉に感じ入ったのかルーゲンはしきりに頷きジーナを置き去りにしながら感じ入っていた。そうだこれなのだ、とジーナは思い出した。師はこのような方であり龍身の力の話をただ聞こうとしているだけであるのに、何故自分は違うことを考えたのか?

 夜、龍身が護衛を、治療した。これ以外のことをルーゲン師は知るはずもなく、また知る必要もなく、知ってはならない。

 このルーゲン師には、という考えに頭が支配されているのだとジーナは想像する。

「御怪我の具合は良好ということですね」

「はい。おかげ様でなんとか助かりました」

「龍身様が直々にお出でになられるとは滅多にない場合ですね。過去には将軍職のものや親族のものに対しての例が殆どでありますが、今回の護衛・側近の例は僅かにある程度ですが、ジーナ君はその例に列なったわけとなりましたね。いまは非公開にするしかありませんが僕が後々にこっそりと公文書に記録しておきましょう」

 半ば軽口ながらもルーゲンの様子は落ち着いておりジーナが心配していた変化は、無かった。

「しかし君だからということもあるだろうな」

 その言葉にジーナのあの胸の箇所に痛みが走る。

「これが他のものであったらこのようなことはなされない。治癒の力は自らの身体に痛みを引き受ける行為である以上、危険なものであり行うに当たっては会議を開く必要があるが、今回は独断で行ってしまった。事はそれほどの行為であったのです。つまりはです。このことは龍身様が君を特別なものだと見ていることの何よりの証拠といえます」

 ルーゲンはコップを手にとり口に茶を運ぶ動作をジーナはどうしてか注視していた。そこに震えはないのかと。自分のような動揺は?

 しかしルーゲンの動きにそのようなものは一切なく、ジーナの方こそまだコップを宙に浮かしたままであることに気づき慌てて口に運ぶほどであった。

「君はそのことについてどう思われますか?」

 ジーナはまだ熱い状態である茶を一気に飲み干す。それがルーゲンの言葉であるように。

「あの晩に龍身様がいらしたことについて」

 体内に入っていった茶の熱さを感じないままジーナはルーゲンの目を正面から見つめながら言った。

「……あの方がいらしたことについてですけれど、私が龍を信仰していないからではないでしょうか?」

 ルーゲンの美しい顔が歪みそれからすぐ真顔に戻り徐々に笑顔へと変わっていく様をジーナは眺め、その心の流れからどうしてその笑顔へと到達したのかが分からなかった。

「自分を否定するものを大切にすることなどありえるのですか。それは矛盾では?」

 自分が否定するものを大切にすることはありえるのか? ジーナは自らに問いを重ねヘイムのことを考える。そうだそれは

「ありえます。そもそもこの戦争の目的は龍を討つことでありますよね。しかしルーゲン師並びにソグの人達は全員龍を信仰していらっしゃる。討つというのに崇める、これこそ矛盾というものではありませんか?」

 自分の言葉がどれほどの禁忌に触れているのかぐらいは分かっている上に、相手はいわばその信仰の代表選手だということすら理解していながらジーナの足は線を踏み越え手を中に突っ込み、全身をその禁断に入り、浸る。

 ルーゲンの笑顔は変わらない。増えもせず減りもせず、かといって歪みもズレもなく大きさの違う左右の眼はそのままで、ある種の美しさを維持していた。逆に頑なまでにその心を維持しているかのように。

「その発言を僕は問題視しません。それから僕はあれは偽の龍だからという論法には逃げ込みませんから安心してください。僧団上層部でもそこの深い議論を避けていますからね。みんな薄らと偽龍論の欺瞞には気づいてはいますが、考えることはしません。そうすれば矛盾だと思わずに済む。我々の龍が真であり、中央の龍は偽りであり、ソグ山における龍戦によって正統はこちらにあると正銘したと結論付けている。公式にはそう結論づけている。ですけどねジーナ君」

 空になった両者のカップにルーゲンは茶を継ぎ足し互いに何も言わずに茶を飲む。今度こそ味が分かり、そしてそれは濃く苦い味であった。

「どちらが真であり正統であるかなのかは、誰にも分かりません。僕にもです。もちろん僕としてはこちらの龍を絶対的に真であると信じておりますが、厳密に学問的に考察をしますと、不明としか言いようがありません。信じるとは学問的態度ではないのが苦々しいですけどね」

「ごく単純に勝った方が正統ということにしたらいかがです?」

「竹を割ったようなその単純な考え方は僕は嫌いではありませんよ。僧団からしたら言下に否定すべき言葉でしょうが、目下のところ我々の行っていることはそれですからね」

「もしかして龍祖によるかつての戦いも今と同じ状況なのではないでしょうか?」

 心なしかジーナは声を小さく潜めて尋ねた。ルーゲンは反応を示さない。

「どちらが真であるか偽であるのかをめぐっての」

「僕を信頼してくれているようですねジーナ君。でも今の言葉は一線を超え過ぎているよ」

 そうは言うもののルーゲンの表情は変わらずにいる。気にしていないということか?

「あなたも私を信頼していますよね。さっきも真偽はどちらか分からないと言ったのもそういうことで、立場上まずいのに」

「立場を言うのならあなたが僕を陥れることは不可能ですが逆は可能です。生殺与奪の権はこちらにありですよ。もっともそんなことをしたら野に新たな敵を生み出すだけですからしませんけどね」

「ここまでの話を聞きますと、ソグ僧団の役割とはつまり真偽不明の龍を真だと証明するために誕生したものではありませんか?」

 更に一歩ジーナは踏み込みルーゲンを揺さぶった。わけもなく揺さぶり、その表情を変えさせてみたかった。どれほどならこの人は、と見るとルーゲンの顔が厳めしくなりその両目でもってジーナを睨み付けてきた。

「つまり君はソグ僧団とはこちら側の龍を真の正統なものとするべく大義名分や理屈や論拠を飾りたてさせるための存在、と言いたいのですかね? なるほどこれは侮辱であり到底許せる言葉ではありません。このことはバルツ殿に知らせ厳正なる処分を降せるよう協力を要請することといたします」

 完全なる通告であるというのにジーナの心には何も届かず響かず、またどこか吹き出しそうになるのを堪える気持ちにもなっていると、ルーゲンは微笑む。

「こらこらジーナ君。見抜いたにしても少しは動揺する演技ぐらいしてくれないと僕が道化じゃないですか。まぁとにかく今のは君の負けですよ。どこまでやれば僕が怒りだすかを試しているようでしたか、これぐらいではなんのなんの。だいたい君は外側の人間ですし無知ゆえのそういった発言は許容してしまいますよ。まっ他の貴族の連中やらが生意気にそう言いましたら徹底的にやり返しますけどね。矛盾と言えばこの僕があなたのような存在を受け入れるというのも、そうですねその通りですよ、そう」

 机の端から菓子皿を取りルーゲンは前に置く。この動きは何であるのか分からずにジーナは焼き菓子を一つ取り待つも話しは始まらず、齧ると同時にルーゲンが話し出した。

「この戦いは龍を肯定しながら龍を否定するという矛盾性を抱えている以上、あなたを必要としている点では僕も同様です。その矛盾を担うものもまた矛盾を背負っていなければならないかもしれません。つまりは、君という信仰していないのに戦うものの存在が最低でも一人いなければね。君の戦いがこちらのが真の龍であると証明していくのですよ。たとえ信仰が無くてもね」

「そのおかげでこうして助けていただき生き永らえるのですから、良いことでもありますね。
けどルーゲン師は一人でもといいましたが、それは違います」

 思わぬ反論にルーゲンは前のめりになるがジーナはごく軽めに返した。

「二人はいりません二人は多すぎる上に危険です。私一人だけがその役目を担えばいいのです。あの御方もそれをご理解しているからこそ、私の命が繋がれたのでしょう」

「そうか、それが君の龍身様訪問の感想か。そうだとしたら同感であるけれど、しかし君が一人だとしたら武運が尽きて討たれた場合には」

「そうしたらどこかからこの私の役目を継ぐものが現れるのでは? 私とはそのような存在であるはずですし」

 机で以って隔ててある二人の間になにか冷たいものが横ぎったような気がしルーゲンは首を振り苦笑いを浮かべた。

「それは言い過ぎだが、時代が時代です。何が起きてもおかしくはないけれど、僕としては君の活躍と命の両方を願うばかりだ。できの悪い生徒であり不思議な友である君をね」

 そういうことだ、とジーナはルーゲンと話をしているうちに心が晴れていくのが分かった。途中で心臓が痛くなるも、それを乗り越えたと。

 あの人がああいうことをしたのも龍を討つものが自分であることを見抜き、そして利用するために命を助けただけだとも。

 そうだそういうことだ。他に他意などなくその一点であり、そうであれば全ては解決する。自分の心も迷いも、なにもかもが。私は純粋さを取り戻しあの頃に戻れる。あれと出会う前のあの頃に。

「ジーナ君。傷が痛むのですか?これで拭きなさい」

 ルーゲンが手巾を取り出し渡してくるのでジーナは意味も分からず受け取るが、その時自分が涙を落していることに気付いた。

 またこれだが、どうして? と思い、そうだ傷が痛むのだと言い聞かせながらジーナは顔を拭い、ふと何気なく尋ねた。

「すみませんどうも痛くてですね。そういえば私が遠足している最中にヘイム様になにかございましたか?」

 今度はルーゲンの方からなにかが落ちた音が聞こえた。だがその右手にはコップがあり左手は机の上であり、静止した状態でありジーナが聞いた音が聞こえていないようであった。

 いまのはなんだと思うとルーゲンの声がどこか欠落し崩れているのがジーナには分かった。それもほんの少しの違いであり、また決定的なほどに違和感が生じるというように。

「あの、あの御方になにかございましたか?」

「あっはい。特になにもありませんでしたね。いつものようにお変わりなく、学び話され歩かれそう、なにも変わりなく」

 ルーゲンの眼はまたおかしな色となりジーナを見るも、すぐに元に戻り書類を手にし講義を始めようと動き出した。ジーナはいまの反応とそして自分の言葉と返事を思い返しながら、しばし身動きが取れずにいた。
しおりを挟む

処理中です...